成人式は愛を語る儀式2


 降雨量の多い雨季にしては珍しく、目の覚めるような快晴。真冬と言ってもそこまで寒くはないし、この国の人間は雪を見たことがない者のほうが多い。

 雪といえば、二か月かけて行った先にある大霊峰ハーシェルを覆うものという印象しかないらしい。見たいな、雪。

 大霊峰のふもとにあるのはカルロッタの故郷、サゼロ領。カルロッタも雪を見たことがあるのだろうか。この国の雪も、白くて重たくて冷たいのかな。


 いつか行こう、サゼロ領。


 春生まれの私は、十四歳の誕生日を一年近く前に済ませている。待ちに待った成人の儀だ。


「似合いますねぇ、ジータ様」

「うふふ、ありがとう、レーナ」

「リボンはこんな感じで大丈夫ですか?」


 ヘアセットはレーナにお任せ。指定しなくても、レーナに任せていれば可愛くしてくれる。


「夢の話、覚えてますか?」

「あぁ……レーナの前世ですね」

「んふふ、そうです。その夢の中でも、成人の儀をやったんです」


 レーナは今でも、“不思議な夢”を見続けているらしい。本人はそれを前世での光景だと言うし、あながちあり得ない話ではないと思う。なんせ、私だって前世の記憶があるのだから。

 それに、ときおり話してくれるレーナの夢の話。どうにも、ランドウルフとは文化が異なるようなのだ。家の様式や、村の様子、服装も違うと言っていた。


「夢の私は成人の儀も退屈だったみたいですけど、でも、衣装はとっても可愛かったんです。重たいスカートに、コルセットみたいなやつで腰をぎゅぅって締め付けて……もうね、着ているあいだは苦しくて苦して、吐きそうでした。だけど、すっごくすっごく可愛かったんです!ド田舎ですけど、刺繍技術はすごいみたいです」

「ふふ、レーナが言うなら、本当に素晴らしい技術なのでしょうね」


「描いてくれますか?」


 もちろん。迷わずにそう答えたけれど、まだ一枚も描いたことがない。

 レーナは自身の白石粉を使って欲しいのだと、ずっと土魔法の練習を続けている。煙が立つほどではないが、粒がそろってサラサラになってきたそうだ。デッサンでよければいつでも描くのに、頑張ったご褒美にするから、と描かせてはもらえない。


 重たいスカートに、吐きそうになるほど締め付けるコルセットね……ちらりと後ろに立つレーナを見る。話を聞くたびに、イメージが遠ざかっていく。初めはもしかしたら日本では?と思うこともあったのだが、聞けば聞くほどワケが分からなくなる。


「よし!はい、完成です!」

「可愛いですか?」

「世界でいっちばん可愛いですよ!今日のジータちゃんは世界で一番可愛いです」


 幼い頃にしてもらったように頭を撫でてくれた。魔王の片鱗は、もうどこにもない。


「ママと教会の前で待ってますね。楽しんできてください」

「はい、行ってまいります」


 レーナが言うのだから間違いない。

 今日のジータちゃんは世界で一番可愛いのです。



〇●〇●〇●〇


 階段を降りて玄関に向かうと、案の定カルロッタが待っていた。両手を広げてハグ待機までしている。あぁ、そうか、カルロッタしかいないのか。父は、顔を見せることもしてくれないらしい。


「本当に、可愛いわ。私のジータ」

「お母様ッ……!」


 骨が折れますッ!イダダダダダ!ちょっと、あの、折れる折れる!顔も知らない弟や妹たちは、毎日この洗礼を受けてるの!?二十回くらいアバラ折っているんじゃない……?


 アナコンダハグの苦行がようやく終わり、カルロッタが私の肩に手を置いた。


「生まれたばかりの貴女を一度抱いたきり、コルシーニ様が貴女を連れて行ってしまってから、私は毎日のように泣きました。ジータは泣いていないかしら、寂しくないかしら、辛い思いをしていないかしらって。でも、貴女は私が思うよりずっと立派で、自分の道を見つけました。魔法なんかより、ずっとずっと素敵な力があったのですね」


 そんなことも、私は知りませんでした。寂しそうに私の手を包んだそれは、白くたおやかな貴族夫人の手。温かい、私の母の手。


 このひとは間違いなく私の母なのだ。たしかに私はカルロッタに育てられていない。生まれてからの七年は、その愛情を知らなかった。

 それでも、この人は間違いなく私の母だ。この人の産道を通って、この世に生まれてきた。貴女と同じ、花の名前をもらった。胎内の記憶があるなんて言っても信じてもらえないかもしれないけれど、私はこのひとの声を、生まれる前から知っているのだから。


「私が心配しなくとも、貴女は強く、素晴らしいひとに育った。ナーシャも、デルフィナ様も、ハルクレッド様も、ダルド様も……貴女は良い縁に囲まれて……私が、私が……いなくても」


 まだ言葉を理解する前に、私が初めて覚えた言葉。それはきっと、サゼロ領の歌。カルロッタが遠くで口ずさんでいた、子守歌。

 雨季の空みたいに泣き出しそうな顔。目を合わせて、笑って見せる。


帳の落ちるその夜に

きっと雪は降るでしょう

おお、ハーシェル、ハーシェル


赤い子の泣くその夜に

きっと雪は降るでしょう

おお、ハーシェル、ハーシェル


雪降りしきるその夜に

きっと迎えがくるでしょう

おお、ハーシェル、ハーシェル


「なんで……ジータがその歌……」

「私は、お母様がお母様であると、生まれる前から知っていましたから」


 あのとき返せなかったものを。


 たくさんの手紙に込められた言葉を、もう疑ったりしない。たくさんの花束に込められたその意味を、娘の私が疑ってはいけない。疑いたくはない。


 私の育った屋敷を花で埋め尽くさんとした愛情を。七年かけて失くしたものを、カルロッタは七年かけて取り戻してくれた。

 たとえ会うことがなくても、だって私はたしかに、カルロッタの愛を肌で感じていたのだから。


「私はお母様の愛を信じています。私も、大好きです。お母様」


 私は、カルロッタ・デ・ヴァイオに愛を告げる。



〇●〇●〇●〇


 屋敷を出ると、冬らしい湿っぽさが肌を撫でた。成人の儀は走り回るから、冬なのに薄着であることが一般的だ。いくら冬が寒くない地域とは言え、肩が出ていたら寒いに決まっている。


 屋敷に背を向けて、旗を目指して歩き出す。まだ走ったりしない。なんと言っても私は引きこもりである。貴族のたしなみ、ダンスの練習だって一度もしたことがない。体力がないことくらい自覚がある。


 ドレスは花嫁衣裳かと見紛う純白。マーメイドランの裾が少し冷たい風になびく。腰には淡い金のリボンを。ハーフアップの髪には金と青を織り交ぜた髪留めを。耳には金の台座に飾られた真っ赤なルビーを。


 今日のジータちゃんは世界で一番可愛い。レーナが言ってたもんね。


「おめでとーぅ!」

「おら!走れ走れ!」

「アッハッハッ!いいぞー、逃げろー!」


 ワァ!と盛り上がる商業地区。明るいグリーンをまとった少年が、パン工房のおじさんを追いかけまわしていた。彼の手にはすでに七本の旗が握られている。


「ワハハ!つかまえてみな!」

「くそっ、親方!オッサンのくせに早ぇんだよ!」

「旗五十本とってプロポーズするんだろ!オラオラ、走れ!ワハハハ!」


 ふふ。いいな、いいな。見ているだけで楽しい。私はこういう光景をたくさん描きたい。


 追いかけっこを続けるパン屋の師弟を横目に、人垣にこっそり近づく。最初の一本は、やっぱり綺麗なお姉さんでないと。

 パン師弟を眺めてケラケラ笑っているお姉さんの後ろから、その手にある旗をさっと取り上げた。


「ふふ、頂いていきますね!」

「あちゃー、やられたね!ハハ!いいよ、持って行きな!おめでとう!」

「おーぅ、とられてやんの!」


 まずは一本。スカートの裾を持ち上げ、彼女の幸を願う。祝福あれ。


「あら、お嬢さん。噂の絵描き様じゃないか!」

「うふふ、さて、どうでしょう」


「おーい、綺麗なお嬢ちゃん!俺の旗ももらってくれ!」


 お姉さんの後ろからひょっこり顔を出した青年が旗をこちらに差し出した。せっかくなので頂戴する。


「おっしゃ!可愛いお嫁さんに出会えますように!」

「あら、では……素敵な貴方に、主の祝福あれ。どうぞ、良縁に恵まれますように」


「ありがとォー!めっちゃいい子だー!」


 あははと笑って駆けだすと、しかも可愛いー!と叫ぶ声が聞こえた。そうでしょう、今日のジータちゃんは可愛いのだ。


 本当は教会に向かうべきなのだが、セルモンドの一等地に建つ我が家は教会に近い。遠回りしていかねば、楽しみにしていたお祭りがすぐに終わってしまう。

 私はもっともっと、この光景の中にいたい。


 走ったり歩いたりを繰り返して街を練り歩く。走らずにのんびり行こうと思っても、つい空気にあてられて走り出してしまう。

 少しずつかき集めた十本の旗。毎年気合をいれたひとは五十本以上もの旗を集めるのだという。過去最高はたしか、二百本だったかな。

 ワインだけでお腹いっぱいになりそうだ。


 私が目指すのはソン・ザーニャ。この街の好きなところのひとつ。だけど、目的は川でもソン・プリツアーノでもない。

 職人地区に差し掛かると、各工房の弟子や親方たちが男女入り乱れて走り回っていた。その中には見慣れた顔もある。いつ見ても悪人面だ。やっぱりハダカだし。


「クソ!おい、やめろ!これは嬢ちゃんに渡すんだよッ!おめぇに渡す旗はねぇ!つーか、おめぇ新成人じゃねぇだろ!」

「アハハハ!親方すげぇ汗かいてやがる!」

「ダルド親方ァー!愛しのお嬢様の為に走れー!」


 弟子に追い回されるダルドと目があったので手を振る。悪人面とその内面に、恐ろしいギャップを抱える男だ。


「おっしゃ!受け取れ!成人おめでとぉぉぉぉぉう!」


 ブンっ!と投げられた旗が、綺麗な放物線を描いて青空を舞う。毎年たくさんの人の手を渡る、誰かが誰かの幸福を願う旗。

 もらう人に幸多からんことを。くれた人にどうか良い縁があらんことを。そこに込められたのは、人が人の幸せを祈る暖かなものだけだ。


 慌てなくても、その金の旗は手の中に落ちてきた。


「ありがとうございます!ダルド様とお弟子様、みなさんに!ソルマト木工房に主の祝福がありますようにー!」


 ウワァッ!男らしい歓声を背に、また下流へと走り出す。富を願うべき工房の親方が、旗をくれたのだ。どうかどうか、あの人たちに祝福を。



 会いたい人はほかにもいる。木工房の群から、白石工房の群へ。ここもまた、先ほどと同じような光景が繰り返されていた。


「すぅぅぅ……でーるーふぃーなーさーまー!」


 その衣装で会いに来てと言われたので、行かないわけにいくまい。そもそも言われなくても勝手に押し掛けた。だって、一番可愛いと言ってほしいひとだもの。

 工房を構えていたり、店を持っていたり、そういう者たちは旗を守るのが一般的だ。旗を守れば富が得られるというのだから、簡単な願掛けだ。


 デルフィナも旗をくれるだろうか。もしくれたとしても、教会には返したくないな。


「よっ、待ってたよ!」

「デルフィナ様っ!ごきげんよう」


「うん、うん。かぁわいいねぇ……」


 挨拶をするわけではなく、衣装を見せるようにスカートの裾を持ち上げる。どうですか、というように。


 ソン・ザーニャの川面をきらめかせる強い日差しは、デルフィナの赤みがかった金髪も輝かせる。金はやはり、デルフィナの色。

 私がこの世界で初めて恋をしたひとは、出会ったときからひとのもの。でも、今日も誰より綺麗で格好いい。


 おめでとうの言葉と一緒に、あっさりと旗をくれた。


「出会ったときからずっと、大好きです。デルフィナ様」

「アタシも。誰よりもジークレット様が好きだよ」


 その言葉がどんな意味でも構わない。叶わない恋には、前世のときから慣れているから。

 私はこの人の旦那さんも。ハルクレッドもとても大切だから、その関係を壊すようなことはしない。どうか、子どもの可愛い恋心だと笑って許してほしい。

 ハグをして、うんと背伸びをして、その頬にキスをした。


 私がキスをしやすいように少しだけ身をかがめてくれたデルフィナが、私は本当に好きだった。


 持っておくことの出来ない旗の代わりに。返してくれた額のキスを、私は一生大事にしよう。



 ちょっとだけ切ない気持ちを抱えて、私は大人になるために教会へ行く。

 前世であればまだまだ子どもと言われた年齢でも、この国では立派な成人だ。たとえまだ身長が伸び続けていても、二次性徴の途上でも、明日から私たちには納税の義務が発生する。


 私はその代わりに、ヴァイオ家の支援を断るつもりでいた。子爵号を返還し、ただの平民になる。もういらないと、愛情の皮を被せた金はもういらないと、そう言うのだ。

 いま持っている個人資産だけで、おそらく一生暮らしていける。私の絵には、この国ではそれだけの価値があった。


 人混みの中、だんだんと新成人の姿が増えてくる。友人同士で向かう者、大量の旗を自慢げにかざす者、数本の旗を大事そうに握りしめる者。私が描きたいものが、この世界にはたくさんある。それを許してくれる人々が、この世界にはたくさんいる。


 白い教会が見えた。


「ジークレット様」

「ジータ様ーっ!」


「ナーシャ、レーナ」


 愛してくれる人がいる。


 いつだったか、私は我がままな娘になると決めた。やりたいことを、やりたいように、あるがままに。そのために、怠惰なクズを受け入れることに決めたのだ。ただあるがままに生きることは、とても難しいけれど。


「おめでと、ジータ様!大好き!」

「ありがとう、レーナ。私も大好きです。やっと、レーナと同じ成人になりました」

「ちゅーしていい?ちゅー」


 頬ならどうぞ、と差し出すと可愛いキスをみっつくれた。おでこはダメですよ。

 愛情をこめて、私も頬にキスを返す。


 ちょっぴりバカだけれど、いつも一生懸命なレーナ。私のために努力をしてくれた、大切なひと。

 少しずつ形になるレーナの努力が報われた日、貴女の創った白石粉で、貴女の夢を描こう。


「ジークレット様……成人、おめでとうございます」

「ふふ、ありがとう。ナーシャは、大好きをくれないのですか?」


「もう、仕方のない方ですね。愛しています、私の可愛い


 ありがとう、私を育ててくれて。ありがとう、私に期待してくれて。ありがとう、私を嫌わないでいてくれて。


 ありがとう、こんな私を愛してくれて。


「ありがとう、私の心を守ってくれて」


 私は誰よりも。貴女ママを愛してる。



〇●〇●〇●〇


 大扉から聖堂に入るのは、七年前の洗礼式以来である。背が伸びた今では、見える景色も少し違う。

 あのときから変わらず、慈愛をもって迎えてくれるタルクウィニア像。もし本当にタルクウィニアがこの世界に連れてきてくれたのだとしたら、私は主に感謝してもしきれないだろう。

 なにをどうしたって、恩を返しきれそうにない。


 聖堂に入るのは一人ずつ。中に入るまでは長蛇の列だ。聖堂に足を踏み入れたのち、担当の神官に儀礼の案内をされる。


「お待ちしておりました、ジークレット様」

「ハルクレッド先生だったのですね」


 まぁ、分かっていたけれど。

 貴族の子女子息は、家庭教師で世話になった神官に案内されるのだと、事前に聞いていた。私にハルクレッドがつくのは当然だった。


「たくさんの幸福をもらいましたなぁ」


 神に仕える身でなければ、私も貴女に旗をお渡ししたかった。そう言ったハルクレッドの手を握り、主神像の前でするように膝をついた。

 成人の儀は周囲の人々に感謝と愛を伝え、ここまで育った幸運と幸福をお裾分けするための儀式。ならば、この人にも伝えないわけにいくまい。


「ジークレット様?」

「ハルクレッド先生。私は誰よりも、先生に感謝しております。私に愛を授けて下さる方はたくさんいます。私の心を守ってくれる人も。でも、私の心に問いかけ、導いてくれたのは先生だけ。人生の師と呼べる方は、先生以外にはいないのです」


 この世界だけではない。前世を含めても、私の先生はハルクレッドだけだ。

 私の怠惰癖や保身癖を、ふははは!と笑って許してくれるひとだから。ああしなさい、こうしなさい、なんてけして口にしないひとだから。如何かな、とただ問いかけてくれるひとだから。


 私はハルクレッド・ソルマトという人間に、安心して心の迷いを預けられたのだ。

 敬愛する師よ。


「ハルクレッド先生に出会えなければ、私はジークレット・デ・ヴァイオたりえなかった」


 ハルクレッドが如何かな、と問いかけてくれたから、私はたくさんのことを考えた。そうでなければ、きっと今ごろ“私”という意識とジークレットの身体に取り返しのつかない溝が出来ていただろう。


「だから、誰よりも先生に。この言葉を」


 愛は家族に、恋はあの人に、幸は彼に。そして、感謝を貴方に。


「ハルクレッド先生と出会えた主のお導きに、心より感謝を」


どうかこれからも、作麼生いかがかなと問いかけて。



〇●〇●〇●〇


 成人の儀は、洗礼式よりも面倒だ。


 担当神官に導かれるまま、タルクウィニア像の足元に旗を置く。私の前に儀式を終えた者たちの旗が、すでに山となって積み上げられていた。

 これを管理する教会も大変だな、と思ってしまう。祭りの準備や後始末は、神様が勝手にやってくれるものではない。人の手で作り、人の手で終えるのだ。


 旗の数だけワイングラスを受け取る。私の数は二十九本。地味に増えてしまった。

 いくらひと口しか注がれていないとはいえ、相当な量になる。五十本以上集めたときのことなんて考えたくもない。良かった、調子にのらないで。


 ワインでお腹をたぽたぽにしたあとは礼拝堂だ。


「主への告白は、すでに決めておいでかな?」

「はい」


「泣いても叫んでも、誰も聞いておりませぬ。存分に、主と語り合っておいでなさい」


 ハルクレッドが扉を閉めた音を背中で聞く。飾り気のない真っ白な礼拝堂。

 声に出して、神に語り掛けるそうだ。内容はなんでもいい。これまでの懺悔を行う者、愛を語る者、今後の抱負を語る者。様々だ。ならば、私は?


 私はなにを語る。


 すぅと息を吸って、声に乗せてみる。懐かしい、日本語を。


「かみさま、わたしをこのせかいにつれてきたのは、あなたですか?なぜ、わたしだったのでしょう。わたしは、ひととしてだめなにんげんです。おやにめいわくをかけ、たいせつなひとをなかせました」


 あの子はきっと、泣いてくれただろう。身体以外になにも返せなかった、ダメな私のために。

 十四年経って、その声すらもう思い出せない。顔だって、会話だって、たくさん忘れてしまった。前世を忘れたいと願いながら、忘れたくないと願う。矛盾した心。


「あかあさんは、おとうさんは……わたしがしんだことを、どうおもったでしょうか。あのこはいま、どうしていますか?わたしがしんだことに、せきにんをかんじているでしょうか。もし、そうなら、あのこにつたえてください。ごめんね、と。きみのいないところで、かってにしあわせになってごめんね、と」


 舌をあまり使わない日本語は、いまの言語に慣れた私には難しい。自分ではちゃんと喋れているつもりだけれど、きっと日本人が聞いたら拙く思われるだろう。


「かみさま。たるく、うぃに、あさま。どうか、どうか……」


 膝をついて背を伸ばしていた姿勢から、正座になる。そのまま手をついて、頭をさげ、額を冷たい床に擦りつけた。

 これは、“私”の懺悔の姿勢だ。


 いまは、いまだけは、私はジークレット・デ・ヴァイオであることを後悔する。いままで告げた愛に背く行為。


 ありがとう、愛しています。ジークレットを愛してくれてありがとう。そう語った、そう心から感じた私の想いに背く行為だ。



 ジークレットになんか、なりたくなかったって。



「わたしは、しあわせになんか、なっちゃいけなかった。せいじつさも、まじめさもない。うそつきなわたしは、あいをもらっちゃいけなかった。かみさま……」


 どうか、どうか。


「どうか、わたしに……罰を、ください」


 宿題をやらなくてごめんさない。遊んでばかりでごめんなさい。テストの結果を隠してごめんなさい。学校をサボってごめんなさい。授業中寝ていてごめんなさい。

 大事な場面で笑ってごめんなさい。朝起きられなくてごめんなさい。仕事でミスしてごめんなさい。遅刻してごめんなさい。欠勤してごめんなさい。

 真面目になれなくてごめんなさい。仕事しなくてごめんなさい。絵ばかり描いていてごめんなさい。

 借金までしてギャンブルにのめり込んでごめんなさい。お酒も煙草もやめられなくてごめんなさい。

 ごめんなさいと言えなくて、ごめんなさい。


 先に死んでごめんなさい、お父さん。連絡無視してごめんなさい、お母さん。

 別の人を親と呼んでごめんなさい。愛を返せなくてごめんなさい。


 生きていてごめんなさい。こんな私が幸せになって、ごめんなさい。


 それでも私は、幸せだと感じることをやめられないのです。



 教会から出てボロボロ泣いている私を抱きしめたのはナーシャだった。誰よりも安心する腕の中で、私はもう一度泣いた。


 もう、大丈夫。


 何がなんだか分からないままこの世界に産み落とされて、私はジークレットと呼ばれた。

 私は“私”なのか、それともジークレットなのか。もし、本物のジークレットがいて、“私”の魂が胎児に入り込んでしまったのだとしたら。


 そんな疑問は、そんな悩みは、もう必要ない。



 私は“私”で、“私”はジークレット。

 私はこの日初めて、ジークレットになれた。


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