第3話 揺らぎ

 彼女は、僕と二人で地下鉄に乗って、東京の東側までやってくることが増えた。ごみごみした町の中で、彼女は場違いに綺麗で、川に迷い込んだ熱帯魚みたいだった。

 その日、いつもとは違うペースで杯を重ねて、飲み慣れない安酒に酔った彼女が凭れた僕の腕には、優しい波のように鼓動が伝わっていた。

 どくん、どくん、と繰り返し刻む胸の鼓動が早かったのは、酔いの所為だけだったのだろうか。彼女の柔らかい髪が夏の温んだ風にそよぐのを見下ろす度に、僕の胸の中の波は乱れて暴れていた。

「ねえ、人の身体の中はさ、70%が水でしょ」

 呂律の怪しい口調で、彼女がご機嫌な声を出す。その言葉の終わりが、気弱に震えていたのは、聞かなかったことにした。

「らしいね」

「そんな海を身体の中に飼っていたらね、感情が騒ぐ度、暴れて零れたりはしないのかな」

「だから涙は塩っぱいんじゃないの」

 彼女が僕をじっと見上げて、淵の赤くなった目を細めた。

「いやだ、君、ロマンチスト」

「ほっといてよ」

 優しい彼女の揺らぎ。僕はそれが好きで、とても好きで。自分の中の波に溺れかけていた彼女を抱きしめたかったのだけれど、できたはずもない。ただ直ぐ傍らで、同じように揺れていたいと、そう願っていた。いつも着けていたピアスが、今日は彼女の耳を飾っていないことに、僕はひどく安堵していたのだ。

 深く溜息を吐き出した彼女が、俯いたまま、僕に寄り添う。ばらばらだった二人の波が、ぴったりと重なっていく。これほどまでに嬉しいことだと気付いたのは、自分が泣き出しそうになっていたからだった。

 二人で並んで橋を渡る。隅田川のどこか汐を思わせる匂いが、夜風に混じって僕らを乱した。水面はてんでばらばらに、美しい波形を描いて煌めいていた。

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