さようなら、大好きでした

妻尾典征

プロローグ

ウィンターミュート

 ……多分、あの日からずっと、わたしは〝終わることのない冬〟に閉じ込めらたままだ。

 時計の針は動くのをやめてしまって、あれから一つも前に進んでいない。

 昔のわたしは夏が大好きだった。

 でも、今は夏が来てもなにも思わないし――何も感じない。

 いつか来る夏を待ち焦がれることも、いつの間にか過ぎ去っていく夏を惜しむこともなくなった。

 ふと気がつくと、わたしはいつも真っ白な景色の中に佇んでいる。

 見渡す限り雪で覆われていて、いつまでも雪は降り止まない。

 音はない。

 熱もない。

 どこまでも静かだ。

 ここには何も無い。

 降り続ける雪が全て食べ尽くしてしまうからだ。

 いまが確かに夏であろうと、わたしの心はそういう世界に囚われたままで、だから見ているもの全てが意味のない偽物みたいだった。

 窓の外で鳴いている蝉の声がとても遠く聞こえる。

 今年もまた、どうやら夏が来て、そして過ぎ去っていくところのようだ。

 と、本当に他人事のようにそう思った。

 ……わたし、

 まぁ、どうせ時計の針は止まったままだった。

 大したことのない時間だ。

 そう思っていた。

「……あの」

 声が聞こえた。

 それでわたしは、ふと我に返った。

 あんなにもうるさい蝉の声がやけに遠く聞こえるのに――なぜか、その声だけはとてもはっきりと聞こえた。

 どこか頼りなくて、弱々しい声だったのに……その声は、なぜかわたしの心に届いたのだ。

 顔を上げると、そこには見知らぬ男の子が立っていた。

 わたしと同じくらいか、もしくは少し年下だと思う。

 高校生と言えば高校生だし、中学生と言えば中学生くらいにも見える。

 何だか可愛い感じの男の子だった。

 わたしは車椅子に座っているから視線が少し低いけど、きっと身長はわたしよりも低いだろう。

 ……知らない男の子だ。

 向こうから話しかけてきたけど……わたしを誰かと間違えているのだろうか?

「……ええと、すいません。どちら様でしたか?」

 わたしが首を傾げると、男の子はハッとしたような顔をした。

 ……気のせいじゃなければ、その子はほんの一瞬、すごく泣きそうな顔をしたように見えた。

 でも、それは本当に一瞬だった。

 男の子はすぐに笑顔を浮かべた。

 不覚にもちょっとどきりとしてしまった。

「こんにちは、はじめまして」

「え? あ、ああ、はい。はじめまして……?」

「僕、葉月蒼汰はづきそうたって言います」

「は、はあ。葉月はづきさん、ですか」

 なぜか自己紹介をされてしまった。

 ……ええと。

 ちょっと困った。

 ここは礼儀として、名乗られた名乗り返すべきなのだろうか?

 そう思っていると……不意にあれ? という感覚がした。

 ソータ。

 初めて聞いたはずの響きなのに、なぜか懐かしいような感じがしたのだ。

 ……どうしてだろう?

 内心で少し首を傾げていると、

「君は、れいげつ真白ましろさんだよね」

 と、彼がわたしの名前を呼んだ。

 え? と驚いていると、彼はこう続けた。

「実は、から頼まれたんだ。君を〝冬の世界〟から連れ出してあげて欲しいって」

 ――冬。

 その一言に、今度はわたしがハッとする番だった。

 ……なぜ?

 なぜ、この男の子はそのことを知っているのだろう?

 おもむろに彼はわたしに向かって手を差し出した。

「……え、ええと?」

 差し出された手と、彼の顔を交互に見やった。

 彼は何も言わない。ただ優しげな顔でわたしを見ているだけだ。

 それはとても他人に向ける眼差しではなかった。

 とても優しい目だった。

 ……なぜ、この人はわたしをそんな目で見るのだろう?

「……」

 気がつくと、わたしはおずおずと自分の手を伸ばしていた。

 ……なぜ、そうしようと思ったのか。

 それは自分でも分からなかった。

 そう、この時のわたしはまだ何も知らなかった。

 いま、終わるはずのない冬の世界が終わり、そして夏への扉が開かれようとしていることを――わたしはまだ、何も知らなかったのだ。


μβψ


 ……これは冬に出会い、そして夏に消えてしまった〝彼女〟との物語。

 終わるはずのない冬が終わり、夏への扉が開かれるまでの――かけがえのない、たった半年の物語だ。

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