第3話 ゴッホを崇拝する少年。

 彼方(カナタ)は、令谷の数少ない友人だった。

 少年といった容姿だが、もう今年、二十歳になる。

 彼は日の当たるアパートの一室で国から金を貰い暮らしている。何度か精神障害者施設にも入退院を繰り返しているが、措置入院という事でいつも二、三ヵ月程で外に出される。そして、ふらふらとこの一室で暮らす事になる。


 確かホーム・ヘルパーといった介護士が付いているが、折り合いが良くないのだと聞く。介護士は彼方の買い物に付き合ったり、多少の生活の面倒を見ているらしい。


 令谷は彼の家のチャイムを鳴らす。

 中から空いている、入ってよ、と声が返ってきた。


 部屋の中に入る。

 相変わらず、異臭がする。

 アクリル絵具の臭いが、ゴミの臭いと混ざってそれが染み付いている。介護士があらかたゴミを片付けたと思うが、夏場になると、すぐに彼は異臭の元を作り出す。以前は虫が大量に這っていた。令谷はベント剤を買ってきて置いてやった。


 壁一面には彼の自画像が書かれている。

 そこには痛ましく弱弱しい病人の顔をした彼の表情がくっきりと写実的に描かれていた。部屋の隅には、棚があり、棚の上には大きな花瓶がある。花瓶の中には、いつ買ってきたのか分からない、枯れ果てて原型を留めていないヒマワリの花が生けられている。


「彼方。灰皿あるか?」

「うん。そこにリンゴジュースの空き缶があるから、それを灰皿に使って」

「分かった。ベランダで吸った方がいいか?」

「どっちでも。僕は気にならないよ」

 そう言いながら、熱心に痩せ細った少年は鏡台とキャンバスを見比べていた。


 この部屋に入居してから、彼方は発狂して自らの左耳を大型のカミソリで斬り落とした。すぐに縫合手術が行われたが、錆びたカミソリで傷口がギザギザになるように切断したのと、何よりも彼方自身が縫合手術を拒んでいた為に、結局の処、彼方は左耳が欠損したまま生活する事になった。それから、一週間くらい病院での治療が行っていた後、精神病院に一か月くらい入れられた。


 彼方はゴッホになりたかった。

 あのオランダの画家のように才能ある狂人になりたかった。

 それだけが、自分という存在以外の全てを失ってしまった彼方にとっての唯一の希望であり、救いだった。


「いい自画像が描けたか?」

 ベランダの外で煙草を吹かしながら、令谷は親友に訊ねる。


「今日は機嫌が悪そうだね」

「ああ。煙草の値上がりが、この前あったからな。次は酒税だそうだ。政府はクソみたいな税金泥棒だ。クソみたいな連中が為政者をしているから、クソみたいな連中がのさばり歩いている。そして弱い連中は踏みにじられる。俺は時折、汚物と汚水に塗れた地獄を彷徨っているんじゃないかって気分になる」

 煙草の煙は春の風に乘っていく。

 もうすぐ、梅雨だ。


「自画像は良いものは描けない。俺には絵の才能が無い。でも、俺は絵を描く事にしか希望を持てない」

「彼方。才能なんて分からない。お前の尊敬する統合失調症の画家は生前、一枚しか絵が売れなかった。俺から見て、お前のキャンバスは彩りを帯びている。俺は絵の事は分からないが、自信を持て」

「ありがとう」


 部屋のゴミは、週に一度訪れる介護士が捨てるのだろうが、臭いが酷かったので、令谷はゴミを片付けてやる事にした。彼方はコンビニ弁当が高い言い、スーパーで半額の生肉を火も通さずにそのまま口にする。鶏肉のパックがチキンの骨と一緒に地面に転がっていた。生の鶏肉を口にするのは食中毒のリスクがある。彼方は食事さえも破滅的な行動の一環として行っている。


「最後に寝たのはいつだ?」

「ああ。四日前だと思う」

「…………、…………そのうち、死ぬぞ」

「俺は絵を完成させたい。自分にとって満足のいく絵を…………」

 そう言いながら、彼方は筆を取るのだった。


 キャンバスにはグシャグシャの顔が描かれている。

 どうやら、彼方の今の精神状態はマトモに自分の顔を認識出来ないみたいだった。そういった時の彼方はひたすら自傷行為を繰り返す。彼の身体にはパレットナイフによる自傷痕が大量に刻まれている。令谷は彼方をどうしてやる事も出来ない。あの日から、彼はおかしくなってしまった。ほぼ廃人状態で、彼は絵を描く以外の事がマトモに出来ない。寝食さえも…………。


「ベッドで寝かせて貰うぞ」

 そう言って、令谷は彼方の埃臭いベッドの上に横たわった。

 このベッドは、ほぼ令谷専用になっている。

 何故なら、彼方は椅子の上や床でばかり寝ているから。



 彼方の両親は『ワー・ウルフ』によって惨殺された。

 ワー・ウルフは人間の脳に執着している化け物で、彼方の両親の頭蓋を開いて、脳の中に異物を刺し込んでいった。父親の方は大量の鍵。母親の方はゲーム・センターで使われるような玩具のメダルを前頭葉に沈められていた。結果、二人共、何日か生きた後、自殺したらしい。焼身自殺だった。ワー・ウルフが彼方の両親の脳に一体、何をしたのか分からない。


 彼方はワー・ウルフ事件の最大の被害者の一人であり、そして身寄りの無い人間になった。彼には四歳離れた妹がいたが、妹は頭蓋骨を水槽にされ、彼女の頭に開かれた大きな孔には熱帯魚が泳いでいたのだと聞く。


 令谷は彼方の為にも“人狼狩り”を行い、そして令谷が最初に出会った人狼である『ワー・ウルフ』を始末する事の為にのみ、令谷は生きている。


 この仕事をしていれば、いずれ、必ず出会う事になるであろう。

 令谷は望んでいる『ワー・ウルフ』に、銀の銃弾を撃ち込む事を…………。


 携帯が鳴る。

 仕事の電話だった。

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