リサコのために

大橋 知誉

一、救済 (1)

リサコには幼い頃から何度も繰り返し見ている夢がある。


コンクリートの冷たい床と錆びた扉。

まるで牢獄のような部屋の片隅で、膝を抱えてうずくまっている夢。

夢の中でリサコは待っている。


何を?

わからない。

何かを待っている。


 どういうタイミングでこの夢を見るのか具体的にはわからないが、熱が出たり、生理になったり、悲しいことがあったりと、何らかのきっかけがあるようだった。思春期も終盤に差し掛かった最近では、その回数はますます増えているようだ。


 夢の中でリサコは身動き一つせずに錆びた扉をじっと見ている。夢の中ではそれがリサコの世界の全てなのだ。


 そう、それが全てだった。


一、救済

 前の席の生徒が椅子を引いた振動で彼女は急激に現実へと引き戻された。静まりかえった教室。担任の河原ツトムが黒板に難解な数式を書いている。リサコはぼんやりした頭で懸命に現状を思い出した。


 …ああ、数学の授業中だった。すっかり眠っていたんだ。


 四月のうららかな午後。窓際席の後方に位置するリサコに居眠りするなと言ってもムリな相談である。ノートを見下ろすとヨダレが数滴。慌てて制服の袖でふき取った。ぐるりと教室を見回すと、クラスの半分以上は心地よい睡眠を貪っているのが見えた。


 こんな天気のいい日に数学なんてやってらんないな。


 リサコはさっきまで見ていた夢に思いを走らせた。コンクリートの冷たい床と錆びた扉。またあの夢だ。ここのところ数日おきに見ている。さすがにこんなに繰り返されると気味が悪い。何か精神異常の兆しだったりして…。できればもっと現実離れした楽しい夢が見たいんだけど。せめて夢だけは。


 河原が振り返ってメガネを持ち上げると、体を揺らしながら得意顔で数式の解説を始めた。

 「えーと、いくつかポイントがあるんですがぁ…この面積を出すためのぉ…」

 河原のダミ声が教室に響く。


 数式は魅力的だ。意味は全く分からないが、魅力的だ。数学も河原も嫌いだけど数式を書くのだけは好きだ。書くのだけね。リサコは丁寧に数式をノートに書き写し始めた。


 これは何の数式だって?微分?積分?物を細かくわけて全体を知る方法?まあ何だっていいや。とても難しそうで美しい。数式をすっかり書き写すと、リサコは満足して窓の外へと意識を流して行った。


 先生の声が遠のいていく。


 リサコの目の前に広がるのはどこまでも真っ青な空。ヒバリが二羽飛んで来た。ピーチクパーチク。やかましく騒ぎ立てながら楽しそうに飛んでいる。きっとあの二羽はカップルなんだ。幸せそうなダンス。恨めしいほど自由なヒバリたち。


 ああ、わたしはヒバリになりたい!


 その瞬間、リサコの意識はヒバリの元へと飛んで行った。リサコはヒバリだった。みなぎる力。隆々とした筋肉。なんとたくましい翼だろう!そしてはち切れんばかりの喜び!声を限りに歌っている!君が大好きだよ!って歌っている!お嫁さんが大好きなの。


 そう、この子は男の子。立派なお父さんになるんだ。生きているってすばらしい!


 リサコの意識はヒバリと共に広い空を駆け巡り、学校を見下ろした。校庭で野球の授業をしている生徒たち。教室にずらっと座って勉強している生徒たち。その中に混ざってこちらを見上げる自分の姿も確認できた。


 学校の向こうには、洗濯物を取り込む主婦や立ち話をするおばさんたち。工事現場で働く男たち。みんな自分たちのやることで精一杯。忙しそうにしている。


 人間は不幸な生き物だ。地面に張り付いて暮らしている。世界の素晴らしさの半分も知らない。


 わたしは自由。だってわたしはヒバリ!


 ヒバリたちはなおも校庭の上を飛び交い、愛を歌いあった。そうして喜びが絶頂に達した瞬間、全てが終わった。それはズドンという衝撃だった。一瞬にして彼女は教室に戻っていた。ヒバリの体から叩き出された感じ。


 まるでピッチャーが投げたボールがミットに収まるようにスパァンとリサコの精神は自分の体へと戻った。


 あまりに急激に戻されたものだから彼女は飛び上がって小さな悲鳴をあげた。クラス中が驚いて彼女の方を振り返った。目をまん丸に見開いてリサコは凍り付いたように教室の一角で立ちつくした。黒板にまだ何か書いていた河原が怪訝な顔をして振り返った。


 リサコは恐る恐る校庭を見下ろした。野球をしていた生徒たちが校庭の真ん中にあつまって、かがみこんで何かを見ていた。視線を空に移すと、ヒバリが一羽だけ。所在なさげにウロウロと飛んでいた。


 「野球のボールが当たったんだ。」


 リサコの声に生徒たちがどっと立ち上がって窓の方へ集まった。河原があわてて席につきなさいとモゴモゴ言っていたが、誰も彼の言葉を聞いていないようだった。


 「ほら、あそこ、地面にヒバリが落ちている。さっきのヒバリ。死んでしまった。」


 リサコが指差す方向を全員が見ていた。何だ、鳥か…という反応で席に戻る者もいたが、教室中のほとんどが窓ガラスに額をつけて黙って校庭の様子を見ていた。

 「おまえ、その瞬間を見たのか?」男子生徒の質問に、リサコは上の空でうなずいた。


 ああ、めまいがする。


 リサコはよろめいて自分の席に戻った。机にうつ伏せてもグルグル回転する感覚がひどくなるだけで一向にめまいは治らなかった。


 だめだ…


 リサコは顔をあげて深く息を吸った。今日はもう無理。これ以上学校にはいられない。だってヒバリは死んでしまったんだもの。


 「わたし、気分が悪いんで帰ります。」


 リサコは唐突にそう言うと、立ち上がって荷物をまとめ始めた。クラス中がまたリサコを振り返った。窓際に集まってボソボソお喋りしていた連中も黙ってリサコを見た。


 リサコは注目を集めてしまったことを急に後悔して、河原の返事を待たずに教室を後にした。逃げるように。


 廊下を数メートル歩いて振り返ると、教室から河原が顔をのぞかせてじっとこちらを伺っているのが見えた。

 ぎょっとしてリサコは立ち止まった。


 河原はノソノソと教室から出てくると「あの、ちょっと。具合が悪いならまず保健室に…」と言いながらじりじり近寄ってきた。身体を斜めに構えて、目だけをこちらに向けている。どんよりと濁った目が意地悪い。


 河原はめったに人と目を合わせないが、必要以上に相手を見ることもある。そういう時はぞっとするような恐ろしい目をしていることが多い。今はそのモードだ。きっとここでリサコを帰らせたら自分の評価が落ちると考えているのだろう。


 リサコは後ずさりながら、女子の間で広まっている河原退治の呪文を唱えた。


「生理痛がひどいんで、帰りたいんですが…。」


 効果は抜群だった。河原の顔が急に真っ赤になってニヤニヤして下を向いてしまった。

 「だからって帰っていい理由にはならないだろう…」

 ゴニョゴニョ言ってはいるが、さっきまでの不気味な威圧感は影を潜めた。これなら勝てそうだ。

 「帰ったらいけませんか?もう立ってるのもやっとなんですけど。」

 「いや、帰ってはいけないと言っているわけではなくてその…」

 「保健室行ったところで生理痛なんでどうしょもないんですが。」

 「いや、あの、その…。」

 「では失礼します。」

 「いや、あ、じゃあ、気をつけて帰れよ…」

 リサコは勢いよく頭を下げると、勝ち誇ったようにさっと向きを変えて、河原と教室を後にした。


 ばーか。きもちわるいやつ。


 一度だけチラッと振り返ったら、河原がまだ立っていて真顔でじっとこちらを見ていた。さっきのホラーバージョンに戻っている。ゾッとして小走りに急いで校舎から出た。


 外に出ると痛いほどの日差しが襲ってきた。さっきのめまいは河原とのやりとりの間にいつのまにか消えていた。


 リサコは目を細めて生き残ったヒバリの姿を捜したが、もうどこかに行ってしまって見えなかった。


 校庭に視線を移すと、どうやら生徒たちが死んだヒバリを花壇の片隅に埋めているようだった。


 その様子を眺めていたら、涙が溢れてきた。さっきまではじけるほどに元気だったのに。あんなに嬉しかったのに。あんなにお嫁さんのことが大好きだったのに。それなのに、あの子は死んでしまった。なんて不条理な世界なのだろう。あの子は優しい父親になる権利があったはずなのに。


 (権利だって?)


 リサコはヒバリのためにしばらく涙を流した。そして、明日あそこに行って花を供えてあげようと誓った。


 実のところ、彼女が再びここに来ることはもうないのだが、この時は自分の身に何が起こるのかなんて知るよしもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る