二の五

 部屋はもう、うす暗く、一瞬目をとじただけだと思っていたのに、少なくとも四半刻はうたたねしていたようだ。

 何人かが会話する声は、藤川が泊っている、奥の部屋のほうから、大きくなったり小さくなったりしながら近づいてきた。

 今日は、監査の最終日ということで、みんなでぱっと飲みにでも行くのだな、と三之助は推察した。

 やがて、その一団は三之助の部屋の前で足をとめたようだ。

 ――おれを誘うつもりだろうか。

 面倒だ、居留守でも使おうか、このまま寝たふりでもしていようか、とはんぶん寝ぼけた頭で勘案している、と――、

「小野さんは誘わなくていいんですか」

 と代官所の役人のだれかの声。それにつづいて、のどの奥で笑うような声がし、

「ああ、あいつは、……だから」

 という嘲弄を隠そうともしないその声は、まぎれもない藤川のもので、はっきりと何を云ったかわからなかったが、直後にいっせいに数人の笑声が起こった。くすくすと忍ぶように笑うもの、高声で笑うもの、酷薄に笑うもの……。

 そしてすぐに、声は部屋の前から遠ざかっていった。

 ――低俗なやつらめ。

 三之助は心のなかでののしった。

 腹のなかから、なにか不愉快な、黒く重たいもやのような塊がわいてでて全身をつつみこみ、気分を重くしていくのをどうにもとめられなかった。

 だが、同時に、腹がぐうと鳴る。

 身体を起こし、さて、夕飯はどうしようか、と思案する。していると、まださっきの笑い声が聞こえているような気がした。それは空耳で、三之助の頭のなかにある記憶が笑い声を再現しているだけなのだが、不快感をなおいっそう深めるのには充分だった。

「低俗なやつらめ」

 今度は声にだしてののしった。

 へんな具合に眠ってしまったことでもあり、今夜は眠れなさそうだ、と三之助は憂鬱になるのだった。


 その夜は、案じたとおりで、やはり寝つけなかった。

 うとうととまどろみかけると、耳の奥であの笑い声が聞こえ、瞬時に目がさえてしまう。しばらくして、やっとまどろむとまた笑声が聞こえ……。そんなことを何刻も床のなかでくりかえし続けていた。そして、その声が聞こえるたびに、三之助は藤川の頬を、一発殴ってやった。なんども頭のなかで殴った、さんざん殴った。それでも、耳のなかの笑い声が消えることはなかった。まるで耳の奥に頑固にこびりついた垢の塊のように。

 明け方、うつらうつらとできたと思ったら、玄関の戸をがたがたと開ける音で目が覚めた。

 なにごとかと頭を起こしてみると、どうやら知った人間のようである。

 土間と部屋との間の障子がちょっとあいて、茂平の顔がのぞく。

 三之助と目があった。

「おや、旦那様、お目覚めでしたか」

「ああ、たった今起きたところだよ」

 三之助の嫌味には、まったく頓着せず、茂平はせかすように、

「では、そろそろご支度ください。もう日が昇りきっておりますよ」

 云われて、窓からの光をはかってみると、なるほど、明け方と思っていたのは思いすごしで、陽は完全に山の上で輝いているようだった。

 しかし、三之助に明け方と思い違いをさせるほどその光がよわよわしくくすんでいるのは、薄曇りのせいか。

 三之助は、寝たままで面倒くさそうに伸びをすると、よろよろと起きあがった。

 外にでると、案の定、空はうすく雲がおおっていたが、雨が降るような気配は感じないので、先を急ぐ必要はなさそうだ。

 厠に行って、井戸で顔を洗い、口をすすいで、部屋にもどると、茂平はいそいそと帰り支度をはじめていた。

「そうあせらなくても、まだ、挨拶まわりもせねばならんし、すぐには帰れんぞ」

「いえいえ、こういうことは早め早めにすませませんと」

 というが、きっと、三之助が往きの道中で加代の家に寄って行くと云ったのを忘れていないのだ、と思った。よっぽど加代に会えるのが楽しみらしい。そして三之助自身は、急に気が重くなってくるのを感じていたのだった。余計なことを云ったと、いささか後悔してもいる。やはり、彼女にあうのは、二の足を踏む気持ちだった。

 代官のところへ辞去の挨拶にいくと、三之助に会っても鷹揚にうなずくだけで、初日の愛想はどこへやら。他にも役人たちにも挨拶をしてまわったが、皆が皆、なんだまだいたのか、というくらいの扱いで、そういえば、藤川の顔は見えないし、あちらはなにもしないでもう帰ったのだろうか、と思った。いちいち挨拶まわりなどしなくても、よかったのかもしれない。帰る時にはみんなに挨拶をしろ、人としてあたりまえのことだ、と訳知り顔をして念をおすように云ったのは藤川だったのだが……。

 ――まあ、そんなものか。

 と三之助はどこか達観したような気持ちであった。

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