23.真実の彼女


「ここで……いいんだよな?」


 マンションの三階の廊下。立ち止まった一つのドアの前で俺は岸さんから教えてもらった部屋番号を確認する。表札もちゃんと『朝比奈』になってる。だから間違いないはずなんだけど、何せ初めてだから心配で。


 まだちょっと呼吸が乱れている。走ってきたのもあるけれど今両手に持ってる荷物の重さのせいでもある。


 お見舞いなのに手ぶらじゃ気が利かなすぎるとここへ着く前に思い出したのは良かった。

 まず熱がどれくらいなのかも食欲あるのかもわからない。そう考えるとスポーツドリンクやレトルトのお粥、ゼリー飲料などが良いんじゃないかと思って少し遠くのドラッグストアまで行ったんだ。


 いざ買い物を始めたら、膨らんでいく心配を具体化するかのようにカゴの中の商品はどんどん増えて、会計のときになってやっと自分が金欠なことを思い出したくらいだ。

 でもいいんだ、俺は。三食卵かけご飯でもやっていける。なんて言ったら母さんに怒られるだろうな。


 そうして準備だけは万端にしてきたはずなのに、心の方がまるで整ってないときてる。

 早く渡すなら渡さないと。いつまでもこうしている訳にもいかないだろう。


 内心で自分を叱咤して、意を決してインターホンを押した。



 ピンポーン



「…………」




 …………。




 遅いな。返事も聞こえない。もしかして寝ちゃってる?


 いや、それだったらまだいいんだけど。出直してくればいいだけだし。

 胸の奥が不穏にざわついて嫌な汗が出てくる。


 まさか……倒れてたりしないよね?

 大丈夫だよね、朝比奈さん。


 二度目を鳴らしてみるかどうか悩んでいた。    

 あまりしつこくすると迷惑かも知れない。それでも悪い想像ばかりしてしまう気質、ボタンに伸びる指もすでに震えている。


「朝比奈さん……お願い」


 もはや祈るばかりになっていた。

 そんなときに。



『……はい』


「……っ!」


 細く弱々しい声がインターホンの方から。

 俺はそこへ縋り付くようにして顔を寄せた。



「朝比奈さん? 夜野です。急に来たりしてごめん。体調は、大丈夫?」


『はい……今開けます。ちょっと待ってて下さい』



 こんな声……大丈夫な訳がない。なんでもっと気の利いたことが言えないんだ俺はと、唇を強く噛み締めた。



 小さな足音の後、ガチャと音を立ててドアが開いた。

 隙間からあの締まりのないゆるい笑顔が覗く。


 頬は赤みを帯びていて、目がいつもより虚ろに見える。寝癖だらけの髪。格好はさすがにネグリジェじゃない、シンプルなパジャマだ。


「夜野さん、ありがとうございます。心配かけてごめんなさい」


「あっ、いや、俺の方こそ」


 彼女の吐息混じりの切なげな声に正直緊張が昂った。大いなる勘違いなのはわかっているが、もしや俺がいなければ生きていけないのではないかなどと錯覚しそうになる。限りなく支配欲に近い、自分でもヒヤリとするような感情。


「それよりこれ。食欲あるかわからないけど、水分くらいはちゃんと摂った方がいいと思って」


 己のけしからん雑念を振り払うようにして袋を差し出したところで気が付いた。


 待て、この重さ。この量。それも二袋。

 すっごい今更だけどこんなの病人に運べる訳ないじゃないか。


「すみません。親切にしてくれて……本当にもらっていいんですか?」


「う、うん、それは全然いいんだけど」


「ありがとうございます。また今度お金払わせて下さいね」



「ちょ、ちょっと待って朝比奈さん! これすっごい重いから俺が途中まではこ……っ」



 あっと声を上げたときにはもう遅く。


 差し入れの袋を受け取ろうとした朝比奈さんがバランスを崩した。


 時はまるでスローモーションのようで。


 その中でも俺は無我夢中だった。


 後ろでドアの締まる音が響く頃、彼女を抱えて廊下に倒れ込んでいた。




 床が、冷たい。

 視線を巡らすと転がってるペットボトルが見える。上には真っ白な天井も。


 何もかもが静かな中で、重なった二人の鼓動だけが激しい。確かに感じ取れる身体の柔らかさは彼女が如何に無防備な姿で俺を出迎えたのかを物語っていた。


 起き上がらなきゃと思ってるのに身体が麻痺したみたいに動かなくて、意識は何処か微睡んでいて、それでもただ一つだけ実感できることがあった。


 ついに閉じ込められてしまったんだ。二人だけの空間に。



「頭、打ってない?」


 そう訊くのが精一杯で。

 理性はもう限界に近いけど、まだ彼女を気遣う言葉が出てくることに少しばかり安堵する。


 彼女は小さく頷いた。その背中を撫でるとかすかに震えていることに気が付いた。鼻を啜る音が混じってる。


「ごめん、やっぱり痛かったよね。俺がもっと気を付けるべきだった」


 でも彼女はかぶりを振って言ったのだ。



「そうじゃない、と思います」



 その不思議な言い回しは俺がここに来るまでの間に膨らませていた予感を更に確信へと近付けた。


 間違っていないだろうか、俺は。

 わずかにためらいはあったけれど、彼女の涙目がこちらを向いたときには決意が固まっていた。



「何故泣いてるのかわからないんだね」



 彼女の瞳孔は少し収縮したように見えた。

 二つの目はみるみるうちに泉と化す。ポロポロと溢れてくる。


 そう、彼女はいつだって“行動”そのものが最も真実に近かった。



「君の本心はいつも濃い霧の向こう側だった。傷付いてない訳じゃない。自分でもその傷が見えなくなってる。ストレスはいつの間にか蓄積されて、自覚がないまま体調を崩す。君は人の気持ちはよくわかるけど自分の気持ちはあまりわからない。違う?」


「いつから……気付いてたんですか」



「最初からって言ったらカッコイイんだろうけど、残念ながらついさっき。俺もずっとわからなかった」



 俺はようやく半身を起こした。彼女の背中も支えながら起き上がらせる。


 柔らかな髪にそっと指を通してみる。なんの抵抗もしない、本当に。思えば出逢ったときから彼女は何処か人形みたいだった。人間らしい生々しさとは無縁で、あまりにも綺麗でさ。


 これが恋だよって教えたらあっさり信じちゃったりするんだろうな。今だったらきっと何をしても許されてしまうんだろう。


 でもそんな彼女だからこそ。



「今すぐになんて言わないから、朝比奈さんの気持ちはちゃんと朝比奈さん自身で見つけてほしい」


「夜野さん、でも……私、自分から部屋に誘ったことなんてなくて……最近自分が変になったような気がして……」


「ゆっくりでいいんだよ。待ってるから」



 彼女が俺の胸に額を預けてくる。身体だけなら何処までも近付けてしまうのが容易に想像できて少し切ない。



「私、謝らなきゃいけないことがあります」


「俺も伝えておきたいことがあるんだ。二つほど」


「二つ、ですか?」


「そう。朝比奈さんは人の気持ちがわかるから、きっと一つはもう気付いてると思うよ」



 おそらく彼女の抱えている事情は俺が思ってる以上に複雑だ。適切な距離感だって未だにわからない。

 それでも今だけは許してほしくて、受け取ってほしくて、彼女をそっと抱き寄せると凄く今更なことを口にした。



「朝比奈さん、大好きだよ」

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