第10話 チューリングワールド

 外に出ると、白緑色の半袖と緑色の長ズボンに着替えたカナが立っていた。ポニーテールにしていた髪の毛は、リボンが解かれて肩まで掛かり、勿論背丈はないものの、縦の線が凛として際立つその容姿には、それまでと違う、しっかりとした大人の女性の雰囲気が漂っていた。


「さあ早く!」


「俺、ここを出てもいいのか?」


「もちろんだめに決まっているじゃない!」


「えー!? もうごたごたするの嫌なんだけど」


「つべこべ言わないで早く出て、人が来るわ!」


「へーい」


 ジョーは仕方なく物置部屋を出た。


「こっちよ」


 ジョーはカナに案内されるままに小走りで付いて行った。


「あれっ? こっちには確か」


「エレベータホールがあるわ」


 カナとジョーは、すばやく非常階段を下りて、一階のエレベータホールに向かった。


「あなたがやっつけちゃった人たちのほとんどはね、あなたのサポーターだったの」


「は? サポーター? 何それ?」


「ごめんなさい、説明足らずね。正確にはチューリングワールド(Turing World、以下はTWと称する)に存在するあなたのアルゴリズムライブたちのサポーターよ」


「チューリングワールド? アルゴリズムライブ? それって前にミカ

から聞いたことがある。えーと、何だったかな」


「TWというのは、このAITで開発された階層型人工知能システム(Hierarchical Artificial Intelligence System:HAIS)によって構築されている仮想現実世界のことよ」


「仮装現実世界?」


 カナがエレベータホールで下行きのボタンを押すと、一番近くのエレベータのドアが開いた。


 ジョーとカナがエレベータに乗ると、カナはパネルの行き先階ボタンを押さずにポケットから携帯を取り出して素早く何か操作した。すると、パネルのボタンは無灯のままで、エレベータが動き出した。初動の感じからすると、どうやらそのエレベータは下に向かっているようだった。


 パネルの表示では、その建物の地下は一階しかなかった。だが、そのエレベータは明らかに地下一階よりもさらに深いところに降りているようだった。一分ぐらい経過した後、エレベータが停止した。


 エレベータのドアが開くと、凍えるとまでは言わないが、肌を刺すような冷たい空気がジョーたちの体を包んだ。


(なんだ?)


 エレベータから降りた瞬間、ジョーは、目の前に広がる異様な光景に圧倒された。


(こ、ここは?)


 そこは灰色のコンクリートで固められた広大な空間だった。


 一見して壁のようにも見える巨大な柱が立っていた。柱の高さと奥行きは、いずもれ五十メートルくらいあり、その数は少なくとも百は下らないようにジョーには思われた。


 それら壁柱の表面をよく見ると、タバコくらいの大きさの小さな円柱状の透明なケースが、壁柱の全体にびっしりとはめ込まれていた。全ての壁柱がそのような状態であるとすれば、ケースの数はおびただしい数に及ぶ。


 ウイイイン、ウイ、ウイイイン


 円柱ケースの配置方向に沿ってレールが延びており、そのレールの上を小型のロボットが規則正しい動きを繰り返しながら移動していた。


「ここは、チューリングワールドの心臓部。ゲノムポッドを維持・保管している地下施設よ」


「ゲノムポッド?」


 ジョーはカナに先導されて、その巨大な地下空間の一角に設けられている扉の方に向かって歩いて行った。


「あの透明なケースのことよ。あのケースの中身は特殊な電解液で満たされていて、生物の遺伝情報に基づいて構築された高分子化合群をとけ込ませてあるの」


「遺伝情報?」


 二人が扉の前に到着すると、その扉のすぐ横に備え付けられていたパネルにカナが顔を向けた。


 ピ、ピ、ピー、プシュー。


 虹彩認識システムが起動して、扉が開いた。


「どうぞ。早く入って」


 カナに促されてジョーが中に入ると、人感センサーに感知されたのか、自動的に部屋の照明がついた。


「ここは?」


「ようこそ、ここが私のプライベートラボよ」


 その部屋は、およそ学校の教室くらいの広さで、何台ものモニターと計器類が整然と配置されていた。部屋の出入り口からみて左右両側の壁全体が本棚になっていて、本や雑誌がずらりと並べられていた。


 カナの後について部屋の奥の方に来ると、彼女が普段使用していると思われる白いデスクがあった。デスクはL字型で部屋のコーナー部分に設けられており、その長辺部分には、三台のラップトップと、見慣れない大型の装置が置いてあった。


 デスクの短辺部分に椅子が置いてあり、デスクの上の壁際には、小さなサボテン

たちと一緒に、ミカやリサ博士と一緒に写った彼女の写真が何枚か飾られていた。


「適当に座って頂戴」


 ジョーは、デスクのすぐ後ろに陣取っていた長ソファーの端に座った。カナは、デスクのラップトップの電源を入れた。


「ここではゲノムポッド、AL、そしてTWの状態を一元的に監視・管理することができるの」


「へ、へえー」


 ジョーは、あたりを見回しながら、とりあえずの返事をした。


「ああ、ごめんなさい。さっきの話のつづきをした方がいいわね。遺伝情報っていうのは、いわゆるDNAよ。つまり、あのポッド一つ一つが、1つの生命体を定義付ける役目を果たしているのよ」


「生命体を定義付ける?」


「簡単に言えば、生物としての機能を果たしているってってこと」


「えっ、生物? 今見てきたあのちっちゃい奴がか?」


「ええ。ここにはね、バクテリアから人間まで、あらゆる種類の生物のゲノムポッドが備えられているわ。でもあらゆるという表現には語弊があるわね。正確にはゲノム配列がすでに解読されている生物よ」


「ゲノム配列?」


「DNAの塩基配列のことよ。人間の場合、約三十億個の塩基で構成されているわ」


 聴き馴染みのない単語の群が、早く捕まえてみろよと、ジョーの周りにふわふわと浮かんでいるようだった。


「ジョー、考え込む必要はないわ。要するに、あなたたちがアバタープログラムと呼んでいるものを、あのポッドが創り出しているの」


「あれがアバタープログラムを……」


「そう。でも私たちはそれをアルゴリズムライブと呼んでいるけれど」


「そうだ思い出したアルゴリズムライブ! 生きているプログラムだって、ミカは確かそう言っていた」


「その通りよ」


「まずそこが分からないんだ。プログラムが生きているってどういうことだい?」

「生身の人間のように、ALにも寿命があるということよ。TWで活動できる時間に限りがあって、そのときが来たら消滅してしまうの」


「消滅!?」


 プログラムに寿命があるなど、普通ならとても受け入れられるものではない。だがそのときジョーは、DDUで起きたあの事故のことを思い出した。それは、アバタープログラムの一つが、その機能を突然停止したことによって発生したものだった。


「そう言えばミカはこうも言っていた。俺のALの一人がもうすぐ亡くなるって。あの事故は、その直後に起きたんだ」


「そのALはイワンね。彼は老衰で、最後は安らかに息を引き取ったわ」


「イワン? 老衰?」


「ええ」


 話が飛躍し始めていると感じたカナは、ジョーに不信感をもたれることを心配し、できるかぎり正確に話をした方が良いと思った。


「ジョー、話が少し難しくなるけど、聞いてくれる?」


 ジョーは軽い笑顔で頷いた。


「電気刺激をゲノムポッドに加えると、その中の高分子たちがひとりでに動きだして、規則的な挙動を示すようになり、その動きに合わせるように、電解液中に含まれる水分子のクラスター構造が様々に変化するという現象が確認されたの。そこで私たちは、ゲノムポッドのそれぞれに小型のAIを設けて、そのパターンを分析して人間の神経活動に対応させるようにしたの」


 ジョーは、カナの説明にほとんどついていけなかったが、それでも決して聞き逃すまいと、真摯な姿勢を崩さなかった。


「初めの電気刺激は、すごく単純なものだった。そしてその設定を、普段私たちが感受している光、風、重力、温度、湿度等、私たちの周りの環境に基づくもの、例えば、普段私たちが感受している光、風、重力、温度、湿度等に変えていったの。そうしたら、ポッドの水分子クラスターが、だんだんそれらに応じた挙動を示すようになって、つまり、環境に適用するようになったの。そうして現在は、ポッドが相互に影響を及ぼし合えるようにまでになったわ」


「ポッド同士が影響を及ぼしあう?」


「そう、人間に関するポッドでいうと、会話ができるようになったってことよ」


「なっ!? あれがしゃべるっていうのか?」


「ポッドそのものが声を発するってことじゃないわ。あくまでもTWの中で、お互いにコミュニケーションをとることができるってことよ」


「いや、たとえそうだとしても、それは本当なのか?」


「本当よ。彼らはTWで私たちと同じような暮らしを営んでいるんだから」


「暮らしているって、まさか文明とかも発達しているってことか?」


「察しがいいわね。まさにその通りよ」


「マジかよ。じゃ、そのTWっていうのは、俺たちのいるこの現実世界とほとんど変わらないってことか?」


「いいえ、そうとも限らないわ。勿論自然法則とかに関しては私たちの現実世界と同じ設定になっているけど、私たちよりもかなり進んだ文明をもつTWもあれば、逆にかなり遅れた文明をもつTWもあって、それぞれが独自の発展をしているの」


「TWって一つじゃないのか?」


「HAISが創り出しているTWは一つじゃなくて、無数に存在するの。ここにはおよそ一億本のゲノムポッドがあって、できるだけ私たちが住むこの地球の生態系に似せてあるわ。さっきも言ったけど、ここには人間だけじゃなく、ほかの様々な動植物、昆虫、細菌等のゲノムポッドもあるの。そうした多くのゲノムポッド同士の関係のみならず、それらを取り巻く環境との相互作用をも解析するために、HAISは様々な時間軸を設定したのよ。その結果として、数多くのTWが生みだされることになったの」


「多くって?」


「どれくらいあるのか、私たちも正確には把握できていないわ。少なくとも数万、もしかすると数千万、いいえ、それ以上あるかもしれない」


「そんなに!? つまり、君たちが創ったHAISが、ゲノムポッドを基にして、TWっていうものすごい数の仮想現実世界を創り出しているってわけか」


「ええそうよ。でも私はHAISにはほとんど関与してないの。HAISに関係しているのは、ママとガンダーレ兄弟よ」


「ガンダーレ兄弟?」


「そう、彼らは三人兄弟で、AIに関するスペシャリストなの」


「三兄弟……もしかして、三人とも頭がマッシュルームカットの奴らか?」


「そうよ、知っているの?」


「あいつら、エレベータを私物化して遊んでいたよ」


「一日一回はあれやらないと気が済まないみたいね。すでに儀式化しているわ」

「儀式だって? 全く迷惑な話だな」


「あの人たち、ストレスがかなり溜まっているの。TWはとても脆弱かつ不安定で、例えば、突然の停電とかウィルス感染が起きても、たちまち崩壊して消滅してしまうかもしれないのよ。それで彼らは、なんとかTWを安定させようといろんな試みや努力をしてきて、まあどうにかこうにか今日までやってきたの」


「ふーんそんなんだ。じゃカナ、君はここでは何を?」


「私はゲノムポッドを作っているわ」


「え? さっきのあれ全部君がつくったのか?」


「そうよ」


「うそだろ? だってさっき、一億本くらいあるって言っていたよな? そんなに一人でどうやって作るんだよ」


「あのねジョー、一つ一つ手作りしてる訳じゃないのよ。私は、ある情報をこのポッド製造装置に入力するだけ。後は装置が自動的に作ってくれるわ」


 カナは、デスク上の大型装置の側面を軽く左手で叩いた。


「その装置にDNAの情報を入力するのかい?」


「違うわ。入力するのは、DNAの塩基配列から私が共感覚で読み取った情報よ。共感覚って何のことか知ってる?」


 首を振るジョーを見て、カナは何か嬉しそうに言った。


「共感覚っていうのはね、普通とは異なる別の種類の情報を認識できる能力のことよ」


 カナはホワイトボードの前に立つと、ペンで1から10までの数字をボードに書いた。


「ジョー、これは何?」


「何って、ただの数字だろ?」


「それ以外は?」


「それ以外だって?」


 ジョーにはカナの言わんとすることが理解できなかった。からかわれているとさえ感じた。


「分からないな。数字に他の意味なんかないだろ?」


「それがあるのよ。いいえ、あるらしいの。一見たんなる数字の羅列が、ある人には何かの風景に見えるらしいの」


「風景だって? 風景って、海とか山とか町並みとか、そういう奴?」


「そうよ。ちょっと信じられないでしょう? でも本当なのよ」


「君も数字が風景に見えるのかい?」


「ううん、私の場合は数字じゃなくてDNA。DNAの塩基配列を読んでいくと、なにか不思議な映像が頭の中に浮かんでくるの。それもたくさんの種類の生物の配列を読めばよむほどその映像が色濃く、そして鮮明になっていくのよ」


「へえー」


「それは、この惑星の生物全体が一つとなって何かを形造っているような感覚を起こさせるの。そもそもこの惑星の生物って、決して一種類だけでは生存できないようになっているでしょう? みんなが相互に関係しながら生きているっていうか」


「食物連鎖って奴かい? それぐらいは俺も知っているよ」


「それもそうだけど、私が言っているのはそういう有機的なつながりじゃないわ」


 カナは、ジョーの前をゆっくりと歩きながら、思い起こす記憶の一つ一つを吟味しながら、伝えるべきことを口元に届けていた。


「大学で博士号を取った私は、ここでママと一緒に人工知能の研究を始めたの。研究を始めてまだ間もない頃ころ、ある日、ロビーで休憩をしているとき、たまたまそこにおいてあった科学雑誌に目がとまって、手に取って見てみたの。その雑誌には、解読されたばかりの人間のゲノム配列の一部が載っていたわ。もちろん当時の私は生物学には別になんの興味もなくて、ただなんとなく眺めていただけなんだけど、突然何かが私の頭の中に浮かんできて」


「どういうこと?」


「塩基配列を読み進めていくうちに何かの映像が見えてきたの」


「映像?」


「ええ」


「そのときは、なんだか怖くなって、その後しばらく放っておいたの。でもあるとき、今度はニワトリのDNA配列が雑誌に載っているのがあってそれを見たの。そしたら映像が前よりも具体的になってきて。それからよ、いろんな動物のDNA配列を読むようになったのは」


 カナは、ラップトップのキーボードを叩いた。すると、部屋中のモニターにいっせいに、何かが映し出された。それらはいずれも、様々な生物に由来するDNAの塩基配列を示すものであり、横並びの細かいアルファベット文字が一定の間隔で何十行にもわたって記載されていた。


「一種類の生物のDNAだけでは足りないのよ。つまり、ほ乳類、鳥類、魚類、は虫類、昆虫、微生物、それに植物も、とにかくこの地上に存在するあらゆる種類の生物のDNAを読めば読むほどそのビジョンがどんどん具体的になって行くの」


「そのビジョンっていうのは一体なんだい?」


「分からない。初めは進化の歴史を物語るようなものかと思ったけど」


「違うのかい?」


「ええ、確かにそういう場面もでてくることはあるけど、本質は違うものよ」


「じゃなんだい?」


「偉そうに言ってごめんなさい。はっきりとしたことはまだ何も言えないのよ。でも、それは決して単なる風景や物語とかじゃなくて、うまく説明できないけど、何か特別な、そう、そのビジョンには、この惑星の全ての生物を包み込む大いなる意志のようなものを感じるの」


 少し話し疲れたせいか、カナは不意に私の視線をはずし、そのまま何か思い沈むように押し黙ってしまった。突如訪れた静寂に、ジョーは何かに思いを巡らすように少しだけ上の方に顔を向けた。


「大いなる意志か。うん、カナ、君がそう言うのならきっとそうなんだよ」


 ジョーの言葉を聞いたカナは、肩の力を少し抜いたときのような微笑を浮かべた。そして、その後に発せられる彼女の口調は、ある種特有の旋律をもって流れた。


「私ね、この感覚をほかの人にも伝えたいって思ったの。なぜそうしたいのか自分でもよく分からないけれど。とにかくできるかぎり正確にこの感覚をみんなに伝えたい。そのためには何らかの媒体が必要だと」


「つまりそれが、TW?」


「ええ、ゲノムポッドを使って仮想現実世界を構築すれば、その感覚を可視化できるかもしれないって思ったの」


「なるほど」


「ただ、人間のDNAからのイメージはなぜかほかの生物種とは少しだけ違っていて、個体差がより明確にでるの。たぶん、それを読む私自身が人間だからだと思うんだけど」


 カナは、デスクの下に備え付けてある小型冷蔵庫の扉を開けると、中から、飲みかけのミネラル水の入ったペットボトルを取り出し、キャップを開けて少しだけ口に含んだ。


「個体差を出せるのなら、TWにもこの人間社会と同じような組織社会を作れるかもと思って、いろいろな人間のポッドを作り始めたの。そうしたら本当にその通りになって、今ではそれぞれのTWで様々な社会が構築されているわ」


 カナの言うことは、にわかには信じられないことばかりだった。しかし、彼女の言葉には、思い惑うジョーを至るべき場所へと導くような、そんな不思議な力があった。


「そのTWに、俺のALたちも住んでいると?」


「そういうこと。今確認されているあなたのALの中で、オクテットフォーメーションを形成できるALは全部で七人、以前は八人だったけど、イワンが亡くなったから」


 カナの話を聞くにつれて、ミカから以前聞かされていた話が、強いリアリティーを帯び始めるようになっていた。


「七人のALたちは皆若くて、まだ中学生や高校生なの。さっき食堂であなたがやっつけちゃった人たちは、彼らの教育係をしていたのよ。みんな、あなたのALは勉強を全然しないって、かなり嘆いていたわ」


「なるほど、だから俺のおかげで苦労しているなんて言っていたのか」


「でも、現実のあなたは、宇宙パイロットにまでなっていて、かなり優秀なはずだけど」


「それは、やり方が間違っているのかも。彼ら、俺のALにどういう勉強をさせているんだ?」


「彼らがしていたことは、あなたのALにいつも大量の課題を出して、それをチェックするだけ」


「やっぱり。それじゃだめだと思う。俺、自ら進んでやる勉強にはほとんど抵抗を感じないけど、やらされる勉強には全く興味が湧かないから。宇宙パイロットになれたのは、そういう俺の性格を熟知して勉強を教えてくれた、ある人たちのおかげなんだ」


「ある人たち?」


「俺の養父母さ」

 ジョーの口からその言葉が出たとき、一瞬の迷いがカナの口を覆い、それ以上掘り下げることを躊躇わせた。


 会話が途切れそうになったのを、ジョーが言葉を紡いだ。


「あのさ、そもそもなぜALに勉強をさせなくちゃいけないんだ?」


「え? ああそれはね、ALのレベルを上げるためよ」


「レベル?」


「レベルというのは、情報処理能力の高さを示すものとして、私とママが独自に設定した基準のことよ。レベル数が高ければ高いほど、優れた情報処理能力を持っているということを意味するわ。レベルを上げないといけないのは、オクテットフォーメーションを形成するには、少なくとも2以上のレベルが必要だから」


「へえー」


「当時は、単に勉強をさせればレベルが上がるって思っていたけど」

 カナが呟くように言った。


「どうしたの?」


「いいえ、なんでもないわ」


 カナの何かを閉ざすような空気がジョーを少し不安にさせたが、会話が途切れかけたことを機に、ジョーは、自分が持っている知識を少し整理しようと思った。


「ここには、人間だけじゃなくて、他のいろんな生き物のゲノムポッドが用意されているって言ったよね?」


「ええ」


「以前誰かに聞いたことがあるんだけど、AITは、知的障害者をサポートするためのシステムを開発するために設立されたって。本当の目的は全く違うのかい?」


「いいえ、そうじゃないわ。AITでは当初、知的障害を持つ人々のための汎用型AIに関する研究が行われていたの。でも私がALを創ることに成功すると、AIよりも、障害を持つ人自身のALの方が、もっとその人の心に寄り添うようなサポートができるんじゃないかって考えるようになったの」


「本人のAL? でも知的障害をもっているなら……」


「その心配はいらないわ。知的障害を引き起こしている遺伝子の塩基配列を修正してALを創るから」


「へえーなるほど、ALに障害が出ないのか。それなら確かに、本人のALなんだから、その人の気持ちもよく分かるかもな」


「でもTWが構築されてからは、知的障害者サポートシステムや、さらにそれを応用したオクテットシステムは、このTWそのものを維持・管理するのに必要な予算をもらうための口実にすぎないものになってしまった」


「なんだって?」


「今のTWを維持するための費用は莫大で、安定な資金源、つまり国の援助がどうしても必要なのよ」


 カナは視線を落とすと、改まったような雰囲気をまとった。


「私たちは、TWの研究を進めるためにこれまでずっと世間を欺いてきたの。そんなことしないで堂々と研究をすればいいと思うかもしれないけど、だめなの。まだTWの存在を公表することはできない。さっきも言ったけど、TWは、かなり脆弱な世界なの。謎が多すぎて、十分にコントロールすることができない。今もし世間にその存在が知れてしまったら、心無い人たちの手によって、全てが一瞬で破壊されてしまうかもしれない」


 カナの二つの瞳が、憂いを含む光を放ち、彼女の内に秘められた何かが、彼女を前へと押し出した。


「でも今のTWは、そうしたこととは別の危機に直面している。そう、あなたたちがやろうとしているオー・プロジェクトよ。この計画がもし失敗したら、AITへの予算が大幅に縮小されることになっている。そんなことになったら、TWを今の規模で存続させることはとても無理よ。つまり、多くのALが消滅を余儀なくされる」


「そ、そんな」


「今のままでは、オー・プロジェクトは確実に頓挫してしまう。あなたも知ってのとおり、超人格を形成するために必要なALは少なくとも八人。つまり、今の状態では、オクテット化できるALが一人足りない。亡くなったイワンの代わりとなるALが必要なの」


 カナは、ジョーの隣にゆっくりと座った。


「イワンがもうすぐ亡くなるということを知ってから、私たちは、レベル3の捜索に全力を注いだわ。そしてやっとそのALを見つけることができたの。でもここで更なる問題が生じてしまった。そのALに協力を頼んだら、そのALは、あなたと話がしたいって言ってきたの」


「俺と? なるほど、つまり、俺をそのALに引き合わせるために、DDUにミカを送り込んで、ここに連れてこさせたというわけか」


「いいえ、ミカを送り込んだのは違う目的よ。だって、プロジェクトで多忙なあなたをここに連れて来るなんて、とてもできないと思っていたもの。ミカを送り込んだのは、あくまであなたの知的レベルをさらに向上させることにあったのよ。つまり、あなた自身のレベルがもっと上がれば、そのレベル3の力を借りなくとも、レベル2のALだけでオクテット化ができるかもしれないと考えたのよ」


「ふーん、でもそれは失敗したと」


「そうね。でも結果的にはこれでよかったんだと思う。ミカには感謝してるわ。あなたをよくここに連れてきてくれたって」


 このときジョーは、このカナという女性が、自分にとって何か特別な意味を持つ存在だということを直感した。彼女との出会いが、偶然として片付けられるようなものではないと思えたのである。


 事態は少しづつ、ジョーがずっと以前から心の奥で予感している方向、つまり、その意志では決してあらがえない絶対的な方向に進んでいるように思えた。ジョーは少し俯くようにして、目の焦点を遠くにやった。


「ごめんなさい。話が長くなってしまったわね。ちょっと一息いれましょう」


 カナは、ソファーから立ち上がると、デスクのある方とは反対側の部屋の隅に置いてあるコーヒーメーカーのところに行った。


「塩基配列ってこれのことかい?」


 ジョーもソファーを立ち、何気なくモニターの一つを指差して言った。

「ええ、そうよ。そしてそれはOctopus Vulgarisの塩基配列よ」


「?」


「ふふ、蛸よ、タコ!」


「タコ!?」


 ジョーはいかにも今初めてみたという風に瞳孔を少し拡大させ、小さな声で読み上げ始めた。


「A、A、T、G、T、C……あれ? 文字は四種類だけ?」


「そうよ、タコだけじゃないわ。私たち人間を含めてこの惑星の生物はみんな、アデニン、グアニン、シトシン、チミンっていうその四種類の塩基の並び方でいろんな遺伝子をコードしているの」


「ふーん」

 ジョーはそのまま読み続けた。


(エー、エー、ジー、シー、うーん、別にどうもないけど。じー、じー、しー、a、a、a、g、じー、じー、c、ttaaa、あれ? なんか急に読むスピードが上がったような? aaaaactctggctggggcctttttaaaactct……!!! なんだこれ? スピードがどんどん速くなる! しかも読む前に次の文字が分かる!?)


「ジョー、どうしたの!?」


 カナがジョーの異変に気づいた。


「カナ! なんか俺、ジェットコースターにでも乗っているみたいで、こいつらがものすごい勢いで俺の中を通り過ぎていく! うわあああああ!!」


 声をあげた瞬間、ジョーは気を失ってその場に倒れた。

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