二の九

 三之助は、おや、と気づいた。

 そこは南むきの縁側だったが、もうずいぶん日が西に傾いているのがみてとれた。薄曇りだった空は、もうすっかり晴れ、雲の名残をそこここにとどめているだけで、太陽がくっきりとした輪郭でみえている。

「これはいかん、おい、茂平、ずいぶん長居をしてしまったようだ」

 と三之助が云うのを、茂平も空をちらと見上げ、

「あ、こりゃいけませんな。はようせんとご城下につくまでに日が暮れてしまいそうですな」

 と云って、慌てたように、

「お加代、名残りおしいが、おいとまするわ」

 云って、土間へと向かうのを、

「ああ、お待ちくだせえ」と加代の父親がとめた。「すぐに用意しますだで、野菜を持ってったってくだせえまし、すぐに用意しますで」

 と云って、足早に庭のすみの納屋にむかう。草鞋を履いた茂平も、すぐにその後を追った。

 三之助も草鞋を手早く履いて、外へでて、門へと向かう。

 加代は、三之助に寄りそうように、ついてきた。

 門のまえで、三之助は立ちどまった。

 三之助には、まだわからない。あの時のことを、加代がどう思っているのか。もうすっかり忘れてしまったようにもみえるし、嫌な思い出を無理矢理心の奥底に押し込んで、ただ社交的にふるまっているだけのようにもみえる。

 ――いましかない。

 三之助は思った。幸いふたりきりになれた。あの時のことを、謝罪せねばならない。

 三之助は、意を決した。

 しぼりだすように、声をだした。

「俺は……」

 と云いだした三之助の言葉をさえぎるように、加代が、

「今日はお会いできてうれしゅうございました。おぼっちゃんのお顔も久しぶりに見られましたし」

 子供を抱いてあやしながら、少し寂し気な笑みを浮かべてそう言った。

 三之助は、じっとその顔を見つめた。加代は子供に視線をむけていたけれども、その横顔の、目じりにあるこまかい皺が、ふたりの間に流れた年月を語っているようだった。

「俺は、あの時……」

 三之助は、また、しぼりだすように、云った。手も、声も、こまかく震えている。

 加代は、三之助を見つめた。その目で、喋りだそうとする彼を制するように。しかしその目は、どこか遠くをみるようでもあった。その瞳にうつっているのは、今の三之助ではなく、過去の、あの時の三之助なのかもしれなかった。

 そして、気持ちをおちつけるように、ひとつ深く息をすって、加代は唇をうごかした。

「ゆるせるかゆるせないかと問われれば、それはゆるせないのでしょう。それより先に、私はあの時、おぼっちゃんのことが嫌いになりました。私に対する気持ちには、ずっと以前から気づいていましたが、おぼっちゃんがあのような衝動をおさえられもしないかただとは思っていませんでした。残念でした。おぼっちゃんがあの時のことを悔いているとおっしゃるなら、この先も悔いつづけてください。ですが、悔いを抱えつづけながらも、自分の人生はちゃんと歩んでください。でなければ、私がおぼっちゃんの人生を台無しにしたみたいで、後味が悪いです」

 十年間なんども心のなかで考えつづけていた言葉をつむいだように、よどみなく、ひと息で云った。

 三之助は、自責と苦悶のなかで、言葉を失っていた。

 彼女の語る言葉のひとつひとつが、心に突き刺さり、ずきずきとうずくような痛みをあたえたのだった。

 ――加代もあの時のことを、ずっと心に残し続けていたのだ。心の傷として……。

 加代は門のほうへ顔をむけ、胸にため込んでいたものを全部はきだしたというように、ふぅ、と気持ちよさげな吐息をついた。

 そして、三之助をみて、微笑んだ。その笑顔は、昔の加代の笑顔のままだった。

 むかしいだ、あの甘い身体のにおいが三之助の鼻をくすぐった。そのにおいは、過去の苦い記憶を呼び起こそうとしているように思えた。

 その気持ちを振り払うように、

「すまな……」

 と三之助が言いかけたとき、茂平の声が聞こえた。こちらに向かってあるいて来ながら、しきりに大声でなにか言っている。

 加代がそちらにふりむき、三之助の言葉も、とぎれてしまった。

 ひょっとすると、加代は謝罪の言葉など聞きたくなかったのかもしれない。あやまられれば、ゆるしてしまいたくなるのが人情というものかもしれず、彼女は三之助のことを一生ゆるしたくないのかもしれない……。


 三之助と茂平のふたりは、門を出てしばらくゆるい坂道をのぼり、そのいちばんうえまでくると、ふりかえった。

 茂平は背中に大きな籠を背負って、なかには筍や人参などがどっさりと詰め込まれていて、その籠をおおきくゆすりながら、頭のうえで手をふっている。

 門のまえに立った加代は、笑いながら手をふり、横にいる父親はふかぶかと頭をさげている。

 三之助は、加代をみつめていた。

 西に傾いたこがね色の光が、彼女のうえに降りそそいでいた。

 ――さようなら。

 心でつぶやいた。

 ――さようなら、かつてこいしたひと。

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