第28話

「いやあ、焚き火なんて久々だね」

 すっかりキャンプ場は暗くなっていた。

 そんな中、焚き火の明かりが僕らを暗闇に浮かび上がらせていた。

「お兄さんはキャンプはしないんですか? 毎年北海道に来てる、って言ってましたけど」

「そうだね。キャンプはあんまりしないかな。だって面倒だろ? おれは走るのが好きだから、走ってる時間を長くしたいんだよ」

「なるほど」

 確かにそれは言うとおりだ。

 キャンプをしようと思うと、明るい内にはキャンプ場について用意しなきゃいけない。走りたい人にとっては面倒なことだけだ。

「え~、そうですか? わたしはキャンプ、すごく楽しかったですけど」

 と、真白さんはそう言ってくれた。

 僕はその一言に、すごくほっとしていたと思う。

「おや、焚き火ですか」

 三人で火を囲んでいると、後ろから誰かやってきた。

 同じサイト内でキャンプしていた男の人だ。見た感じ老紳士とでもいうのか、かなり品と身なりのいい白髪のおじさんだった。

「あ、おじさんも一緒に焚き火します?」

 真白さんがそう言うと、白髪のおじさんは破顔した。

「いいんですか? あ、これよかったら」

 おじさんが僕らに何か差し出した。

 魚の干物だった。

「いやあ、やっぱり焚き火はいいですね。火を見ていると落ち着きます」

「そうですね」

 と、僕は頷いた。

 ……なんか、すごい自然に四人になったな。

「どうも、こんばんわ」

「あの、僕らもいいですか?」

 それからもう二人増えた。

 20代くらいのカップルだった。

 人の良さそうなお兄さんと、優しそうなお姉さんだった。

 気がつくと六人になっていた。

 最初はこじんまりとした焚き火が、みんなが集まって自分の椅子やテーブル、そして飲み物や食べ物を持ち寄ってきて、ちょっとしたパーティみたいになった。

 ……不思議な空間だった。

 ここにも、やっぱり『境界線』はなかった。

 さっきまで顔も名前も知らなかった人と、こうして笑って話しているのは何だか本当に――ただ不思議だった。

 今日、たまたまここに来ていた。

 それだけだ。

 今日、この時間、この場所。

 どれか一つでもズレていたら、僕は一生、この人たちと出会わなかっただろう。

 ……そう。

 もしかしたら、真白さんと出会っていなかった可能性だってある。

 僕がたまたまあそこを通りかからなかったら。

 たまたま真白さんに気がつくこともなく、スマホを見ながら歩いていたら、いまここで僕はこうしていなかったと思う。

 もし一人でここに来ていたら。

 僕は、こんな不思議な空間に足を踏み入れていただろうか?

 ほんのちょっとだけ先にあった、この知らない世界に。

「それにしても、今日は天気が悪いですね」

 白髪のおじさんが真っ暗な夜空を見上げた。

 カップルの二人が残念そうな顔をした。

「そうですね。まぁ、天気ばっかりは仕方ないですね。神様の決めることですから。雨が降らなかっただけ運がよかったですよ」

 と、人の良さそうなお兄さんは言った。

 確かにそうだな、と僕は思った。

 雨が降ったらキャンプどころじゃない。

 こうしてみんなで焚き火を囲むこともなかっただろう。

 だから、これはこれでいいんだと思った。

 それから夜の九時を過ぎたくらいになって、焚き火はお開きとなった。

 SRのお兄さんも、白髪のおじさんも、カップルの二人も、それぞれの場所に戻った。

 僕らは再び、二人になった。

「……すごい静かだね」

 と、真白さんが言った。

 静かだった。

 ここには心地よい静けさが水のように満ちている。

 その中に焚き火の炎が灯り、わずかにパチパチと音を立てていた。

「……うん、そうだね」

 さっきまで賑やかだったのが、何だか夢の出来事のようだった。

 確かに現実だったはずなのだ。

 なのに、過ぎ去った時間を思い返すと、それが本当に現実だったのかどうか、少し自信がなかった。

 過ぎ去った時間は自分の心の中にしか存在しない。

 それはもう誰にも見えない。

 自分にしか見えない。

 じゃあ、自分がその形を疑ってしまったら、それはもう現実じゃなくなってしまう。自分が生み出したただの妄想だったのか、それとも事実だったのか。

 だから、思い出に残る――ぐらいではダメなのかもしれない。

 それこそ、心に焼き付くというか、それくらいでなければ。

 それからしばらく僕らは焚き火を続けながら空を見上げ続けたけど、運良く空が晴れるということはありそうもなかった。

「……そろそろ寝よっか」

 真白さんがそう言った。

「そうだね。寝ようか」

 僕は頷いた。

 ……残念だけど、仕方がない。

 天気のことばっかりはしかたがない。

 さっきの人の良さそうなお兄さんの言うとおり、これはばかりは神様の決めることだ。

 人間にはどうこうできない。

 僕は彼女に、かつて見た光景を見せてあげたかった。

 今も鮮明に、心に焼き付いているあの光景を。

 そう思いながら、僕らはテントに入って寝袋にもぐりこんだ。

「ねえ、ソータくん」

「ん? どうしたの?」

「えっと……ありがとね」

「え? どうしたの、急に?」

「なんでもないよ。ただ、何となく言いたかっただけ。じゃ、おやすみ」

 真白さんはすっぽりと寝袋に隠れてしまった。

「……うん。おやすみ」

 僕も眠った。

 まだ、もう少し、時間があると信じて――


 μβψ


「ソータくん! ソータくん!」

「……え?」

 僕を呼ぶ声がした。

 寝ぼけ眼で目を擦ると、すぐ近くに真白さんの顔があった。

 一気に眼が覚めた。

「ど、どうしたの?」

「外、外見て!」

 真白さんが僕を引っ張った。

 何だかとても慌てているようだった。

「何かあったの?」

「いいから、早く!」

 ぐいぐい引っ張られた。

 ……何だ? どうしたんだ?

 変な虫で出たんだろうか。まさか熊じゃないだろうし……。

 僕は何だかよく分からないままテントの外に引っ張り出されて――そこに見えた光景にびっくりしてしまった。

「……え?」

 空が晴れていた。

 そこにはいつか見た、満点の星空が広がっていた。

 最初は夢かと思った。

 いま、自分は都合のいい夢を見てるんだと思った。

 だって、そりゃそうだ。

 寝る前まで、晴れるような気配なんてなかった。

 それが今は――雲なんて、どこにもなかったのだから。

「ソータくん! すごい、すごいよ、これ!」

 真白さんが興奮していた。

「あ、ああ、うん」

「どうしたの? 嬉しくないの?」

「いや、なんていうか信じられなくて……これ夢じゃないよね?」

「夢じゃないよ! 夢じゃない!」

 はしゃいでいる真白さんを見ていて、ようやく心が現実に追いついてきた。

 ――ああ、そうだ。

 この星空だ。

 この降りそそいでくるような、手を伸ばせば届きそうな、宝石のような無数のきらめき。

 一瞬、僕は数年前にタイムスリップしていた。

 振り返れば、そこに父さんがいてくれるような気がした。

 でも、もちろん父さんはここにはいない。

 あの星空のどこかにいる。

 気がつくと、僕は思わず――星に向かって手を伸ばしていた。

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