第09話

「おい」

「え?」

 ハッと我に返った。

 学校だった。

 今は昼休みだ。

 ここは学食で、いつも通り三人で来ていた。

 陽介と信一が怪訝な顔で僕を見ていた。

「お前、今日なんかいつもよりぼけっとしてないか?」

 と、陽介が言った。

「いつもより、っていうのはどういう意味かな……?」

「いや、だってお前いつもぼけっとしてるじゃん。なぁ信一?」

「ああ、確かに」

「それはぼけっとしてるんじゃなくて、考え事や思索に耽ってるんだよ」

「ふうん? 何考えてんの?」

「え? せ、世界平和とか……?」

「こりゃ何も考えてねーな……」

「ああ、バカ丸出しだな」

 言われたい放題だった。

 ……ぐぬぬ。

 でも、確かに今日の僕は上の空だ。

 ……思わず約束しちゃったけど……本当に真白ましろさんがウチに来るのか……?

 朝からそのことばかり考えていた。

 いや、だって……女の子が家に、自分の部屋に来るんだよ?

 あ、やばい……また緊張してきた……。

「……おい、何かまたぼけっとし始めたぞ?」

「これは重傷だな……」

 そんな二人の会話は、僕にはまったく聞こえてなかった。


 μβψ


 放課後になった。

「ごめん、今日用事あるから先帰る!!」

 一番に教室から飛び出した。

 そのまま駅まで走り、電車に飛び乗った。

 いつもより電車が遅く感じた。

 駅に着いたら電車を飛び出して、いつものベンチに急いだ。

「やっほー」

 真白ましろさんはすでにそこにいた。

 僕はぜいぜいと息を切らしていた。

「あれ? どうしたの? 何でそんなに息切らしてるの?」

「う、ううん。何でもないよ……」

 相変わらず早いな……?

 今日こそは先に待ってるつもりだったのに……。

「じゃあ、とりあえず行こうか」

「うん。ソータくん、バイクで駅まで来てるんだっけ? どんなバイクなの?」

「それはまぁ、見てからのお楽しみということで」

「なんでもったいぶるの? いいじゃん、教えてよ」

「いやいや、ははは」

 ……大丈夫かな。

 いや、僕は個人的に、あのカブは世界一かっこいいと思っている。

 ……でも、やっぱり女の子から見たらおじさんくさいかな?

 リトルカブとか最近のモデルならまだしも、僕のカブは角目のカブだ。ようするにヘッドライドやウィンカーの部分が四角いやつだ。人によっては、これはとてもダサく見えるらしい。おまけに前カゴがついていて、ハンドルカバーまでついている。更に言うならリアボックスはアイリス箱(ステッカーがいっぱい貼ってある)だ。

 ……あれ? 大丈夫か? 今さらだけどものすごい不安になってきたぞ。

 そう思っていると、

「実はわたしのお兄ちゃんもバイク乗ってるんだよね」

 と、真白さんがそんなことを言い出した。

「え? そうなの? ていうかお兄さんいるの?」

「うん。お兄ちゃんは大型のバイク乗っててね、たまに後ろに乗せてもらってたんだ」

「へ、へえ……そうなんだ?」

 お、大型バイクだと……?

 それがどんなバイクか知らないけど、大型と比べればスーパーカブなんて自転車みたいなものだ。

 一気にハードルが上がった。

『……え? もしかしてこのバイク……? うわぁ、ごめんこれに乗るのは無理』

 一瞬、そんな光景が頭をよぎった。

 うう、大丈夫かな……?

 ちょっと不安になりながらカブの置いてある駐輪場までやって来た。

「ええと、これなんだけど……」

「あ、カブじゃん!」

 真白ましろさんが僕のカブに近寄った。

 ……おや?

 思った以上に好意的な反応だった。

「あれ? これヘッドライトとか四角いんだね。初めて見た」

「ああ、うん。これ、すごい古いヤツでさ。父さんが乗ってたヤツをもらったんだ」

「へえ、そうなんだ。でも全然古い感じしないね」

 真白ましろさんはカブをじっくり眺めた後、

「かっこいいね、これ」

 と、そう言って笑った。

「……」

 かっこいいね。

 かっこいいね。

 かっこいいね。

 真白さんの言葉がこだました。

「ん? どうかした?」

 ハッと我に返った。

「う、ううん。何でもないよ。ははは」

 ……ダメだ!! 泣くな!!

 あれだけ周囲からはダサいと言われていたカブを初めて褒められた。

 ……正直、めちゃくちゃ嬉しかった。

 荷物はアイリス箱に放り込んで、ヘルメットロックにぶら下がっていた予備のヘルメットをカバーから取り出した。

 ……ついに、こいつを使う日が来たか。

 改めて説明しよう。

 こいつは僕がいつ彼女が出来てもいいように用意しておいたヘルメットだ。

 そう、いつ彼女が出来て、二人乗りをすることになるか分からない。その日のために備えて、僕はこのヘルメットを用意していたのだ。

 妹には「は? 彼女用のヘルメット? うわあ……」と可哀想なものを見る目をされた逸品だ。

 ……自分でも使う日が来るとは思ってなかったけど。

「どうしたの?」

「ううん、何でもないよ。あ、ヘルメットこれ被って」

「あれ? ソータくんのは?」

「僕のはいつも使ってるやつがあるから」

「そうなんだ。じゃあ借りるね」

 真白ましろさんがヘルメットを被り、タンデムシートに座った。

 夢にまで見た光景がそこにはあった。

 ……お、女の子が。

 僕のカブの、タンデムシートに座っている……?

「……」(ぶわっ)

 こらえていたものが溢れだした。

「じゃあさっそく出発――って、どうしたの!? 何で泣いてるの!?」

「うう……いや、何でもない、何でもないんだよ……」

「どうしたのソータくん!? お腹でも痛いの!?」

「強いて言うなら……胸が痛いかな……」

「胸が!? また!? やっぱり病院行く!?」

 ……この日のことを、僕はきっと一生忘れないだろうと思った。


 μβψ


 ぶろろー、と家に帰ってきた。

 いつものように家に入った。

 母さんは自分の部屋じゃなくてリビングにいた。どうやらコーヒーを飲んでいるようだった。

「ただいま」

「ん? ああ、おかえり」

「ゆっくりしてるみたいだけど……仕事終わったの?」

「終わったと言えば終わったし、終わってないと言えば終わってないわね」

「ええと、どういうこと……?」

「編集の人間がわたしの原稿を観測しない限り、結果は確定されないのよ」

 ふっ、と母さんは笑った。

 言っていることはよく分からないけど、終わっていないんだなということだけは分かった。

「ちょっと友達が遊びに来てるけど、気にしないでいいから」

「え? 友達? あんた友達いたの?」

「いやいるけど!?」

 さらっとものすごい失礼なことを言われた。

 母さんは笑った。

「冗談だって。でも家に連れてくるなんて珍しいじゃない。まさか女の子じゃないでしょうね? って、あんたに限ってそんな訳ないか」

 ははは、と笑って母さんはコーヒーに口を付けた。

「すいません、お邪魔します」

 真白ましろさんが廊下からひょこっと顔を出した。

「ぶはっ!!」

 母さんが盛大にコーヒーを吹き出した。

「何してんの!?」

「げほ!! ごほ!!」

 めちゃくちゃ咽せていた。

「あーもうめちゃくちゃだよ……」

 急いでテーブルを拭いた。

「……え? ね、ねえちょっと? あの子、もしかして女の子?」

「逆に聞くけど男に見える?」

「それはそれでアリだけど……」

 何がアリなのかはよく分からなかった。

「あのー……大丈夫ですか?」

 真白ましろさんが遠慮がちに聞いてきた。

 母さんは慌てて振り返った。

「あ、ああ、いや全然平気よ。ゆっくりしてってね」

「はい。ありがとうございます」

 真白ましろさんは上品に微笑んで頭を下げた。その所作は完全にお嬢様のそれだった。

「……」

 だー、と母さんのマグカップから残りのコーヒーがこぼれていた。


 μβψ


 ……色々あったが、ひとまず部屋に来た。

「……真白ましろさん、さっきまるで別人みたいだったね?」

「え? そう?」

「うん、まるでどこかのお嬢様みたいだったよ」

「まあ、わたしこう見えてけっこう優等生だからね」

 むふん、と真白さんは胸を張った。

 確かにさっきのお上品な真白ましろさんは完璧な優等生に見えた。あれだけ見れば、の話ではあるけど。

「それより、ほら写真見せてよ」

 早く早く、と急かされた。まるでクリスマスの子供のようだった。

「あ、うん。ちょっと待ってて」

 僕は型の古いノートパソコンを引っ張ってきて、それをテーブルの上に置いた。

 二人で並んで画面を見るような感じになった。

 ……距離が近いな。

 そっと真白ましろさんの顔を窺った。彼女は特にこっちを意識しているような感じはなかったけど……僕のほうはそうもいかなかった。

 それはそうだ。こんな可愛い子が横にいて、意識しない男なんているわけがないのだ。

 というより、ここは僕の部屋だ。

 ……いや、だってさ、僕の部屋に女の子がいるんだよ?

 どういう奇跡なの、これは?

 隕石が落ちてくる可能性のほうがどう考えても高い。もしくは宝くじで三億当てるほうがずっと簡単だろう。もちろん三億もらうよりこっちのほうがずっと嬉しい。

 やばい、意識したら緊張してきたぞ。

 ……落ち着け。落ち着くんだ。まずは素数を数えるんだ。素数を……あれ? 素数ってなんだっけ?

「どうかした?」

 真白ましろさんが僕を見て小首を傾げていた。

 どきりとした。

「い、いや、何でもないよ」

 慌てて画面に視線を戻した。

 ……この距離で視線を合わせるのは危険だな。僕の心臓はそこまで強くできてない。

 いつものパスワードを入れるだけの作業に少し手間取った。

 マウスでカチカチとフォルダを開いていく。

「えーと……あった、これだ」

 お目当ての写真データが入ったフォルダを開いた。

 とりあえず一番最初の写真を開いた。

 その写真は家の前で撮ったもので、これから北海道に行くぞ、という感じの写真だ。スマホの中にも、この写真は入っている。個人的にとても思い入れのある写真でもあった。

「これ、もしかしてソータくんのお父さん?」

「そうだよ」

「全然似てないね」

「よく言われるよ」

「これ、後ろに乗ってるの誰?」

「それ僕だよ」

「え!? これソータくん!? うそ!?」

 真白ましろさんが驚いた顔をした。

「え? なんでそんな驚くの?」

「だ、だって……え? なに、これ? メチャクチャ可愛いんだけど……? これ女の子じゃないの?」

「僕だけど」

「……ねえ、ソータくん。今度、女装とかしてみない?」

 真白ましろさんの目が一瞬、妖しい光を帯びた。

 何となく寒気がした。

「そ、それは遠慮しとくよ」

「え!? どうして!? 絶対に似合うって!」

「似合うとかの問題じゃないんだけど……それよりほら、他にもいっぱい写真あるよ」

 とりあえずこの話題はやんわりと流した。

「すごいたくさんあるね」

「父さんがカメラで撮りまくってたからね。だから映ってるのはほとんど風景か僕なんだけど」

 カメラマンである父さんが写っている写真はそう多くない。たまに人に頼んで二人で撮った写真に写っているくらいだ。

「好きに見ていいよ」

 ノートパソコンを真白ましろさんの前に動かした。

 真白ましろさんはカチカチ、とマウスを操作し始めた。

「……わあ、すごい」

 彼女の目が大きく見開かれた。

 画面に映し出されたのは北海道の雄大な自然風景だった。

 写真は本当にたくさんある。

 大半は風景写真だ。同じ風景を違うアングルで何度も撮ったりしているから、写真の数は本当に膨大だ。

「……」

 かち、かち、と真白ましろさんは一つ一つを食い入るように見ていた。

 僕もそれを横で見ながら、かつて見た風景を頭の中で重ね合わせていた。

 意識はちょっとしたタイムスリップを味わっていた。

 破天荒な父さんには、あの旅で随分と振り回された。

 最初は僕もわくわくしていた。フェリーに乗っている時は、本当に胸が躍るような気持ちだった。

 でも、あの旅は楽しいことばかりではなかった。

 キャンプ場についたらもうクタクタで、アウトドアを楽しんでいるような余裕がないこともあった。雨でびしょ濡れになったこともあったし、バイクに長時間乗る苦痛で泣いたこともあった。

 正直、途中でもう帰りたいと思ったこともあった。

 ……でも、それも全部ひっくるめて、いまでは大切な思い出だった。

 ふと、彼女の手が止まっていることに気がついた。

 ……ん?

 彼女は一枚の写真をじっと見ていた。

 それは夕暮れの海を撮った、一枚の写真だった。

「ああ、これ黄金岬で撮ったやつだね」

「黄金岬?」

「そう。そういう名前の岬があるんだ。確か留萌るもいのあたりだったと思うけど」

 この時は留萌を通ったのは旅の最後のほうだった。

 黄金岬にはちょっとしたテントサイトがあるけど、本当にこじんまりとしている。確かその時はキャンプはせず、どこか宿に泊まったはずだ。すでにサイトが満員だったのだ。

「……すごい綺麗。現実じゃないみたい」

 真白ましろさんはその一枚の写真を、ずっと食い入るように見ていた。

「それ、そんなに気に入った?」

「……うん。これ、実際に自分の目で見たらどんな感じなんだろう? って思って」

「そこの風景は本当にすごかったよ。僕もよく覚えてる」

 写真は、この風景の一部を切り取ったものでしかない。

 それでも十分、これには人を惹きつける魅力がある。

 だけど……その場にいて見る〝全部〟は、もっとすごい。

 それこそ、頭に焼き付いて一生忘れないくらいの景色だ。

「そうだ。ちょっといいかな」

 僕はパソコンを自分のほうに向けて、カチカチとマウスを動かした。

「実はもう一つ、かなりおすすめの写真があるんだ」

「どんな写真?」

「ええと……あった」

 僕は写真を開いて、真白ましろさんに画面を向けた。

「……え? なに、これ?」

「これは星空の写真だよ。すごくよく撮れてるでしょ?」

「……」

 真白ましろさんはまるで言葉を失ったように画面に魅入られていた。

 画面にはまるでCGかと思うような、とても綺麗な星空の写真が映っていた。

 天の川がはっきりと分かる。まささに満点の星空、という写真だ。

「……これ、本物の写真?」

「うん。星空って撮るの難しいらしいんだけど、これも父さんが撮ったんだ。何か色々とカメラの調整に苦労してたよ」

「ソータくんは、これを実際に見たの?」

「うん。すごかったよ。これは富良野のキャンプ場だったけど……本当に、星空に手が届くんじゃないかと思ったよ」

 人生で最も鮮明に焼き付いている景色は、きっとこれだろう。

 あの時感じた気持ちを言葉にすることは難しい。だからあの時の気持ちは、今も言葉にならないまま、この胸の中に残っている。

「星空に手が……?」

「そう。うまく言えないんだけど……本当にそんな感じなんだ。綺麗とか美しいとか、どれだけ言葉で言っても足りないというか……本当に、この世の風景じゃないみたいだったよ」

「……すごい」

 真白ましろさんは星空の写真をスライドさせていった。

 しばらく、彼女は無言で写真を見続けていた。

 僕は画面ではなく、彼女の横顔をちらちらと窺った。

 ……もし真白ましろさんと北海道に行ったら、楽しいだろうな。

 ちょっとだけ。

 本当にちょっとだけ、僕はそんなことを思ってしまった。

「僕さ、今年北海道に行こうと思ってるんだ」

「え? 北海道に?」

「うん。この時は父さんに連れて行ってもらっただけだったけど、今度はちゃんと自分の足で回りたいんだ」

「もしかして、あのカブで行くの?」

「うん。後ろにいっぱい荷物載せてね」

 信一の言うとおり、バイクでキャンプツーリングなんてしんどいだけだ。

 わざわざ自分からしなくてもいい苦労をしに行くようなものだろう。

 それに陽介の言うとおり、夏場は虫だって多い。

 何か良いことあるかって言われたら、何もないような気もする。

 でも、それでも行きたいのだ。

 あのカブで。

「ね、ねえソータくん」

「ん? なに?」

 真白ましろさんが真面目な顔で僕を見ていた。

「えっと、その……」

 彼女は何か言おうとしたけど、

「ううん、ごめん。やっぱりなんでもない」

 と、誤魔化すように笑った。

「その、気をつけて行ってきてね」

「あ、うん」

 ……この時、彼女が何を言おうとしたのか。

 気のせいでなければ、僕はこう言おうとしたんじゃないかと思った。


 ――わたしも、一緒に連れてって。

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