ジークレット・デ・ヴァイオは落とし子たりえるか1


 ジークレット・デ・ヴァイオはタルクウィニアの落とし子である。


 ジークレット・デ・ヴァイオは賢い。知識がある、算学が出来る、そういった俗物的な賢さではない。ジークレット・デ・ヴァイオという幼子は、考えることの出来る人間なのだ。


 ジークレット・デ・ヴァイオは真似をしない。


 子どもというのは大人の真似をしたがる生き物だ。大人の仕草や言動を真似ることで学習し、自然と大人に近づいていく。着替えも、食事も、言葉も、そうやって様々な事柄を習得する。

 レーナもそうだった。私が食べる様子を見て、同じように野菜を手で掴んでは皿の上をぐちゃぐちゃにしていた。ひとりで着れもしない服を頭からかぶり、布に包まって笑っていた。


 ジークレット・デ・ヴァイオは、ただ私たちを観察し、気づくと出来るようになっているのだ。何もかもを真似するわけではなく、彼女は頭のなかで模倣するべき事柄を取捨選択している。


 自身で出来ること、まだ出来ないこと、他者にやらせるべきこと、それを考え、おそらく理解している。

 言葉もそうだ。幼いながらも、彼女は正しい言葉を使おうとする。レーナの子ども言葉を真似することはない。レーナの真似をしたほうが喋り易いだろうに、私とレーナの言葉を飲み込み、自身の中で噛み砕いてから口にする。


 いま思ってみれば、乳飲み子だった頃から片鱗はあった。

 つい先ほどまでぐずっていたのに、レーナが我がままを言うたびに彼女は泣き止んだ。まるで、母親をレーナに譲るように。そうして、誰もいない部屋で声を上げずに泣くのだ。


 偶然かもしれない。しかし、彼女の瞳にある知性の輝きをみてしまえば、そうとも言い切れないのである。


 なにより、彼女は私を母とは呼ばない。一度として、彼女が私を母と誤認したことはない。

 乳母としてヴァイオ家に雇われた際、義母に何度も言い含められていた。どんなに幼くとも、どんなに情が湧こうとも、母と呼ばれたら否定しなくてはならない、と。自身は乳母であり実母がいるのだと、私は貴女の世話を任された下人のひとりに過ぎないのだ、と。分かるまで何度も言葉で伝えなさいと言われていた。

 幼いレーナはそんな事情も知らず、彼女の前で私をママと呼ぶ。子どもは真似をして育つ生き物だからこそ、いつかは覚悟しなければ、なんてことも考えていたのだ。しかし、何を言うまでもなく、ジークレット様は私をナーシャと呼び、レーナをレーナと呼んだ。


 一歩引かれたその距離は、けして母と子にはあり得ぬもの。


 だからと言って、ジークレット様が母を求めることもなければ、父について訊ねることもない。私が親でないと理解していてなお、自らの親を求めようとしない様は神聖で、ひどく悲しいことのように思えてならなかった。


「ジータ様、あれが肉串です!建国祭と奉納祭のときにだけ食べられるご馳走です!」


 ジークレット様の手を引きながら、レーナが人込みの中をグイグイと進む。この辺りを知るレーナであればまだしも、ジークレット様が迷子になろうものなら一大事である。実家から疎まれていようとも、彼女はヴァイオ家の長女。責任問題だ。

 ため息をつきながら追いかけると、興味深そうに辺りを見回すジークレット様のお顔が見えた。屋敷の庭を除けば、はじめての外出と言っていい。

 グレーの瞳に好奇心を浮かべるも、年相応にはしゃぐことはしない。その表情はレーナよりもずっと年上に見えた。


「けんこくさいと……ほう、のう、さい……だけ……」

「はい、特別なんです!ママ、肉串食べたい!」


 革袋から鉄貨を取り出そうとして、ジークレット様と目があった。なにかを訊きたそうな目。しかし、もごもごと動く口から言葉は出てこない。

 言葉を知らないのか、それとも遠慮か。


「トスカ・サリエラの神話を覚えておりますか?」

「こどもをたべた、かみさま」

「そうです。奉納祭は、タルクウィニアやトスカ・サリエラに感謝の意を示すための行事です」


 トスカ・サリエラは農耕の神である。創世神タルクウィニアが、飢える人間のためにひとりの農夫に知識を与えた。トスカ・サリエラはその知識をもとに毒芋を食べられるものへと変え、知恵を人々に与えた。人間たちが大飢饉を生き延びたのは、トスカ・サリエラのお力なのだ。

 生活が安定し家庭を築いたトスカ・サリエラは、しかし、飢えの恐怖を忘れることが出来なかった。知識と引き換えに、『満たされる心』を失っていたのだから。

 農業に従事せず家の貯えを食いつぶすばかりの息子に、やがて彼は危機感を募らせ、飢えの恐怖に囚われていく。息子はいずれ餓えを招き、我が身を滅亡に導くだろう、と。


『なにを言っても息子は変わらぬ。思い通りにならぬなら、食べてしまえば良い。我が身を滅ぼすのなら、息子が大人になる前に食べてしまえ』


 トスカ・サリエラの神話に必ず記される言葉である。

 飢えの恐怖と狂気に囚われたトスカ・サリエラは、実の息子を食べてしまった。


 建国祭と奉納祭で教会から振舞われる肉串は、トスカ・サリエラが息子を食べたという神話に基づくものだ。実の子を食べずとも、我らは飢えに苦しむことはありませんと、農耕神トスカ・サリエラに感謝を捧げる。


「ジークレット様にはまだ難しかったでしょうか」

「ううん。なーしゃ、ありがと」


「ママ、お肉ぅー!」


 私が奉納祭で食べる肉串の意味を理解出来たのは、結婚した十四歳のときだった。死去した夫が丁寧に教えてくれて、その時初めてトスカ・サリエラと肉串の関連を知ったのだ。その時までは、肉串とはお祝い事の特別な食事でしかなく、トスカ・サリエラの神話と結び付けようなどとは思ってもいなかった。

 レーナは今の話をほとんど理解していないだろう。頭の出来は夫に似なかった。


 鉄貨を十二枚。革袋から取り出したそれを、ジークレット様とレーナの目の前に広げる。


「肉串はひとつ四ジル。いち、に、さん、よん。これでひとつ。ご、ろく、なな、はち。これでふたつ。きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに。これでみっつ」

「じる」

「はい、この鉄貨ひとつで一ジルです」


 恐る恐るというように、私の手からひとつ鉄貨を取り上げると、裏表をじっと観察した。レーナは新しいものを見るとすぐに口に入れる子どもだったが、そういえばジークレット様はそれをしない。

 グレーの瞳に創世神タルクウィニアの横顔が映る。


 賢いこの幼子が今なにを考えているのか、私はそれが知りたかった。


「鉄貨、銅貨、銀貨、金貨。すべてにタルクウィニアの像が施されています。鉄貨と銅貨には横顔が、銀貨と金貨には正面からのお顔が」


 銅貨を取り出すと、それもまじまじと観察する。銀貨や金貨も見せたいところだが、夫を亡くした貴族崩れの私には、残念ながら縁遠いもの。屋敷に戻ったら大鉄貨や大銅貨も見せて差し上げよう。

 可愛らしく頷いたジークレット様が、左手に鉄貨を、右手に銅貨を掲げた。


「いち、じう。こっちは……?」

「一六〇ジルです」


「マァーマァー!おぉーにぃーくぅー!」


レーナが決壊した。



塩の振られた肉を奥歯で噛みしめると、ジワと口の中に脂の乗った肉汁が広がる。普段食べている干されたくず肉や、獣臭いそれとは比べ物にならない。美味しい。


 王族や上位貴族に高額寄付の礼として卸される協会の肉。たったの四ジルで食べられるのは建国祭と奉納祭の時だけだ。子ども用に小さく切られたそれを、小さなふたりも黙って咀嚼していた。ジークレット様には少し硬すぎるかもしれない。大丈夫だろうか……

 ジークレット様は普段から大人しいが、レーナも食事の時だけは静かにしている。いつだったか、食事の最中に大騒ぎをして義父に怒鳴られた経験が効いているのだ。お爺様に怒られるよ、と言うと途端に静かになる。

 温厚だった夫と違い厳格な義父は、良くしてもらっているとはいえ、私も怖い。


「なーしゃ、ありがと。おいしかったです」

「ジークレット様、トスカ・サリエラ、ですよ」


 食前と食後の祈りを必ず行わねばならないのは、月に一度の聖餐日のみ。

『トスカ・サリエラ、トスカ・サリエラ、その大いなる恵み感謝し、現今に続きし繁栄を末々に約束することを主に誓います』

 聖餐日は七歳の洗礼を終えてから正式に参加することになるため、祈りの句はレーナもまだ覚えていない。


 大抵の人間は建国祭や奉納祭での食事に「トスカ・サリエラ」と唱える。教会から提供されている食事であるため、なんとなく唱えなければいけない気になるのだ。耳を澄ませば、隣の男たちの言葉も聞こえて来るだろう。

 とは言え、平民は誰しもこの肉が目当てで、豊穣を祈ったり、トスカ・サリエラの狂気を鎮めようなどとは思っていないだろうが。


 食べ終えた二人の手をとって、屋台に串を返しに行く。

 肉を焼く者、肉串を配る者、串を回収する者。年老いた神官が多いが、年齢を感じさせないほどテキパキと働いていた。畑仕事や家畜の世話など、神官は体力のある者でなければ務まらない。

 串をぽいっと籠に投げ入れたレーナの頭を小突くと、べぇっと反抗的に舌を出す。ここに義父がいれば怒鳴られていただろうに。


「おしかったです、ありがとう。えーと……とすか・さりえら」

「おー!良い子ですな。えぇ、はい、トスカ・サリエラ。幼き貴女にも主のお恵みがあらんことを。建国祭、どうぞ楽しんでいらっしゃい」


 こういう時、私の胸にいつも熱いものが広がる。

 ジークレット様が初めて私の名前を呼んだ時、ジークレット様が初めて私にものを訪ねた時、私はいつもこの胸の熱さに苛まれた。まだ真っ新なこの賢い幼子は、私が与えたものをどんどんと吸収していく。


 魔法の使えぬ賢き子、タルクウィニアの落とし子。私はこの方の行方が見たい。何を為すのか、何を世に残すのか。

 魔力のない貴女が、ヴァイオ家の当主になることはないでしょう。害獣退治の英雄になることも、戦争の英雄になることもないでしょう。魔法をつかって、美しき芸術を生み出すこともないでしょう。


 タルクウィニアは、この子の魔力と引き換えに何をお与えになったのか。それを手に、いったい何を為すのか。


 私はジークレット・デ・ヴァイオという人間が創世神タルクウィニアの落とし子であると信じて疑わない。魔力と引き換えに知性を握りしめて生まれてきた貴女は、必ず何かを為すだろう。


 愛を知らない神の愛し子に、私は知識と愛を与えられる。貴女が大人になるまで、どうか私にその手を引かせてほしい。

 この胸に広がる熱は、歴史の一幕に身を置いている高揚だと、私は知っているのだ。


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