「The  Little Dragon」

蛙鮫

「残酷な怪物」

 透き通るような青空、緩やかな風が流れる草むらにトカゲの雄がいた。


 隣には彼が心から愛する雌が日光浴をしている。



 そして、この十数センチほど大きさの生き物の間には白く小さな卵があった。彼と彼女の愛の結晶である。



 通常、トカゲは複数の卵を産むが、彼女はなかなか子宝が授からず、その末でようやく得たのだ。



 たった一つだが不妊続きだった二匹にとってはこの上ない幸福だった。


「どんな子が生まれるのかな?」

「楽しみだね」


 二匹は仲睦まじく頬をすり寄せていた。


 これから生まれてくる自分達の子がどんな姿なのか? 雄なのか雌なのか? 


 父親似か母親似どちらなのか? いや、どちらでも良い。


 無事に生まれてきてくれるなら、二匹にとってこれほど幸運なことはないのだ。



 眠気が訪れて、家族仲良く石の下で静かに眠りについた。





 

 ぼんやりとした視界がゆっくりと定まっていく。横を見ると雌が横たわっていた。


 すぐ近くには卵もあった。しかし彼はあることに気がついた。



 視界の上がやけに明るいのだ。それどころか先ほどまでいた場所とは全く違う。



 正体不明の恐怖感が血流を伝って、全身を駆け巡った。


 彼女をゆっくりと起こすと、目の前の光景に驚いたのか目を丸くしていた。


「どうなっているの?」

「わからない」

 

 数時間前まで彼と彼女は草むらでうたた寝をしていた。辺りを見ると透明な場所に閉じ込められていた。



 そこは四角い形状になっており、出口のようなものは見当たらない。



 奥からラボコートを来たヒトが二人、歩いてくるのが見えた。


 一人はスキンヘッドの男ともう一人はメガネをかけた女である。



 彼の目の前で止まると、二人は会話を始めた。彼には何を喋っているのかまるで理解できない。



 しかし、時折、トカゲたちを見るその目から対等な存在とみなしていないという事はすぐに理解した。



 すると突然、嗅いだことのない異臭が辺りに充満し始めた。


 どうやら外に研究員が中にこの臭いを流し込んでいるようだ。


 臭いを嗅いだ瞬間、鉛を体に乗せたような凄まじい倦怠感に襲われた。



 愛する女性が徐々に弱っていくのがよく分かった。


 どうしてこんなことになったんだ。心の中で悔恨の念の混じった言葉が水紋のように広がっていく。


「くそ……」

 体が岩石のように重くなり、五感が静かに途切れた。








 ドクン。心臓が強く音を立て、鼓動を刻んだ。血の流れが一気に加速して、体が熱くなっていく。


心臓が常軌を逸した速度で強く脈打ち始めた。


 勢いよく瞼を開くと、目の前には最愛の女性が横たわっていた。



 僅かな望みを抱いて胸に耳を当てて、恐る恐る心音を確かめる。


 鼓動は止まっていた。呼吸も血の巡る音も一切なく、無慈悲な静寂だけが漂っていた。


 目の前の事実に抗うかのように彼女の体を揺らした。


 しかし、氷のように冷たくなった彼女から返事がくることはない。



「そんな、何で。何でこんなことに」

 残酷な現実を突きつけられて事実を悟った時、絶望の底に突き落とされた。



 まるでいきなり地面が崩れて、果てしなく続く奈落の底に落とされた気分だ。



 彼女は卵を抱えるようにして亡くなっていた。身を呈して未知の脅威から我が子を守ろうとしたのだ。なんて優しいのだろう。



 しかし、それ以上に救えなかった己の無力と愛する存在を奪った相手の敵意が混じり合う。


「どうしてだ」


 彼が望んでいたもの。それは妻と子供とともに日の当たる場所で仲睦まじく幸せな毎日を過ごすことだった。



 そんなささやかな願いも現実という名の不条理は握り潰したのだ。


 冷たくなった彼女の頬に優しく頬ずりする。愛しい存在。


「すまない」


 彼は心から自責の念を強く交えて謝罪した。


 このような悲劇を招いたのはこの部屋の外で自分達を監視している連中の仕業のはずだ。すると再び、足音が聞こえた。



 スキンヘッドが覗き込んで来た。まるで彼が生きているのが不思議だと思っているような様子だ。


 気に入らない。自分達をここまで拉致して、得体の知れない臭いを嗅がされて、最愛の女性が殺された。



 おそらく自分も殺されるであろう。もし自分が死ねばこの子は奴らの手に渡り、玩具にされるか、即殺される。



 外の世界を知らぬまま、生まれた意味すらわからないまま、一生を終えるのだ。


「そんなことはさせない」



 これから生まれてくる我が子と亡き妻への想いが彼を奮い立たせた。なんとか一矢報いたいと思った。


 躍起になり飛び跳ねた瞬間、あまりの勢いで透明の壁を突き破った。


そのまま勢いに任せてスキンヘッドの喉元を鋭利な爪で引っ掻いた。



「えっ」

 

 その瞬間、スキンヘッドの顔が四分割にされて、血しぶきをあげて吹き飛んだ。


彼自身も驚いた。怒りに任せた一撃が自身よりも遥かに巨大な生き物を地に伏せたのだ。



「嘘だろ。なんだ」

 トカゲは戦闘に関しては素人同然だ。あるとしても同種同士の争いにも一、二度勝利した程度の経験しかない。


 自身よりも遥かに大きな鳥や狐、狸等を見かけた際は餌食にならないように隠れていたのだ。


 しかし、たった今、それらよりも遥かに巨大な二足歩行の生き物を殺害した。

 

「まさか、さっきのあの変な臭いを嗅いだからか?」



 密室で嗅がされたあの臭いの影響。そうとしか言いようがなかった。目覚める瞬間、血流が加速して心臓も張り裂けそうなほど跳ねていた。


「ひっ」

 近くでは凄惨な光景を目撃して腰が抜けたのか、メガネの女がへたり込んでいた。


「まあいいや、だったらこの力、存分に使わせてもらうぜ!」



 愛する彼女を奪われた怒り。そして、自分達に残酷な仕打ちをした存在に復讐することが出来る。


 彼は御構い無しに怯える女の頭頂部に勢いよく、小さな拳を叩きつけた。


頭に地割れのようなヒビが入り、真っ赤な血が勢いよく吹き出た。


 生ぬるい血液の濁流に晒されて、体が赤黒く染まった。頬についた鮮血をひと舐めした。


「ふうん、悪くない」

 殺した獲物にお情けの言葉をかけた。我が子と妻の亡骸を尾で抱えて、血にまみれた体で白い床を進んでいく。




 部屋の前に丈夫な扉があり、カードでセキュリティを解除しなければ出入りは出来ない仕組みとなっていた。


「邪魔!」

 しかし、彼が怒りに任せた剛拳が分厚い鉄の扉を吹き飛ばした。


轟音とともに粉塵と煙が舞い、視界が灰色に染まる。


 粉塵が晴れて、視界が良好になると目の前に麻酔銃を構えた警備員が彼の前に立っていたのに気がついた。


「動くな!」

 トカゲには銃がどんなものか分からなかったが、警備員の様子から見て武器だと理解した。


 警備員が引き金を引いた瞬間、発砲音とともに鉛玉が回転しながら迫ってくる。



あれに当たるのはまずい。そう察した彼だったが、鉛玉がゆっくり動いているように見える。



 まるで静止した時の中を自分だけが進んでいるような感覚だ。瞬時に弾をかわして、警備員の元に駆け寄った。



 大きく口を開くと、いつもの数十倍以上に口が裂け始めた。


 しかも口の中には無数の鋭利な歯がびっしり生えそろっており、完全に普段の彼とは別物の姿をしていた。


「ぎゃあああああ!」

 警備員に食らいつくと、血しぶきとともに聞くに耐えない悲鳴があがった。


 強靭な顎の力で薄い皮膚を食い破り、肉と骨を引きずり出して、頬張って行く。



 美味い。ヒトを食らうのは初めてであったが、あまりの美味さに頬がとろけそうになっていた。



 白い床が赤黒い血で染まっていくのを気にも止めずひたすら、喰らい続ける。


「あーうまうま!」

 警備員を満腹になるまで貪り食った後、静かに研究室の外を目指した。


 辺りでは耳触りな警報装置の音がけたたましく鳴り響いており、あまりの煩わしさに辟易としていた。



「ここで食い止めろ!」

 無数の足音とともに目の前に数人の銃を構えた男達が現れた。


 何百発という鉛玉がトカゲにめがけて飛んできた。


 しかし、彼の目にはあまりにも遅く見えた。


 すぐさま、横の壁に移動して、鋭い爪で男達を瞬く間に八つ裂きにした。


 無数の悲鳴とともに鮮血や臓器が廊下の壁や天井に飛び散り、地獄絵図とも言える光景が広がる。


 乱射後に立ち込める薬莢と血の臭いが混じり合い、吐き気を催すような臭いが辺りに充満し始めた。


 廊下を進もうとしたとき、微かに物音がした。


 一人だけ、男が生きていたのだ。男は床に倒れながら、引き裂かれた腹部を抑えながら、彼に怒気をはらんだような目を向けていた。


「クソッ、トカゲ風情がっ、に、げんに楯突、っくな……て」


 その一言を最後に男は喋らなくなった。


 トカゲには男が何を喋っているのか理解できなかったが、表情や雰囲気から自身を侮蔑しているのはなんとなく分かった。


 不快感を抱きながらも、鼻を塞いで廊下を進んだ。


 

 そこからトカゲは捕らえようとしてきた警備員や研究員達を惨たらしく殺し続けた。


彼自身、ここまで自分に残酷な一面があるとは思わなかった。


 しかし、妻を奪われた悲しみと人間に対する計り知れない憎悪が彼を動かしていた。



 数分後、自身と愛する妻子を閉じ込めていた建物を脱出することに成功した。外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。



 その直後、研究所が凄まじい音とともに爆発した。急な出来事に驚いて、トカゲはその場で飛び跳ねた。


 辺りは火の海となっており、きらめく夜空に渦汚れた黒煙が登っていた。



 燃え盛る研究所を横目に暗闇に包まれた森の中に逃げ込んだ。夜の森を進んでいるとひらけた草原に出た。



 月光が生い茂る緑の絨毯を優しく照らしており、その真ん中に大きな木が一本あった。



 彼は草をかき分けて、木の根元まで近づいていく。


目的地に着くと彼は両手を使い、掘り始めた。無論、彼女を埋葬するためだ。



 掘り終えた後、丁重に遺体を入れて、愛する女性に土を被せていく。


湿った土を重ねていくたび、別れが近づいてくるのをひしひしと感じた。


 徐々に姿が見えなくなっていく。この土が完全に彼女を覆い隠した時、彼女とお別れだ。


先ほどまで平然と持っていた土が徐々に重く感じる。


「さようなら」

 惜別の念を込めて、バサリと最後の土を被せた。


 彼は泣いた。目にゴミが入ったわけでもない。

ただ、悲しみのあまりに涙を流した。


 横で佇む我が子に目を向けた。彼にあるのはこのだけだ。


 逃亡しているうちにあの研究員の仲間が自分達を捕獲しようとしてくるかもしれない。


しかし、彼の中では鋼のように固い、意志があった。


 愛する我が子を守るためには悪魔よりも冷酷無比になることだ。


「俺が必ず守る」

 虐げられた弱者は残された希望を守るため、この世で最も残酷な怪物へと変貌した。

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