第5話 ユキ

ユキは兵助が屋根を降りて走って行く足音を家の中で聞いていた。

眠そうに寝所へ向かったが本当は、酷く胸が騒いでいた。

ユキは不安な時ほど気にしていないふりをする。

家を守る女は見送りの時に不安な顔をしてはならないと教えられて育ったからだ。


ユキは呉服屋の娘として生まれた。

父の名は「中村屋信兵衛なかむらやしんべえ」と言った。

信兵衛は京と江戸を頻繁に行き来し京着物の仕入れをする。

当時、物流の中心は京だったが街道の開発は遅れていて江戸から京へは日本海側へ出て琵琶湖を通るルートで700km以上を移動すしかなかった。

この旅では路銀だけでなく仕入れの金も、たんまり持って歩かなければならないのだから、いつ盗賊の類に襲われるかわからない。当然、旅に出れば当分、戻っては来られないし屈強な若者ですら道中に病気や怪我で命を落とす者もいたから、ユキの母は亭主が出かける時には特別に明るく振舞い送り出し、戻るまで欠かさず願掛け神社へ参っていた。

そんな両親を見て育ったユキは、胸がざわつく時ほど平静を装っている事を兵助は知らない。

兵助の足音が遠くに消えていくのを布団の上に正坐して聞いていた。

しばらくの間、いつもと様子の違った兵助の姿を思い浮かべては不安に手を振るわせていたが「このまま待っているだけでいいのか」そんな気がしてきた。

かと言って、追いかけて行こうにも行先は分からない。


「兵助さんは火事を、、、見ていた」


一人でつぶやいて「あっ」となった。

誰もが大丈夫だと高を括った火事だが、と感じた事に気づいた。


「私も何かしなくては」


ユキは布団の上に立ち上がった。


「お父様の所へ行かなくては」


浴衣に羽織をを羽織り、髪の乱れを整えて兵助の父の部屋に向かった。


今、外で起こっている遠くの火事はなのだ。家に残る者は死ぬ気で家を守らなければならない。

ユキは家中の者を起こし、火の手が起これば屋根や壁を水浸しにする気になった。



一方、ユキの住む母屋の向かい側に使用人や職人達が住まう建物がある。

そこにトシ言う男が住んでいる。

この男はユキの父、信兵衛が生きていた頃からの使用人で、元は京寺の坊主だった。

本当の名は利執りしゅうと言う。

ある時、道に迷った信兵衛に道案内をした縁で江戸までついてきてしまった。

小坊主ならまだしも、年はユキの父と変わらなかったから付いて来られた方は少々、迷惑だった。

しかしトシは寺での暮らしは飽きた、道案内もできる。

京の女達の好みや流行りは自分もよく知っているから役に立てると売り込んで、呉服屋の付き人に納まってしまった。終いには坊主の名は捨てる。利執の「利の字だけ残してトシと呼んでくれ」と言い出した。

信兵衛は気に入ってしまい仕入れの旅には必ずトシを連れて歩いていた。

そして信兵衛の死後も、呉服屋の仕事をよくやってくれていた。


この夜、、、トシは始めに起こった火事と二度目に起こった風下の爆発音まで室内で、しっかりと聞いていた。

そして今も・・・浴衣の下に忍び装束を着込み仲間たちの伝令が来るのを待ち構えていた。




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