深海魚

中村ハル

第1話 三つのリズム

 思えば始めから、僕たちは重なり合うことなどなかったのだ。

 東京のシンボルと言えば、君は東京タワーで僕はスカイツリー、水辺ならばお台場と隅田川、お酒はオシャレなカクテルと金宮焼酎で、移動手段はJRと地下鉄。だから、いつも君と僕は地上と地下に別れてさよならをした。君は地上に、僕は地下に。まるで世界を引き裂かれるみたいだった。そう言うと、君は大袈裟だって笑ったけれど。

 始まりは、なんだったっけ。そう、確か、大学の講義で隣に座った彼女のジャスミンの香りの香水が、僕の知っているジャスミンの匂いじゃなかった。

「これ、何の匂い?」

 ヒトより嗅覚が鋭敏な僕には、その合成された香りは刺激が強くて、思わず鼻に皺を寄せたのだ。

「茉莉花だよ。いい匂いでしょ」

「ジャスミンはこんな匂いじゃないよ」

 僕の知っているジャスミンは、隅田川の遊歩道沿いの壁に、雑草みたいにへばりついて生えていて、夏の盛りに白い花と噎せ返るような甘い芳香を振りまいている。あれは、青空の下で嗅ぐからこそ、馨しいのだ。一方、彼女の茉莉花は洗練されたデザインの硝子の小瓶から漂って、僕の鼻先に纏わり付く。そもそも、茉莉花とジャスミンは、似て非なるものではなかったろうか。

「雪乃」

「あ、貴之くん、おはよ」

 僕が出会った頃には、彼女には既に貴之という彼がいた。いつもアイロンすら当てていないスタンドカラーのシャツを着ている冴えない僕とは対照的に、過剰になりすぎない程度の流行のスタイルを着こなす彼は、まあ、ややキザではあるがいいヤツだった。

 僕らは直ぐに仲良くなり、講義が被る時も被らない時も、顔を見れば集まって話をしたものだ。彼と僕の二人のこともあれば、僕と彼女の組み合わせの時もあった。彼が最初から、僕と彼女が二人きりになるのを嫌がらなかったのは、単に相手にされていなかったからだろう。僕らがするのは他愛のない話ばかりで、お互いの重ならない部分を言い合ったのも、彼の講義が終わるのを待っていた時だ。

 東京の中心と東側とに隔てられた僕らは、大して広くもない首都の中で、本当に同じ都民だろうかと首を傾げるくらいに生活環境が違っていた。

「え、野鳥の鳴き声がして虫が出るとか、どこ?」

「東京だって、二十三区内だってば」

「またまた」

「いやいや、ほんとに」

 僕はビルと自然と川がある自分の町が好きだった。遊ぶ場所も買い物をする場所も何もなくて、地下鉄に乗らなければJRにすら接続できない町だったけれど、決して都心に出ようだなんて、思いもつかないほどに馴染んでいた。

 それでも、憧れてはいたのだ。講義終わりに友人らと行くオシャレなカフェや、何を買えばいいのか尻込みするようなアパレルの店、少し背伸びして入るカフェバー。

「折角来たのに、なんでいっつもビールなの」

「や、こんな所で何頼めばいいかわかんないし」

 ミントジュレップ片手に笑う彼女から目を反らし、僕はいつものビールを煽る。それでも地元のアサヒビールではなく、クラフトビールを飲んでいるのは精一杯の贅沢なのだと気付いて欲しい。

「普段は何飲むの?」

 彼がジンバックを受け取りながら、尋ねた。

「いつもはホッピーかハイボール。って言っても、いわゆる下町ハイボールね」

「何、それ」

 興味津々の顔でこちらを眺める二人を横目に、僕は何と答えてよいものか逡巡する。通じるのか、説明したところで。

「金宮焼酎を炭酸水で割って、クエン酸の粉と人工梅エキスを入れるんだよ」

「なにそれ!」

「ハイボールなのにウイスキー入ってないじゃん」

「そうだよ、ハイボールが本当は金色なのを知った時、すっごいびっくりした。こんなのハイボールじゃないって」

「いやいや、そっちのがおかしいんでしょ」

 二人揃って破顔するのに気をよくして、下町ハイボールがいかに危険かを力説する。周囲では、やれ最新の音楽はどうだの、新しくできたどこそこのブックカフェがどうしただの、店内で揺れるダウンライトに合わせようと声を落としてさざめく、イマドキの会話で持ちきりだというのに。僕の無粋な下町トークに、隣に座った女性が苛立った視線を向けてきたが、彼女がそちらを盗み見ておかしそうに笑ったのを見て、僕はそれで良しとした。

 まるで違う波を持った僕らは、いつしかそうして、互いに違うリズムで揺れていることが当たり前になっていった。

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