第19話 砂上の城郭

 一の谷に布陣していたのは通盛みちもり教経のりつねの兄弟である。

 断崖に面した山手から沸き起こった人馬のざわめきと、激しく立昇る黒煙に気付いた通盛は、すぐに教経のもとへ走った。

 そこでは佑音ゆうねがすでに郎党を集め、教経を船に送る用意をしていた。通盛を見つけると大きく手を振る。

「通盛さま。湊には船が待っています」


「兄上、すまん。おれがこんな事になってしまって」

 まだ起き上がることが出来ない教経は悔し涙をこぼす。同じように泣きながらその手をとった通盛は部屋の隅に目をやる。そこには教経の兜が置いてあった。


 通盛はしばらく考え込んでいたが、やがて決然と顔をあげた。

「教経、あの兜を借りるぞ」

 通盛は自分の兜を脱ぐと、代わりにそれを身に着けた。もともと顔立ちのみならず背格好も同じ二人だ。

「よく似ていらっしゃいますね」

 佑音が感心したのも当然である。


 だが、今はそんな事を言っている場合ではない。

「通盛さまも早く船へ!」

 叫ぶ佑音の声に、通盛は首を横に振った。

「え?」

 思わず佑音は足を止めた。


「わたしはここで出来るだけ時間を稼ぐ。佑音どのは教経を頼む」

 通盛は静かにそう言うと、繋いであった馬に跨った。陣屋を焼く炎を背景に、早くも源氏の騎馬武者の姿が見え始めていた。

「お一人で、そんなの無茶です!」

「駄目だ、兄上!」


 戸板に寝かされた教経は半身を起こした。兄を引き留めるように必死で手を伸ばす。通盛は一度振り返って、鋭く命じた。

「お前はまだ死んではならんのだ。行け、教経」


 通盛は背を向け、源氏の武士たちに向け馬を進めた。

「兄上っ」

「逃げますよ、教経さま!」

 佑音は戸板を支える郎党を促した。そして一度だけ通盛に目をやり、小さく目礼した。



「いたぞ、能登守だ!」

 馬上の通盛を指差し、源氏の兵が叫ぶ。それを聞きつけた十騎ほどが、功を競うように海岸へ向かい駆け下りてきた。


 教経を乗せた小船がゆっくりと岸を離れていく。

 それを横目で見送った通盛は太刀を抜き、源氏の武士たちに向き直った。


 ひとつ身震いすると、すうっと大きく息を吸い込んだ。

「我こそは能登守教経である。源氏の者ども、この首とって手柄にするがよい!」


 馬腹を蹴って通盛は騎馬武者の間へ駆け込んでいった。そして、まるで弟の教経がのり移ったかのように、左右の武士を斬り伏せていく。

 たった一人の通盛に、源氏の強者どもが蹴散らされていった。


 通盛は返り血で真っ赤に染まった顔に、ふと困惑の表情を浮かべた。

「これで浄土への道は閉ざされたか。小宰相とも別の途をゆく事になる」

 許しておくれよ、小さく呟く。


 ずん、と左脇が重くなった。

「……な、」

 時を置かず、灼熱の痛みが通盛を襲う。

 歯をくいしばり顔を向けた通盛は、鎧の合わせ目を太刀で突かれたのを知った。

「おのれ……」


 太刀を振り上げる通盛。しかしまた新たな刃が鎧を貫いた。背中から腹部へ貫通したそれは通盛自身の血で濡れている。

 ごふっと口腔に鮮血が溢れた。急速に意識が遠のいていく。


 能登守教経を討ち取ったぞ。それが通盛が聞いた最後の声だった。


 ☆


「逃げるな、押し返せ!」

 知盛は必死で督戦するが、源氏の兵は次々に柵を越えて来る。一方の平家方は、もはや収拾がつかぬ程に混乱していた。

 誰もみな太刀を放り出し、我先にと海岸の方角へ向け走っていく。


「なぜだ。これさえも油断と言わねばならないのか」

 一の谷に本陣を敷いたのも、背後を切り立った崖に守られたその地形に依るものだ。これは知盛自身が自ら何度も下調べを行い、少なくとも騎馬が通る途は無い事を確認している。


「そこを抜けて来ただと。……源氏とは」

 天魔の集団か。知盛はぎりっと歯を食いしばった。

 

 重衡ともはぐれ、知盛は単騎、海を目指した。



「待て、そこにおられるは名のある大将とお見受けする。それが敵に背を見せるなど、武士にあるまじき行いではないか!」

 知盛の背後から声が掛けられた。

 ちっ、と知盛は舌打ちした。振り返ると、数人の郎党を率いた関東武士の姿があった。まだ若いようだが、その騎乗姿は歴戦の佇まいを感じさせた。


 貴族化したと云われる平家の公達であるが、それだけに、逆に武士としての意識を強く持つ者も多かった。そして彼らは、卑怯と呼ばれる事を病的に嫌った。

 熊谷直実に討たれた敦盛はその典型である。十代半ばで、この戦いが初陣だった彼は、この時の知盛の様に戦いを挑まれ、救助の船を目前にして散っていた。


 剣技が得意とは言えない知盛だったが、彼もまた侮辱を受けてまで生き延びることを、肯んずることが出来ない男だった。

「貴様がおれの死神か……いいだろう」

 知盛は太刀を抜き、強く馬腹を蹴った。


 駆け違いざま二人の太刀が交錯する。しかし知盛の刃は相手に触れる事もできなかった。その左腕から鮮血が噴き上がる。

「ぐううっ」

 知盛は呻いた。やはり技量が違いすぎる。だが知盛は馬首を返し、再びその男に向かって行った。


 二合、三合と打ち合う。今度はほぼ互角と言ってよかった。男は、ほう、と目を瞠った。この貴族がただ者ではない事に気付いたようだ。

「名前を聞かせていただいても良ろしいか」


 知盛は苦笑する。それで男も気付いた。

「失礼。わたしは畠山次郎重忠と申すもの。ぜひ、貴方のお名前を」

 一旦距離をとった武士は礼儀正しく名乗る。


「わたしは新中納言、平知盛だ」

 知盛が名乗ると、重忠は驚いた表情で、手にした太刀を鞘に納めた。郎党たちも慌てて剣を収め、その場に膝まづいた。

 それを見た知盛も眉をひそめ、太刀を下す。

「何のつもりだ、重忠どの」


「あなたは我が父、畠山 重能しげよしをご存知でありましょうか」

 口調を改め重忠は問いかけた。知盛は頷く。

「勿論だ。京で大番役を務めておいでの時に、よくお話を伺ったものだ」

 すると重忠は首を横に振った。


「父は、平家の方々が京を去られる際、捕らえられ首を打たれるところを、ある方に救っていただいたと最期まで申しておりました」

 重忠は涙を浮かべ、ひとつ頷いた。

「あなたにです、知盛さま」


 ああ、と知盛は小さくため息をついた。宗盛が畠山重能のほか、小山田有重、宇都宮朝綱らを斬ろうとした時、強く反対したのは知盛だった。

「しかし、それは当然ではないか」

 いままで忠誠を尽くして来た彼らを斬るなど、出来る筈がない。


いや、と重忠はかぶりを振った。

「お行きください、知盛さま。そして叶うなら、また同じそらの下に再開を果たせる事を願っております」


 畠山重忠は鞍に上ると、知盛に背を向けた。

「行くぞ!」

 郎党を率い駆け出す。


 それを見送った知盛は、ざっと海に愛馬を乗り入れる。

 彼方には小さく、平家方の船が見えていた。



 こうして、知盛が築き上げた一の谷の大要塞は、まるで波に洗われた砂の城のようにはかなく崩壊した。

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