一の七

 気配をさっした加代は、こちらに振り向きつつ、ふっと腰をあげて、ちょっと驚いたような、不思議な物をみるような目をして、三之助の目をみつめる。

 三之助の手が加代の肩に伸びた、そのまま抱きしめようと肩をつかむ。加代の肩の丸みと体温のあたたかさが手のひらにつたわり、いいようのない心地よさを感じた。

「嫌ぁッ!」

 加代は、今まで三之助が聞いたこともないような金切り声で悲鳴をあげ、三之助を力をこめて突き飛ばす。よろける三之助。

 加代が受け入れてくれると、心のどこかで考えていた彼は、予想外の抵抗に少しひるんだ。だがそれも、瞬きの間。

 逃げようと向こうをむいた加代を後ろから抱きすくめようとしたが、振り返りざまに伸びてきた手が、三之助の頬を打った。勢いの乗った平手打ちは強烈に、彼をひざまづかせたほどだったが、それでも三之助は追いすがった。膝立ちの体勢のままで、着物のすそを両手でつかむ。つかまれた加代は逃げようと身体を振るものだから、割れた合わせめから、腿があらわになって、恥部も一瞬垣間見えて。だが、加代は抵抗をつづけた。ちょっとかがんで、手を伸ばし、三之助の裾をつかんだ手を振り払い、その勢いのまま、彼を女とも思えないほどの力で突き飛ばした。三之助はあお向けにひっくり返る。加代は脇目もふらず廊下を走り去る。

 三之助はひっくり返ったそのままの格好で、遠ざかる足音を聞いていた。

 彼はほうけた。

 そしてしばらくすると、気持ちがどんどんさめてきて、自分がいま行った行為が、そしてその結末が、ひどくみじめなものだとわかりはじめた。

 三之助は、文字通り頭を抱え、身体をひねって、ダンゴムシのように丸まった。

 悔いた。

 羞恥心が全身に溢れた。

 悔恨が胸を貫いた。

 三之助はうめいた。

 下駄で踏まれたみみずのように、のたうちまわった。

 涙があふれ出てとまらない。


 数日後、加代は姿を消した。お互いがお互いを避け合い、顔を一度もあわせないまま……。中風で倒れた母親の看病に帰った、とその理由を父から聞かされたが、そう都合よく母親が倒れるはずもなかろう、と三之助は思った。おそらく加代は、嘘でとりつくろって、三之助から逃げたのだ。ひょっとすると、話を聞いた三之助の両親が、加代を遠ざけたのかもしれなかった。真偽のほどは、まったくの藪のなかであったが、加代が三之助のもとからいなくなったという事実は、まごうかたない真実だった。


 それから十年たった今にいたるまで、三之助は慚愧の念から抜け出せないでいた。

 いくどとなく、何かの拍子に、その時のことが思い出され、そのたびに、彼の心は蝕まれるようだった。こんなに苦しむくらいなら、いっそあの時すぐに、腹を切るべきだった、とさえ思う。胸のなかに恥を抱えたまま、苦悶とともに一生いきていかなくてはならないのか。

 だが、だからと云って、加代への気持ちが途絶えたとか、あきらめられたとかいうこともなく、加代を愛撫するような妄想も、抑えがたい衝動のように、時々心に湧き上がってくるのだった。不思議とその時は、悔恨の心は、情欲の陰にひっそりとうずくまってしまう。

 そういう、理性と本能――、自分を消してしまいたいほどの羞恥と、加代に対する未練とが、三之助の心のなかで、十年間ずっとせめぎあい続けているのだった。


 そして、その間、他の女に恋心をいだくことも、他の女の体に興味をもつことすらも、まったくなかったのだった。時々くる縁談も、岡場所への誘いも、すべて断ってきた。そんなことが数回続けば、近所の人々や同僚たちの流言の種にされるのは当然のことなのかもしれない、と三之助は思う。

 ――あいつは女に興味がない。

 ――あいつは女を知らない。

 ――あいつはなんだか薄気味悪い。

 勘定方の同僚たちが三之助を見る目は、いつも侮蔑の色がにじんでいるのだった。

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