第6話


 私は皐月に死んで欲しくはなかった。彼女はおそらく今でもあの時の聡明さを失ってはいないのだ。ただ、見失っている。それを気づかせなければ皐月には何をしても、言っても無駄なのだろう。しかし思い出してみても、私は彼女に教えられるばっかりで、彼女が感心するようなことを言った覚えはない。つまり一緒にいたのは他に友達がいなかったから仕方なく、だったのだろうか。もしくは話を聞く人が他にいなかったから。そう考えてしまうと過去のこととはいえ、心がじんと痛んでくる。いや、今それはあまり関係のないことだ。たとえ、皐月が私に興味を示していなかったところで、私が彼女に憧れていることには変わりないし、それは非対称の感情であっても変わらない。

 しかし、どうしたら彼女の気持ちを変えることができるのだろうか。病院から出た後、私は電車に乗って、駅から家にバスを使わずに一時間ほどの夜道を歩いた。月曜日からは大学に赴いたが、授業などは上の空にそのことばかりを考えて幾日かが過ぎていった。このまま退院日が来れば、皐月はすぐにまた自殺試行を繰り返してしまうという、刻々と経っていく時間への焦りも増していく。しかしそんな気持ちとは裏腹に、具体的にどうしたら彼女を止めることができるのか、これぞという策は浮かんでこなかった。


 世の中には大小様々な歯車が犇めいている。歯車が噛み合えば誰かが得をし、歯車が噛み合わなければ誰かが損をする、そういう風にできている。その自然な規則は、人間の原動力である欲望とか衝動とかが失われない限りにおいて、変更されることはない。だから私たちはその規則が作用する環境を所与のものとして受け入れるしかないのだ。しかしそれは物同士の組み合わせに留まらず、心を巻き込んだ組み合わせを要するために、私たちはちっぽけであってもその歯車の組み合わせひとつひとつに踊らされてしまうことになる。それを避けることはできないが、ある程度それに対応する方法として主に二つが挙げられる。その内のメジャーな方は、経験的な積み重ねによってより良い噛み合わせや組み合わせを知っていくことだ。これは誰もがみんな無意識の内に志向している。何かの出来事を記憶に蓄積し、次に起こった時のことを前もってシミュレートしておくのだ。そうすることで歯車同士の組み合わせを少しは選別することができるし、組合せ自体は避けられなくてもその仕方に調節が効く。

 そしてもう一つ。それはそのシステムの脱却を意味する。歯車のない世界に自分を置く。それは歯車が蠢く世界が当然と思ってる人たちからはただ単に目を背けているように見られるかもしれない。けれど、それはれっきとしたもう一つの世界に対応する方法であり、環境の拒絶である。ひきこもるのもそうであるし、怪しげな新興宗教に溺れるのもこれに当たる。つまり自室にひきこもって自分の新しい世界観によって外界のことを解釈し直すのは、世界の諸事を俗的で低劣なものとする解釈を持つ神様の指示に自分を委ねてしまうのとある性質において重なっている。それは自分を身体を超えた場所に置いて、自分に直接触れることすらもどこか悪い幻想のことのように思い込むという性質だ。それによってその人は直接経験の世界から脱却を志す。

 おそらく皐月も既存システムからの脱却を目指したのだ。それが不登校であり、脱却しきれなかったところに自殺への願望が湧いてしまう現実がある。

 長いこと考えた末に出てきたのはこんな抽象的で、どこか当たり前のことだった。しかしこの話から先に進むことは一人ではできなかったのだ。


 それまでも何回かこういった話を深織千晶にしたことがあった。その中で彼女は口が堅く秘密は守ってくれるという信頼もあったし、何より彼女はこういう話が得意だった。しかし今回はことが私情に踏み込み過ぎているために千晶に頼らず自分の力で解決するつもりでいたのだ。だが、病院に行ってから十日が過ぎた頃になってもスパッとした打開案は出ず、このままでは取り返しがつかないことになるのではないかという焦りだけが生じる有り様だった。だから私はやむなく自分の能力に見切りをつけ、陽の暖かい午後に千晶を大学構内の芝生の隅に置かれたベンチに誘ったのだ。

 彼女は白のチュニックに肌色のキャミを重ね、膝下のジーンズという爽やかな服装だった。ベンチに腰掛けると近くに並べられた背の高い木々が薫風に揺れ、夏が近づいていることを予感させた。

 私が大まかにこれまでのことを喋ると、バドミントンをしていた大学生たちが芝生に設置された水道に寄るのをぼんやり眺めていた千晶は、頬に手を当てた。

「あなたは、その女の子のことを救えるように自分の考えを整理しないといけないわけね……」

「うん……」

 千晶は一年間浪人時代を送っていたため、私よりも一つ年上だったが、学年が同じということで私は特に敬語を使うこともなかった。それに彼女は話してみると寡黙な見た目とは裏腹に、寛容で気さくな雰囲気を持っていたため、私は気を使うことをすぐにしなくなった。

「瑞香が言うには、私や瑞香も歯車を噛み合わせて、もしくはすり合わせて生きてるってことよね。それを欠かすことなく私たちは毎日を送っている。じゃあそれができない人はどうなるのか、それを救う手立てはないのかってことよね」

「多分そういう話なんじゃないかなと思うんだけど」

 あんまり頭の中で回路が繋がらないことを告げると、千晶は「大丈夫、私はこういうの好きだから」と微笑んで「一緒に考えましょう」と言った。

 私たちの前を、入学の際にもらう校章が刺繍されたトートバッグを持つ学生たちが談笑して通り過ぎた。日曜日に駅前のカフェで会う約束が風に流れて私にも届く。ああやって皐月も入学時は過ごしたのだろうか、と私は不意に悲しくなった。

 私だって死にたくなる時くらいある。けれどみんなどうしたって生きていかなくちゃいけないんだ。だって死んだらおしまいだから。全部なくなってしまうから。

 どこからかシャボン玉が漂ってきて、皐月と一緒に虹を見た時のことが目に浮かんだ。とても古い記憶だ。けれど、彼女はそこで笑っていた。皐月だって楽しそうに笑うことがあるのだ。でもおそらく彼女はそれを自分から手放している。風に風船をさらわれてしまった子どものように切なげに舞い上がるそれをただ見ているのだ。

 私の隣で、じっと考えていた千晶が口を開いた。

「つまりその皐月っていう子は純情で繊細なんだよね」

 千晶は目線を清々しい空に上げた。米粒のような飛行機が音を立てていた。

「私とか瑞香とか普通の人たちはその歯車群の中からより自分に合うタイプのものを選別する。けれどこの時、私が持つ歯車とぴったり合致するに越したことはないけれど、そうでなくてもそこそこ合うので妥協するんだよね。それでその不和に目を瞑る。これは効率的だし、一般的な方法なんだけれどこれはある意味では双方の特性を削っていることになるんだよね。多分、その皐月ちゃんはそれに我慢ができないんだよね」

「そう、……皐月は優しかった。ずっと」

 私は思い出す。彼女が小学校や中学校で憎んでいたのは騒いでいた人たちというよりは、他の子を泣かせてまで楽しもうとする自分勝手な言動に対してだった。皐月は誰よりも心が傷つくことを恐れていた。だから誰かが悲しそうにしていると、声も掛けないくせに遠くから見て目を潤ませているのだった。そんな不器用で純粋な子だった、皐月は。

「だからその純粋さっていうのは彼女の大事な部分で奪っちゃいけないところだ。でもそれが裏目に働いている……」

 千晶はその後、私にある種の精神論を語った。それは難しそうで、私には当てはまらないような内容だったが、皐月にならできるかもしれないと思わせる類のものだった。それを知れば皐月はまたやっていけるかもしれない。私は千晶に礼を行って、立ち上がった。一刻も早く、元の皐月に戻って欲しかった。

 振り返るとベンチで千晶が柔らかい笑顔で手を振っていた。その向こうの空にはさっきまで飛んでいた飛行機の跡をなぞった雲が綺麗な白線を描いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る