第28話 我、西海に幽鬼とならん

 義経は散発的な抵抗は黙殺し、平家軍の最後尾に集まる船団を目指した。数隻の唐船を含む大型船で成るその集団には、安徳帝をはじめ平家の貴族たちが乗っているのである。


「必ず、三種の神器を手に入れるのだ」

 義経が向かったのは、その中で最も大きい唐船だった。安徳帝の御座船となっているその船に、三種の神器があるのは間違いない。


 だが多くの下級武士たちは三種の神器などに関心はなく、一緒に乗り込んでいる女官が目当てだった。その場に彼女らを組み敷き、犯す事しか頭になかった。

 源氏の船団は、どこか嫋やかな姿をした唐船へと襲い掛かる。そして、唐船を守ろうとする平家方の大型船との間で最後の戦いが始まった。


「もう、これまでのようです……」

 建礼門院、平徳子は静かに立ち上がると船内を見回した。長い海上暮らしで少々散らかっている。徳子はそれらを片付けていく。

「女院さま、一体何をなさっているのです」

 悲鳴のような声を上げる女官に徳子は優しく微笑みかける。

「このような見苦しい有様を、東男あづまをとこの目に晒す訳にはいきませんでしょう」


 女官たちの手を借り、船内を掃除し終えた徳子は大きく息をついた。

「では、そろそろ」


 そこへ、ばたばたと足音高く入って来たのは二位尼、時子だった。幼い安徳帝の手を引いている。

「そなたら、何をしている。もう平家は終わりじゃ、早く支度をせぬか」

 血走った目で叫ぶと、部屋の奥に安置してある三種の神器の一つ『草薙の剣』を掴むとまた慌ただしく出て行く。


「お待ちください。主上はわたくしと一緒に……」

 呼び止められ振り返った時子は娘を睨みつけた。

「うるさい。この子は妾とともに入水する、そなたらは後から来るのじゃぞ」

 狂気を孕んだ視線に、徳子は居竦んだ。


「尼御前、朕をどこへ連れていくのだ」

 安徳帝は祖母の顔を見上げた。二位尼は引き攣った笑いを浮かべている。

「水の中にも新たな御所がございます。ご心配はいりませぬ」

 一瞬きょとんとした安徳帝は、すぐに泣き顔になった。

「嫌じゃ。母上と一緒に行く。母上、母上っ!」


 幼い叫び声に、徳子は女官たちの手を振り払いその後を追った。だが船上に出た徳子が最後に見た我が子の姿は、二位尼と共に船縁を越えたその瞬間だった。

 すぐに水音が高く響いた。


「ああっ」

 その場に崩れ落ちた徳子。

 しばらくして、ゆらりと立ち上がる。虚ろな表情で船室に戻ると、大きなすずりなど、重石になりそうな物を幾つも抱えた。


「さあ。わたくしたちも参りましょう」

 徳子の後に女官たちが従う。船上に出た彼女たちは、次々と水面に身を投げた。


 ☆


 再び義経の乗船を眼前に捉えた知盛だったが、数隻の小型船に阻まれ、それ以上接近する事が出来ずにいた。しかし仮に接舷できたとしても、既に手持ちの矢すら尽きていたのだが。


「建礼門院さま!」

 舳先の方で佑音の悲鳴があがった。源氏軍に包囲された唐船から、次々と平氏の貴族や女官たちが身を投げている。その中に建礼門院、徳子の姿もあった。


 知盛は血の色が無くなる程、強く船縁を握りしめていた。

「おれは誰ひとり救う事が出来なかったのか」

 徳子……。顔を伏せ、知盛は肩を震わせた。


 やがて、顔をあげた知盛は天を仰いだ。涙はすでに涸れていた。

「もはや行うべきは行い、見るべき程の事は見た。もう、この辺でよかろう」


 立ち尽くす知盛の肩口に、源氏方の放った矢が突き立った。

「……!」

 続いて鎧にも二本、三本と刺さっていく。

「下がって、知盛さま!」

 佑音は知盛を後ろから掴むと、船縁に並べた楯の陰に引きずり込んだ。


「まだここに、は残っていますから」

 そう言うと佑音は身に着けた甲冑を外した。幅広の帯に短刀を一本だけ差す。

「佑音。何をしている」

 軽装になった佑音は船縁に足をかけた。

「では、行ってきます」

 知盛の船から義経の船は間を小型船が埋め、あたかも船橋のようになっている。

「待て、佑音!」


 佑音は身を空中に躍らせると、横に並んだ源氏の小型船へ飛び降りた。そのまま船上を駆け抜け、また次の船に飛び移る。あまりの身軽さに、源氏武者たちは口を開けたままそれを見送った。

 二艘、三艘と跳び越えて行き、ついに義経の乗る大型船まで辿り着いた。そしてその勢いのまま、先に鉤爪のついた縄を投げ、それを伝って舷側を駆け上っていく。


 突然現れた佑音を見て呆然とする僧形の大男の隣で、小柄な男が面白そうに笑った。噂通りの出っ歯だ。これが源九郎義経である。

「貴様。先程、煙玉を馳走してくれた女ではないか。殺されに戻って来たか」


 佑音は黙って短刀を抜き、素早く義経の首元を狙う。だがそれは鉄板で埋め込んだ小手で阻まれる。続く動きで脇腹を襲うが、義経の反応はその上を行った。

「なかなかの腕前だが、鞍馬山の天狗ほどではないな」

 佑音の手首を掴んだ義経はニヤリと笑った。反対の拳で佑音の顔を殴りつける。そのまま義経は何度も佑音を殴打した。


「佑音!」

 意識を失いかけた彼女の耳に、名を呼ぶ声が聞こえた。

「とも、もり……さま」

 振り向くと彼方の船上で知盛が弓を構えていた。佑音は眉をひそめた。

(たしか、矢は一本も残っていなかった筈なのに)


「そうか、身体に刺さった矢を」

 知盛は肩に刺さった矢を抜き、射返そうというのだ。気付いた佑音は義経の腰にしがみ着いた。

「は、離せ、女っ!」


 ぶん、という弓弦が唸る音と共に、渾身の一矢が放たれた。それは一直線に義経の顔面に向かった。

 矢羽根の音が近づき、佑音は祈るように目を閉じた。

「ぐわっ!」

 甲高い金属音とともに義経の悲鳴があがる。義経は佑音にしがみつかれたまま、ばったりと仰向けに倒れた。


 だが知盛の放った矢は、ただ義経の兜の鍬形くわがたをへし折っただけに終わった。

「だから、弓の稽古もしなさいって言ったのに」

 佑音は知盛の方を見て、首を横に振る。彼方では知盛が苦い顔で弓を投げ捨てたのが見えた。


 佑音は義経の配下に船縁まで追い詰められた。見下ろすと、そこにはもう源氏の船はなかった。

「じゃあ、ごきげんよう」

 言い捨てると佑音は海に飛び込んだ。抜き手をきって知盛のもとへ泳ぎ去っていく。


 弓を構えた兵士を、僧形の武蔵坊弁慶は止めた。

「やめておけ。女とはいえ見事な武士ではないか」

 弁慶は気を失って倒れたままの義経を見下ろした。

「それに、この方にはまだ敵が必要だ」


 中国の故事に『狡兎こうと死して走狗そうくらる』という。兎を捕り尽くしてしまえば、用済みの猟犬は殺されてしまうというのである。

 平家を滅ぼすという、大きすぎる功績を挙げたあとの義経を兄の頼朝がどう扱うかは分からない。その為にもまだ平家の残党は必要だった。


 ☆


「平家方で生き残ったものも多数おります。知盛どの、あなたは彼らを見捨てるおつもりか」

 入水しようとする知盛の袖をとり、恒河沙ごうがしゃが厳しい口調で迫った。

「このままでは落人狩りのために皆、討たれてしまいましょう。彼らを守るのは、今やあなたを除いては居りませんぞ」

「しかし」

「しかし、じゃありません。わたしも源氏物語を最後まで読んでいないんです。このままでは続きが気になって、死んでも死に切れませんよ」

 理由はだいぶ異なるが、佑音も恒河沙に同調している。

「だがそれこそ何時いつになるか分からないだろう。これまで何度、途中で挫折した」

「大丈夫。幾度もの挫折を乗り越え、今度こそ最後まで読み通してみせます」


 そういう間にも船は壇ノ浦の戦場を離れていく。

「我らは各地に『鬼ケ城』と呼ぶ拠点を持っております。そこにお入り下さい」

 知盛は目を細めた。

「鬼か。それは、おれに相応ふさわしいな」

 中国で鬼とはを意味する。やっと知盛は笑みを浮かべた。苦く、哀しみに満ちた笑みだった。


 ☆


 その後の平家一門の運命を簡単に述べておく。

 総帥の宗盛は子息共々斬首。三種の神器の一つ、神鏡を持っていた時忠は流罪となった。入水を図った建礼門院は源氏の兵によって救助され、その後は京の外れに庵を結び、一門を弔いつつ、ひっそりと晩年を過ごしたという。

 そのほか行方知れずとなった者の多くは西国の山間に散らばり、隠れ住んだ。


 後に頼朝の追討を受ける事になった義経は、大宰府を目指し、摂津の国にある大物だいもつノ浦という湊を出航する。しかし嵐に行く手を阻まれ、再び攝津へ戻らざるを得なくなった。


 能楽『船弁慶』によれば、この嵐の中、義経の前に船団を率いて立ち塞がったのが知盛だと云う。義経はそのため、危険を冒してまで陸奥への逃避行を行うことになるのである。

 もちろん、この話の真偽は定かでない。しかし以後の鎌倉の目は確実に、西国から義経と陸奥に向けられることになる。これが知盛の策略であるなら、見事に成功したと云っていい。

 こうして知盛は西海に拠点を構え、妹の建礼門院たち残された平家の一族を密かに支え続けたのだろう。


 平家における一代の名将、平知盛。その晩年を知る者はいない。

 だが瀬戸内の海や島々は、燃えるような夕焼けの中、平家の幟を流したように赤く染まっている。

 

 瀬戸内は、あくまでも平家の海であった。

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