最終日

 思わぬ体の軋みに、私は眉根を寄せた。首から背中にかけて、異様に痛む。額には日光が直接当たっているのか、じりじりと焼けるように暑さを感じる。


 体を起こすとそこには、いつも見つめている傷だらけの手と傷だらけの作業机があった。窓からは陽がまっすぐに差し込んできていて、太陽が空高くまで昇ってしまっている。昨夜、作業机に突っ伏したまま寝てしまったのだと気づいた。枕にしていた腕には、銅のワイヤーの切りくずがくっついている。立ち上がると、肩から床に何かがすべり落ちた。二階の先生の部屋に置いてあるはずのタオルケットだった。朽ちた樹木のような香りがした。


 机の上の置時計は十時前を指していた。あわてて工房の壁を見やると、昨夜先生がかけたはずのエプロンがない。ざあ、と一気に血の気が引く音がした。


 先生は。もしかして、もう。嫌な予感がして、慌てて駆けだして椅子に足を引っかけて倒してしまった。倒れた椅子にも構わず、工房の中を探し回った。給湯室にも、道具置き場にも姿はない。そのまま視線を窓の外へやると、水しぶきが風で舞っていた。花壇の花々が、プールではしゃぐ幼子のように瑞々しく揺れている。私は急いで工房の玄関にまわり、扉を開ける。見慣れた大きな背中の白色に、陽光が映えて眩しい。


「おはよう、水瀬さん」

「……おはようございます」


 先生がいつもと同じ姿で花々に水をやっているのを見て、緊張の糸が切れたように大きく息を吐き出した。私があからさまにほっとしているからか、先生は困ったように笑いながら蛇口をひねって水を止めた。勢いを失った放物線が、どんどん小さくなって最後には水滴がしたたるだけになった。


「とりあえず家に帰って風呂に入ってきたらどう?」

「あ、でも……」


 全身にじっとりと汗をかいていて一刻も早くシャワーを浴びたかった。しかし、家に帰っている間に先生が行ってしまったらと、一瞬不安がよぎる。私がはっきりと答えない理由を、先生は察してくれているようだった。


「水瀬さんさえよければ、工房のシャワーを使ってもいいよ。あがったら、工房で朝ごはんを食べて仕事をはじめよう。あと少し、やることがあるし」


 「僕は外の倉庫の在庫を数えてから朝食を作ってるから、終わったら声をかけて」と、先生はホースを片付けて私の返事を待っていた。確かに工房のシャワーを使えば帰る手間が省けて私も楽だ。作業で服を汚してしまったときのために、替えの服は常備している。普段は先生の生活スペースだからと遠慮していたが、今回は甘えて急ぎバスルームへ向かった。


 洗面台の鏡に映った自分を見ると、そこには頬に腕の跡がくっきりと残っていた。髪も二、三束ポニーテールから落ちているし、目の下のクマもひどい。火が出そうなくらい顔が熱くなり、慌ててシャワーの蛇口をひねった。


 シャワーから上がると、給湯室からお湯を沸かす音が聞こえた。香ばしい香りと甘い香りも漂ってくる。先生に声をかけると、「もうすぐだから作業場で待ってて」と返事があった。私は髪を乾かして待つことにした。


 先生が用意してくれたトーストの朝食を二人で食べる。軽く焦げ目のついたトーストにたっぷりのせられている苺ジャムは宝石のように艶めき、食べるのがもったいないくらいだ。ひとくち食べると、じゅわっとした甘酸っぱさが舌の上で踊り、たちまち幸せな気持ちで満たされる。熱く淹れたダージリンのストレートティーの渋みが甘さと溶け合い、鼻からすっきりとした香気が抜けていく。思えば先生と朝食を一緒に食べたのは初めてだ。私は来年も、その翌年も今日のことを思い出すだろう。こんな単純な出来事でさえ、一生忘れられない大切な思い出になることを、私はすでに知っている。


 それからはお互い言葉を交わさず、それぞれの作業にとりかかる。たった数メートルの距離で、背を向け合いながら、最後の日を静かに過ごす。


 一人目の先生のときは、先生が「ここから去る」と言った意味が理解できていなかった。七日目の夜にいつものように仕事を終えて、先生に別れの挨拶をし、いつものように家に帰ったことを思い出す。八日目の朝、先生が工房のどこにもおらず、二階の居住スペースにも人が住んでいた形跡がなくて、夢を見ていたのではないかしら、と呆然と立ち尽くした。二人目の先生のときは、朝からまた先生が消えてしまうことをずっと不安がっているばかりで、「何故いなくなってしまうんですか」と問い詰めて先生を困らせたっけ。三人目の先生のときは、「また消えてしまう前にいろいろ教わらないと」と、七日間、いつも以上に必死になって仕事に打ち込んだ。八日目に先生がいなくなって、工房で一人泣いた。四人目の先生のときは、先生を不安にさせまいと、声が震えないように別れの挨拶をした。先生の申し訳なさそうな顔を覚えている。


 五回目の別れが、もうすぐそこでひっそりと息を潜めている。


 背中で感じる気配と物音で、先生が作業机を片付けているのがわかった。使った道具をあるべき場所にしまい、残った材料を棚にひとつずつ戻していく。机の上の木くずや金属くずを羽箒はねぼうきで掃き、布巾で塗料なども綺麗に拭いている。私は手を止めて、その七日目の寂しい音に耳を澄ませていた。


「水瀬さん」


 私が振り返ると、先生が右手を差し出していた。その手には、キーホルダーの金具がついた木製の甲虫かぶとむしがゆらゆらと揺れている。私は努めて表情を変えないように、眉間に力を入れた。気を緩めれば、何か先生にヘンなことを言ってしまいそうだった。


「ミサキちゃんがまた来たら、これを渡しておいてくれないか? あのとき、何もできなかったからさ」


 今年、先生が工房に戻ってきて三日目、ふらりと工房にやってきたのが小学生のミサキちゃんだった。彼女は甲虫のぬいぐるみが欲しくて訪ねてきたのだが、そのとき渡せるアクセサリーがなく、代わりに先生がミサキちゃんの一番好きなサタンオオカブトの絵を描いてプレゼントしたのだった。キーホルダーになっているのは、そのサタンオオカブトだ。木工なのに、二本の角の間に生えている毛まで細かに再現されている。先生は連日の作業の合間に、サタンオオカブトの彫刻を作り上げていたのだ。「先生が直接渡せばいいじゃないですか」と言いそうになり、ぐっとこらえた。先生にそう提案しても詮のないことだった。だって彼は今日、ここから消え去ってしまうのだから。私はそのキーホルダーを受け取り、作業机の隣の棚から取り出した梱包用の小箱に大事にしまった。


「頼んだよ」


 先生はまた自分の机に戻り、片付けの作業を続ける。私は小箱を手にしたまま、先生の背中を見つめることしかできなかった。


 窓枠に切り取られた庭に、橙色の陽が落ちている。空は綺麗な紫色とのグラデーションで、樹脂の中に閉じ込めると綺麗だろうな、と思った。最近少し、陽が落ちる時間が早くなっていた。作業机に向かっていた先生が深呼吸をし、持っていた刷毛はけを作業机の上にそっと置いた。


「終わった。これで今度の納品分、全部完成だ」

「お疲れ様です。お茶、淹れますね」


 先生は椅子の背もたれに体を預け、両腕をあげて背中を伸ばした。先生の作業机のトレイには、美しいせみ翅脈しみゃくのピアスが綺麗に並んでいた。形や編み目は違うのに、それぞれの個性が光り輝いている。私は手を止め、給湯室に急いだ。


 最終日のお茶は、ウバのストレートティーを淹れた。軽い飲み口で、清涼感のある香りが鼻をくすぐる。先生も一口飲み、ゆっくり呼吸して香りを楽しんでいるようだ。


「今年も終わるな」

「そうですね」


 コツコツと、時計の針が刻む音だけが二人の間に流れる。あと何分で、あと何秒で、今年の夏が終わるのだろう。私はお茶をもうひとくち飲んでから、自分のエプロンの左ポケットを探る。意を決して沈黙を破った。


「先生、これ」


 私はポケットから小箱を取り出した。それを開け、先生に中身を見せる。そこには、先生のものとは似ても似つかない、不格好な蝉の翅脈のピアスが収められている。昨日、寝入ってしまう前に唯一、先生が作ったものを真似て金具までつけたものだった。


「私が初めて作りました。先生の作るものにはまだまだ及びませんが」


 先生は何も言わず箱から片方のピアスを手に取る。左の手のひらにのせ、右の人差し指で表面の翅脈をゆっくりとなぞっている。おそらく先生のものよりも表面に凹凸があって、手触りも良くないはずだ。どうしても先生のように、薄くなめらかに編むことができなかった。先生の、ニスを塗られたように輝く複眼に、私の作ったピアスが映り込んでいる。


「教えてから一日でこれだけできれば十分だ。まだ商品としては出せないけど、このまま練習すれば来年の夏には出せると思う」


 私はエプロンの裾をぎゅっと握りしめる。窓の外では、蝉の声がこだましている。陽は傾き始め、作業場の床が朱く染まっていた。言うつもりはなかったのに、言葉が勝手にこぼれていく。


「先生、もっといてください。行かないでください。私、まだ上手く作れません。だから、この工房でもっと教えてください。先生に教えてほしいんです。先生が、いいんです」


 泣かないと決めていたのに、はらはらと頬から涙が落ちていく。止めどなく流れる涙を、私は半袖の肩口で乱暴に拭った。もう五回目の別れだというのに、私は先生のことを困らせてばかりだ。私の手から小箱が落ちそうになり、先生は私の手ごと小箱を掴んだ。先生の手は乾いているのに、いつも熱く優しい。彼は一度うつむいてから、黒々とした瞳で私を見つめ直した。


「残念だけど、来年ここを訪れる僕が『僕』なのか、自分にもわからない。だから、こうしよう」


 私の手から小箱を受け取った先生は、そこからピアスを取りだし、そっと私の手に握らせた。私の手を、先生は優しく包み込む。


「水瀬さんがこのピアスの片方持っておくといい。来年、ここを訪れた『僕』が片方だけ蝉の翅脈のピアスを持っていたら、それは紛れもなく、今きみの目の前にいる僕だ。水瀬さんなら、自分が作ったものかどうかわかるだろう?」


 編み目が均一でない、この世でいちばん不格好な蝉の翅脈のピアス。昨日から散々見てきた、先生のものと似ても似つかない出来のピアス。私はふ、と笑ってしまう。見間違えるわけがない。私が先生に渡すためにつくった唯一のピアスなのだから。私は先生を見てひとつうなずく。先生も、「よし」と言ってうなずいた。


「これだけは水瀬さんに言えるよ。目の前にいる僕は、水瀬さんのことを忘れない。絶対に。真面目で、でもときどき無茶をして、一生懸命で、泣き虫な水瀬さんのことを、ずっと覚えてるよ」


 先生は、きっとわかっているのだ。そんな奇跡が起こるかどうかなんて、誰にもわからないことを。今までも、誰一人として記憶が残っていた先生はいない。私の涙はとめどなく流れる。なぜなのだろう。先生のその言葉に、私は美しいアクセサリーを作ることでしか応えることができない。でも、私にとってそれは、弟子として先生のためにできる数少ないことなのだ。これからもずっとそうしてアクセサリーを作っていくことが、私にできることなのだ。


 先生はピアスを持っていない左手で、私の右肩をぽんと叩いた。肩から伝わる手の熱に、先生はこの夏も私とともに七日間過ごしてくれたのだ、と実感した。その熱を抱きしめて、私は独りで、秋も冬も春もここでアクセサリーを作り続けよう。涙はいつの間にか、止まっていた。


 途端、先生がよろめいた。私の肩に置いていた手の指先から、蝉の翅のようにうっすらと透けていく。そのときが来たのだと、私は悟る。先生はだんだん透けていく自分の手を見て、静かに握りしめていた。節ばった先生の頬が少しだけ緩んだように見えたのは、私の見間違いだろうか。


「今年もありがとうございました、先生」

「こちらこそ、水瀬さん」


 どちらからともなく手を差し出し、握手した。蝉頭の先生は表情も変わらないし、もちろん泣いてもない。でも手から伝わる温かさだけで、私は十分だった。


 先生の蝉の頭がすうっと消えていく。握りしめる手からも体温がなくなっていき、最後には自分の拳だけを握りしめていた。先生はこちらを最後まで見つめている。先生が私の蝉の翅脈のピアスを持っている手も透けてしまった。


「先生、私……」


 私に向かって何か言おうと先生の口吻こうふんが動いた気がしたが、声は聞こえなかった。窓から緩やかな風が吹きこんできた。


「先生!」


 その瞬間、先生は庭に水をまいたときの水煙のようにふわりと風にのって、消えてしまった。


「あ……」


 声にならない声が私の口から漏れ出た。目の前には、がらんとした工房の景色が広がっていた。先生は行ってしまった。私の手のひらには、先生の体温だけが後を引くように残った。いつの間にか窓の外はすっかり夜のとばりを下ろしていて、月が煌々こうこうと輝いている。力が抜けるように、そこにあった丸椅子に座り込んだ。静けさが、私のすぐ隣に腰掛けた。


 先生とともに過ごした、たった七日間の夏が終わった。

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