第9話

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 不気味な木々に囲まれた沼地を越えると、目の前に視界一面の平原が開いた。脛程度の高さの雑草が茂り、空にはすべてを吸い込むブラックホールとその周りを不気味にまわる黄金色の惑星があった。私はその先にある目的の地に向かって平原をひた進む。求めるものを手に入れるために。しかし私にはその私が何を求めているのかは分からなかった。もしそれが夢の果てにあるのだとしたら、私の一生を終える時にしか分からないかもしれないとはなんとなく思っていた。

 いつからそういう夢を見るようになったのかは定かではないが、幼い頃からであったと思う。そして基本的に私は、夢に現れる旅路の私については特に何を思うこともなく悠長な姿勢でいたのだ。なぜなら今までその夢は時々変な夢として現れてくるだけで実生活には何も影響はなく、ただの変わった夢でしかなかったからだ。しかし大学二年生の時に付き合っていた彼と別れた辺りから、その類の夢によってうなされることが目立ってきた。それもうなされ始めた当初はたまに苛まされる程度だったものが、その頻度や度合いは順調に悪化していき、三年生になって皐月の病院に行っていた時などは二日に一回は、私は夢の中で殺されそうになって飛び起きる日々を送るようになっていた。夢の中では首を絞められることも、刃物を突き付けられることもあった。そして、意識が戻ってくると、自分の右手で左手をつかんでいたり、自分の手を口に突っ込んで窒息しそうになってることに気づくのだった。

 それはなかなか恐ろしい体験だった。しかし寝る前にいくら念じたところで見る時は見てしまうので、対策を講じることは困難だった。医者に診てもらうことも考えたが、気が引けているうちに皐月の一件が終わり、それと時を同じくして苛烈を極めていた夢もどういうわけか釣瓶落としに落ち着きを取り戻し、平穏な日々が意図せず戻ってきたために結局行かずじまいになった。その夢を見なくなったのではなく、それによって苦しむことがなくなるという変化だ。ただ電車の窓越しに前から後ろに流れ過ぎる風景を眺めているようで、それが生々しい雰囲気を醸すことはなかった。

 しかし、そこから一年ほどが経った時、久しぶり過ぎて仕方を忘れてしまったかのような乱暴さと残虐さで悪夢は再来した。大学も四年目になり、私はどろりとした生活を送っていた。卒論のことやあまり芳しくない就職活動、それに親との意味のない諍いが重なって、私はすっかり下宿先のアパートから出る気すら失っていた。元より打たれ弱い性格なのだろう、絵に描いたような不安や緊張に自分でも笑ってしまうほどあっさりと潰されてしまっていた。一日の大部分を布団で過ごす日が多くなり、そんな自分を叱責するように酒や薬に手を伸ばした。そんな調子だったから初めは薬の飲み過ぎによる取りとめのない幻覚の類かと思ったが、しばらくしてまた夢が悪性へ転化したことを知った。それからというもの、私はまだ暗いうちに脇や背にじっとりとした嫌な汗をかいて目覚めさせられた。その感覚には幾分懐かしさも覚えたが、別に不快さに慣れてはいなかった。別れた彼が地面から無数に生えて私を嗤い、言われなければ思い出せないような高校生のクラスメイトたちがのっぺらぼうになって手にした包丁で私を襲った時には、天井に向かって叫んだ自分の声で起きた。寝不足は肥大化し、元々酷かった私の生活は一層不安定になった。日中の間身体はずっと怠く、何に手をつける気も起きなくなって、就職に関する面接や説明会の予定を書きこんだ手帳には自らの手で赤線を引いた。


 千晶が私の下宿先に来た。親からの電話には手をつけることもなくなった私だったが、千晶とはこまめに引き続き連絡を取り合っていた。もしかしたら私は自分と外とを結ぶ唯一の線として彼女を求めていたのかもしれない。私は一歩家の外に出れば関係の糸はどこにでも張り巡らされてるものだと思っていたが、気がついてみれば私の手には細い一本の糸線しか残っていなかった。

彼女は私の生活に加えて、夢のこともわりと真剣に心配してくれているようだった。

「まだ毎日見てるの?」

 押し入れにしまっていた丸クッションに座り、コンビニで買った缶チューハイを半分くらい飲んだ頃、彼女は私の夢のことにやっと触れた。その周りには頑張った痕跡が感じられないほどに、雑誌が無造作に積まれ、プラスチックの包装が落ち、空のペットボトルがそこここに転がっていて、間違っても女子大生の部屋には見えない。私がそれまでの話題と同じように軽い調子で頷くと、彼女は「今夜泊まっていってもいい?」と尋ねた。千晶はどうやら私が寝ている間に、自分の手で首を絞めないかどうか見ていてくれるつもりらしかった。「それにうなされていたら起こしてあげる」と言った。そうして彼女は私が布団を敷く横で、本棚にあった漫画を電気スタンドの灯りで読み始めた。気になるかとも思ったが、うつ伏せになってみればそんな小さな光は頭に入ってこなかった。アルコールが効いていたのか私はすぐにまどろんだ。

 緊張のためもあってか、眠りについてから二時間ほどで一旦目が覚めてしまった。まだ半睡状態のままに、私は枕元で非常に眠たげにこっくりこっくりと頭を揺らす千晶を見つけ、どうしてかは分からないが私は彼女を布団の中へと誘った。おそらく彼女はあまり徹夜をするタイプだとは思えず、無理をさせるのは悪いと思ったのだろう。私が彼女に「おいで」と言うと、私が寝てからも酒をいくらか飲んだらしく、彼女は呂律の回らない舌で小さく詫びの言葉を告げると、その細く華奢な身体を私の横に潜り込ませた。私は自然と彼女の背中に手を回していた。服の上からでも彼女の身体に触れると、その温もりは私に伝わった。彼女の首筋に頬を当てると、規則正しく脈の打つ音が聞こえた。

 それからというもの私は不安だと言って彼女を家に誘った。冬の近い季節だった。彼女は初めのうちは本当に私の意図に気がついていないようだった。

 私の部屋には、実家から親が来ることもないので布団も一式しかなかった。しかしそれでも女が二人入れないこともない具合だった。私が彼女にお願いをすると、彼女は神妙な顔でうんうんと頷いてそれを受け入れてくれた。すなわち授業が終わると、彼女と私は一緒に私のアパートに帰り、一緒に夕飯を食べて床につくという生活を週に三回はするようになった。そうすると一人でいた時には溺れていた酒も必要なくなり、私は千晶の隣でぐっすり眠ることができた。悪い夢はまだ立ち現われてはいたのだが、私がうなされていてもすぐ傍に千晶がいるという安心感や、嫌な汗をかいて起きた朝にも彼女が既に起きて朝食をつくって迎えてくれることは何にも代えがたいものだった。私が苦しんでいると彼女は「大丈夫だから」と言って優しく撫でてゆっくり抱きしめてくれた。千晶は純粋に私のことを気遣ってくれていた。私にもできるだけそれに応えたい気持ちが膨らんで、下宿先の合鍵も千晶に渡すようになった。私は彼女に持ち得る限りの信頼を預け、こわばりや重さといったものから自らを安らぎの中へ落とし込むことに成功した。すると実際に、悪夢だって大分晴れてくるのだった。結局、私の感情も精神も身体があってこそだ。寄り添ってくれる安心がある健全な身体からは、不潔なものは出てこないものなのかもしれない。それを証明するように、彼女が初めてうちに泊まってからちょうど一ヶ月後が経った頃に、私の脳内にそれは起こった。しかしそれが幸運なのかどうかは、すぐには判断しかねる問題だった。

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