第8話 夫婦の会話

 ここは岡島家の夫婦の寝室…。子ども達も寝静まり、ひそひそ話が続いていても誰も聞いていないはず。でも、高校3年生で受験生の長男涼平君は、受験勉強のため起きていた。ぼそぼそ話す両親の話を聞くともなく、そう…聞いてしまっていた。


◇◇◇


「ごめんなさい。勝手にあんこちゃんのお店に行ったことは謝るわ。でも、どうしてもお会いしたくて…。省吾さんが好きになった人だと思うと、居ても立っても居られないって感じになっちゃって。もう、ご機嫌を治して…ね?」


「そりゃあね、僕だって君に悪いことしていたなぁって思うけど、やっぱりそれはやりすぎなんじゃないかな。彼女だって嫌な気分であったろうし…。今回の件は、一方的に僕が悪かったんだから、君に謝罪をするよ、本当に心から…。でもさ…。」


「省吾さんは、何であんこちゃんに手を出さなかったの?」


「え?それ聞く?」


「だってとっても魅力的な女性だったから…。言いにくい?」


「…になっちゃったんだよ。」


「え?」


「EDになっちゃったんだよ。」


「EDって、あの勃起不全のED?」


「そう、そのまんまのED。どうしても、その気に身体がならなかったんだよ。」


「じゃあ、その気になったらやっちゃってたの?」


「ねぇ、もういいでしょう?もう聞かないで、浮気はしてないんだから…」


胸中は複雑ではあるけれど、本当に身体の関係がなくってほっとしている自分がいる…。私は自分の心の中のどす黒い感情を持て余しながら、恥ずかしそうに俯く夫を見ていた。ここで責めれば、もっといやな感情が自分を支配するってことも分かっているわ。今はこの感情をどこかに置いておかなきゃ…。


「そうそう、Webであのお店を紹介するって感じを考えているんだけど、いいかしら?それと、今後はあんこちゃんと二人っきりで会って欲しくないんだけど、これも聞いてくれるかしら?」

 本音を言えば、絶対会って欲しくないけど、強制すれば反対のことが起きるわ。

だから、お願いの体がいいののよね、今は…。


「分かった。もう二人きりでは会わないよ。これは約束する。Webは誰に頼むの?」


「貴方の会社のWebデザインをしてくれた中原君と市井君にお願いするつもりよ。二人ともデザインが斬新だし、気さくだから、人見知りのあんこちゃんも大丈夫じゃないかしら…」


「そうだね。任せて安心だね。さあ、もう寝よう、明日も仕事だから…。お休み」


二人の寝室は、キングサイズのベッドが一つで、最近では夫婦はお互いに背中を向けて寝ることが多かった。でも、今夜は二人とも上を向いて寝ていた。お互いの手が少しだけぶつかって、そのままそっと握りしめる。

 

「今はこの程度の距離感がいい…。」


二人は、それぞれの心の中で呟いた。


◇◇◇


おいおい、おやじは浮気してたって事???

この家の長男である涼平は小さく吐き出した。


 この家の作りは、頑丈であるが、何故か夫婦の寝室と長男の壁だけは薄く、これまでにも夫婦の会話を聞くともなしに聞けることが多々あった。

 夫婦の会話で聞き耳を立ていて、役に立つことも多い…。二人が子どものお小遣い査定を検討中には、家のお手伝いを率先してやってみせて高額をゲットしたこともある。反対に落ち込むこともあったけど…。クリスマスの日にサンタクロースが本当にやってくると信じていた12歳の頃に、二人がプレゼントを算段し子どもがサンタクロースを本気で信じていることを笑いながら話している会話を聞いたときは、涙が出てしまった。かなり真面目にサンタクロースに会いたいと思っていた自分が馬鹿みたいに思えて…。あー、あれが本当に夢が崩れ落ちる瞬間だったと今でも思う…。


 でも、今日はマジで勘弁って感じだよ。あのおやじが不倫だなんて…。身体の関係があるとかないとかじゃなくて、おふくろ以外を好きになるとか…。信じられない。あー、どんな人だよ、『あんこちゃん』って…。おふくろもよく我慢できるよ。俺だったら、即離婚!って思うよ。いやいや、あのおふくろが『魅力的』とかいう女性ってどんなんなの?見ていたい…。


 少しもんもんとする気分を変えるために、数学の問題集を開く。

「今の俺は、こっちが大事なんだから…」

 独り言が終わると、涼平は数学の難問を解き始めた。先程までの悩む表情が一転して、キリッと引き締まった。その後は、彼がシャーペンでカリカリと数式を書く音だけがいつまでも続いた。


◇◇◇


杏子さんの自宅のビリングにある大きなキャットタワーには11匹の猫が集まって会議を開いていた。

「あー、マタタビは卑怯だったな。」

「でも、上質だったよ、あのマタタビ…」

「あんこに危害が加えられなかったから、良かったものの本気で包丁とか持ち出されていたらって考えると、今でもぞっとする。」

「いや、そんな度胸はないよ、今時の人間は…」

「猫ならあるかもね、他のメス猫とかに手を出したら、花ママはぜぇったい爪出し本気猫パンチだよね。」

「男が浮気とか…猫の場合はさ、割とあるんじゃね?」

「子孫繁栄のため?まぁ、あるあるだよね。」

「あんこちゃんには省吾は手を出していなかったんだろ?」

「省吾さんは、手を出してくても出せなかっただけだと思うよ。」

「なんで手をださないの?あんこちゃんはとっても魅力的だよ。」

「あんこには、何だか手が出せないオーラがあるんじゃないかな。」

「何だか、分かるような分からないような…」

「俺たちはなんでだか、ものすごくあんこを守りたいって思う気持ちが強いよな。省吾もそういう感じだったのかなって俺は思うよ。」

「花ママは、あんこと省吾は『不倫関係だ!』って確信していたけど、どうしてそう思ったの?」


あんこちゃんのことで、猫家族会議をしている間ずっと黙って聞いていた花ママがやっと口を開いた。


「あんこさんは、本気で省吾さんのことを好きだったと思うわ。もちろん、省吾さんもね。二人の間の距離はとっても近くて遠い関係に見えたわ。どう見ても老夫婦か家族にしか感じられなかった。

でも、子どもが欲しいって杏子さんが泣いていたのも確かだし…。

上司と部下という関係もあったから、とっても複雑だったと思うわ。

一時の激情で始まった恋愛って、何かのきっかけで崩れやすいとも思うし…。

もしかすると、あんこさんは省吾さんの中にある『何か』を見ていたのかもしれない。その『何か』に自分の錘を重ねていたのなら、『何か』って存在に対して、恋愛感情が元にあったとしても無意識にあんこさんは壁を作るだろうし、省吾さんも勘がいい人だから恋愛だけでない感情に何となく感ずくだろうし…。まあ、二人のことは二人にしか分からないってとこかしらね。

あんこさんを見ていると、なんだか心が苦しくなるの…。

本当のあんこさんと今見えるあんこさんが同じなのか…。

私たち猫家族を大切にしてくれるあんこさんは、自分自身を大切にしているのだろうか…。

あんこさんにとっての『何か』って何だろうって思うのよね…。


これから、あんこさんにとって錘となっている『何か』に影響することが始まるかもしれないわ。あの奥様ってなんとくやり手って感じだったから…。」


 波乱の幕開けってところかしらね。花ママは心の中で呟いた。あんこさんには何かしら心の中にしまってあるお荷物がある。多分そのお荷物が、あんこさん程の魅力的な女性が世の男性と人並みの恋愛にまで発展しない枷となっている理由なのだと思う。私を抱きしめながら、『子どもが欲しい、家族が欲しい』と泣いたあんこさんの想いは、いつか叶うのだろうか。いや、きっと叶うと信じてあげなきゃ。だって私達11匹の猫家族がついているんですもの。

ふふふ、でも…きっともうすぐ会えるんじゃないかしら?

私の予感って案外当たるのよね…。


花ママは、ハスキーな声でなぁ~ごと啼いた。それは、猫家族の会議終了の合図だった。11匹の猫はそれぞれの好きな寝場所に移動を始めた。


「僕は、あのおばさん何となく好きだよ。」

三男のちょび髭君が、小さく呟いた。誰も聞いてなかったけどね。





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