第44話 JOY LAND

帝北神経サナトリウム病院の、院長室から望む景色を沢口は気に入っていた。

特に夕暮れの眺望は絶景で、多摩丘陵に沈む太陽と多摩川上空にぽっかりと浮かび始める月。そして、時間とともに川面に映る月光。

そんな幻影世界を眺めながらな沢口は、書棚に隠したウイスキーをちびりとやるのが楽しみだった。

ウイスキーは、高価なものから大衆酒と色々試した結果、サントリーオールドのストレートに辿り着いた。

周りにまわって結局は、父親の趣向と重なったのである。

私鉄稲田駅へ向かうロッキード・マーチン製のモノレールが、ガチャガチャとおもちゃみたいな音を立てながら、病院の前を通り過ぎて行った。

シルバーのアルミボディーに、赤いラインの入った2両編成の車体は、地元の人々からは「いもむし号」と、呼ばれていた。

沢口はその愛くるしさに微笑んで、直ぐに後悔した。

1週間ほど前、デイルームで鮫島結城に殴られた左頬に激痛が走ったからだ。

不全骨折の眼下は赤く腫れ、アルコールのせいもあってズキズキと痛み始めた。


「医者の不養生、なんとでも言いやがれ」


沢口は、痛み止めを飲んでソファーにもたれた。

不機嫌な表情のまま院長室を見渡すと、かつてこの病院の建設時に、父親と選んだイタリアのラグジュアリー家具ブランドが、否が応でも沢口のプライドを傷付けた。

丸みを帯びた優雅なサイドボードも、アールヌーボー様式のテーブルやチェアーも、小さめのサイドテーブルも皆、現会長である父親の趣味で、息子の意見は一切取り入れられなかった。

そんな父親の口癖は。


「オマエは私の写し鏡だ、財の援助は惜しまぬが、名は己で切り拓かねばならないぞ。それが出来るかな、余生は息子の人生を遠くから観劇することとしよう。とにかくオマエは私を楽しませてくれ、それだけの素量はあるはずだよ、何せ私の血を引いてるのだからな」


沢口は、壁に掲げられた父親の肖像画を見て笑った。


「ベートーベンじゃあるまいし、ここは病院で音楽室じゃないんだよ」


ドアをノックする音が聞こえて、スーツを整えながら促すと、北九州から戻った瀬戸際がゆったりとした歩調で。


「また飲んでるんですか?」


「職務外だからね、ま、掛けてくれよ」


「はい」


「君もやるか?」


「いえ、お気遣いなく」


沢口は、苦笑いする瀬戸際が気に入らなかった。

眉間を狭め、アームチェアーに踏ん反りながら。


「このクラシックモデルの椅子、まあ、職人が丹精込めて作った傑作なんだろうがね、イタリアの心意気とでも言うのかな。瀬戸際君、幾らだと思う?」


「はい?」


「値段だよ、ちなみにデザイナーは日本人だそうだ」


「さあ、見当もつきませんが」


「102万だ」


「ほう」


「・・・ほうだよな。私だってほうだよ」


「え?」


「ん?」


沢口は、笑いを含みながら困り顔の瀬戸際に満足した。

こうしてサイドテーブルを挟んで会話するのも久方振りで、相手よりも優越な立場でいられる院長室こそが、沢口のシャングリラであった。


「まあいいや、それよりも本題なんだがね、瀬戸際先生」


「なんでしょう」


「今日連絡があったんだよ、ほら、ヒルみたいなライターがいただろ、桂ってやつの記事なんだが・・・君の患者、鮫島結城に食らいついてるあいつのさ、こんなもん出して来やがった」


沢口は、雑誌記事のコピーを瀬戸際に手渡して。


「若手研修医の不可解な自殺の背景に潜む、食人鬼◯島◯城のエロス。彼を自殺に追いやった、帝北神経サナトリウムのずさんな体質と遺族の想い・・・だとさ」


瀬戸際は、ひと通り目を通したあとで。


「ま、いいんじゃないですか?」


「えらく他人事だなあ、元はと言えば君の治療方針のせいでこんなことになってるんじゃないのか」


「全責任は私にありますから、責任はとるつもりです」


「まあ、そこまでせんでもいいよ。ちんけな低俗紙なんか誰も見向きもせんだろう。それと、知念正也君のご両親に見舞金振り込んどいたから、君からも見舞いの言葉なり手紙なり後始末頼むよ・・・後始末は言葉が過ぎた。すまんね、ここのところ疲れているんだ」


「いえ、それよりも災難でしたね」


「ああ、全くだよ。いきなり襲って来やがった」


「被害届は?」


「出すわけないだろう!」


「で、彼は・・・」


「隔離病棟だよ。内々にな、内々に・・・お上が五月蝿いから」


「身体拘束ですか」


「そうだ、お上ってより、人権団体の方かな」


「わかりました。今から話できますかね?」


「今から? 随分仕事熱心じゃないか、まだ休暇扱いなんだぞ」


「呼び出されちゃ、休みもへったくれもありませんよ」


「そいつは悪うございましたね」


「いえいえ、院長のことも心配でしたし。あ、それとお土産です」


瀬戸際は紙袋を沢口に渡しながら。


「明太子、好きでしたよね」


「おお、これは有難い。すまんね、カミさんも喜ぶよ」


「会長にも是非」


瀬戸際は、妙に引っかかる言い方をして薄笑いを浮かべた。







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