第5話 再会

 返す返すもやってしまったと後悔の念が尽きない。

 シーナが去ってから一週間、自己嫌悪に苛まれ続けていた俺は、彼女が再びほぐし庵に訪れることを期待したのだがその気配もなく、住居を手に入れる宛もないのでほぐし庵を借りの住まいにしてその時を待っていたのだが、その間も新規の客は誰一人訪れることはなかった。


 時折、近隣の子供達が怖いもの見たさで外から店内の様子を伺っていたくらいのものだが、それもガラス越しに視線が合うと悲鳴を上げて逃げられてしまう体たらく。


 風呂ももちろん存在しないので、仕方なく水道水の水で体を拭いて誤魔化していたが、解決しなければならない喫緊きっきんの問題が一つ立ちはだかった。

 そう――食料である。

 災害時用にと非常食用のインスタント食品を常備していたものの、まさかこんな事態になるとは思わず三食食べ続けた結果、そうそうに底を尽いてしまい空腹に襲われていた。

 困ったことにあの神様、いや爺さんは、よりにもよってこの世界の通貨を俺に寄越さないままほっぽりだされたもんで、一刻も早く現金収入を得ないと異世界に到着して早々に飢餓で死ぬことになる。


「これでは死期が若干遅くなっただけじゃないか」


 腹の虫を鳴かせてマッサージベッドの上で横になっていると、空腹がそうさせたのか来客を知らせるドアベルの音がハッキリと鼓膜を震わせた。反射的に飛び起きて向けた視線の先に立っていたのは、猫耳をちょこんと生やした小柄な少女だった。

 まだ十代前半かそころの子供の姿に正直肩を落としたことは否めないが、何をしに来たのか尋ねると踵を返して外に出ていってしまった。なにやら言い合っている声が聞こえる――。


「ちょっと、まだ心の決心が……」

「いつまでもウジウジしてるの鬱陶しい。さっさと行く」

「そうだわ。明日にしましょう! なんだかこれから予定が入る気がしてきましたわ」

「言い訳無用」


 ――もしかして外にいるのって。

 再び戻ってきた少女は、気不味そうに顔を背けているシーナの手首を掴んで現れた。


「私、猫人キャットピープルのノワール。シーナが派手に殴り倒したという人間ヒューマンに会いにきた。ついでに気不味くて謝罪にもいけないでいたシーナを連れてきた」

「ちょ、ノワールさん! なにも私は謝罪なんてするつもりは」

「さっさと謝る」


 二人は友人なのだろうか。一目見て淡々と話すノワールに終始ペースを掴まれていたシーナは、ノワールに背中を押されると毛先を指で弄りながら口を開いた。


「その……先日は貴方の側に無礼があったとはいえ、咄嗟に手を出してしまい申し訳ありませんでした……」

「いや、俺の方こそ申し訳なかった。突然知らない男にあんな酷いことをされたら、誰だって手が出てもおかしくはない。本当にすまなかった」


 深々と頭を下げていると、仲介役を担ってくれたノワールがてくてく寄ってきて、制服の裾を引っ張る。


「シーナから聞いた。マチダが派手に殴られる前、シーナの服を剥ぎ取る勢いで背中を見たとき何かに驚いてたって」

「ノワールさん。そんな卑猥な言い方をなさらないでいただけますか」


 強く抗議するシーナを無視し、ノワールは話を続ける。


「マチダ。シーナに何を見た?」

「えっと……初対面の君にこんなことを話しても理解してもらえるとは思えないけど、シーナに施術をしようとしたときに、うなじから頭部に走る光の筋を見たんだ。その光の筋に沿って輝く光点を幾つも見つけたんだけど、もしかしたらと思った俺は断りもせずに、その……うら若き乙女の背中を見てしまって……」


 脳裏にはシーナのくびれの曲線美が浮かび言葉を詰まらせると、シーナも俯いて無言を貫いていた。よく見ると肩は震えている。


「背中にも、光の筋と光点があった?」

「そういうことだ。俺の推測では、それらは通常人の目には映らない経絡と経穴が可視化されたものだったんだ」

「ケイラク。ケイケツ。聞いたことない」


 日本人だって詳しくは知らない言葉の意味を、出来る限り優しくかい摘んで二人に説明した。

「経絡」とは、体の深部で各臓器と繋がる「気」の流れの連絡経路のようなもので、皮膚の浅いところに表れる「経穴」は各臓器と繋がっている。

 経絡を適度に刺激することによって経絡を通じて問題を抱えている患部を治療することができると伝えると、そのような治療法はこの世界には存在しないと二人は半信半疑な顔で告げた。


「マチダ。マッサージ見せてほしい。勿論対価は支払う。1000ルピア」

「ノワールったらそんな大金支払って大丈夫ですの? 確か欲しい本があるとか言ってなかったかしら」

「仕方ない。好奇心には勝てない」

「そりゃあ対価を頂けると助かるけど、実はまだ料金も設定してないんだ。ちなみに……その1000ルピアってどのくらいの価値なんだ?」


 この世界の常識も教えられないまま着の身着のまま訪れてしまったので、当然のことながら貨幣価値など知る由もなかった。いい大人が子供相手に恥を忍んで尋ねると、シーナは呆れた顔で答える。


「ルピアを知らないって、マチダは遠い異国の地からでも来たのかしら。そういえば殿方で漆黒の髪というのも珍しいですわね……」

「脱線してる」


 ノワールに脇を小突かれ、控えめに咳払いをして簡単に説明をしてくれた。


「平均的な市井しせいの民であれば、贅沢をしなければ一月分の生活費に相当しますわ」

「そんなにいらないです」


 思わず否定するほど驚いた。自分の施術が違法風俗店のようなぼったくり価格だと評判が広まってしまえば商売が立ち行かなくなってしまうこと請け合いだ。なによりシーナより年下に見えるノワールから報酬を頂くのはさすがに良心が痛む。


       ✽✽✽


「マチダって人間の癖に随分と無欲なのね」


 褒められてるのか貶されてるのかよくわからない評価をベッドの上でうつ伏せになっているシーナから頂き、言われた通りノワールの前でマッサージを開始した。


「――やっぱり光っている」


 ところどころ光の勢いが弱っている経穴を見つけ、軽く指圧を行うとシーナの口から喘ぎ声に似た吐息が漏れでたことで思わず指を離してしまった。

 すると、経穴を押していた指が離れた瞬間経絡に沿って走る緑色の光が勢いよく流れていく様子を目撃した。

 まるで、せき止められていたホースから勢いよく水が飛び出す様子と似ている――そこである仮説を思い浮かべた俺はシーナに問診を行った。


「もしかしたら、最近肩コリからくる頭痛に悩まされたりしてないか」

「え? そうね……最近は夜通し勉学に励んでるせいか、どうも体調が優れないわね。だけどそのことをどうしてわかったの?」

「肩こりのほとんどは、同じ姿勢を取り続けることで頭部を支えている僧帽筋と周囲の筋肉が長時間緊張にさらされて疲弊するのが原因なんだ。血行が悪くなることで酸素や栄養が行き渡らず、老廃物がたまることで痛みを引き起こす。これほどガチガチに固まってるってことは相当無理をしていたに違いない。いつ頭痛が起きてもおかしくはないよ」


 遥か昔、受験生だった当時の俺はここまで自分を追い込んで机に向かうことなど出来やしなかったので、素直に「尊敬するよ」と褒めると、ブツブツと喋りながら耳を赤く染めていたが、どうしたのだろうか。


 僧帽筋を緩めるのにダイレクトに効く経穴ツボの一つ、後頭部第2頚椎棘突起けいついきょくとっき上方の陥凸部から一寸三分――「天柱てんちゅう」に親指と人差し指に中指を添え状態で頭の方向へすくい上げるように押し回すと、「ああん」だとか、「ううん」だとか甘く切ない声が漏れ出る。


「なんですか、この感覚は……天にも昇る気持ちよさですわぁ」

「それは重畳。まだまだ気持ちよくさせてあげるよ」

「これ以上⁉ そんな、身体が保ちそうにありませんわ」

「二人の会話。そこだけ切り取ると通報もの」


 さらに胸鎖乳突筋きょうさにゅうとつきんと僧帽筋の起始部の凹みにある「風池ふうち」や、肩上部の凹みにある「肩井けんせい」を指圧し、僧帽筋を四指で掴み引き上げたり押し伸ばしてあげると絶頂に近い嬌声をあげてピクリとも動かなくなってしまった。絵面がヤバいがこれが俺の仕事なので仕方ない。


 もしかしたら力を込めすぎたかと心配していると、やはりというべきか――施術前まで弱々しい光を放っていた経穴が光り輝き、淀んでいた気の流れが滞りなく経絡を流れて始めた。


「ノワールさんっ、今の私はすっごく肩が楽になりましてよ!」


 急に上半身を起こしたシーナは、身軽になった肩を回して満面の笑みを浮かべていた。

 不思議なことばかり起きる異世界だが、今はなにより目の前の女の子が喜んでくれるだけで心から嬉しい気持ちで満たされた。

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