第9話 帝北神経サナトリウム閉鎖病棟

解除し忘れたスマホのアラーム音で、翔子は目を覚ました。

隣の哲也は背中を丸めて眠っている。

無防備な寝顔には不釣り合いな、逞しい胸板に手を触れると生命の音がした。

パートナーの鼓動を感じることで、翔子はやっと安心できた。

しばらく寝顔を見詰めた後、起こさないようにそっと立ち上がって、ガウンを羽織って寝室を出る。

リビングの時計の針は6時を指していて、加湿器から立ち昇る蒸気からはカモミールの香りが漂っていた。

部屋の隅で置き去りにされた除湿器を見て、翔子は時の流れの過酷さを痛感した。

換気扇のスイッチを入れて、カウチソファーに腰かけながら煙草に火を点ける。ぼんやりと灯る火種を見て、かつて哲也はホタルみたいだねと言っていた。

そんな昔話を思い出してしまうのも、得体の知れない夢のせいだろうと翔子は思った。

時折暗くかげる、男性としては美しすぎる鮫島結城の眼差しと、艶めかしいゼリーのような唇。吐息交じりの非難めいた声が、今にも聞こえそうな気がする。


「どうして子供をつくらないんだ?」


翔子は、燻る煙草の煙を目で追いかけながら、ユニオンリーブルを選択した当時を振り返った。

仕事も続けたかったし、結婚という概念に囚われるのも、子育てに翻弄させられるのも我慢ならなかった。

親になることへの不安も大きく、経済的な余裕もない。

だから同棲婚を選択したのだが、周囲の理解は難しく。


「もし赤ちゃんが出来たらどうするの? 私生児になるじゃない」


と、哲也の母親には言われた。

翔子は。


「私生児なんて言葉、ただの偏見です!」


とは言えなかった。

生きた時代が違うのだから仕方がないと、何処かで諦めていた。

それ以来、結婚の話は避けるようになった。

後悔はしていない筈だった・・・夢を見るまでは。

鮫島結城の黒紅色の瞳は人間の心を破壊し、情け容赦なく土足で脳内に侵入してくる。それが愛だとするのなら、私は喜んで死を受け入れようと思う。

そう書き残して、鮫島とセックス中に腹上死した俳優は、いったいどんな幻覚や幻聴に悩まされていたのだろうか。翔子は今後の展開次第では、後々の記事にその内容をしたためるつもりでいた。

鮫島結城に憑りつかれた俳優の生涯としてー。

時を刻む音だけが聞こえる。

遅くなった日の出は、未だ心を照らしてはくれない。

翔子は煙草を消して立ち上がった。

これ以上、仕事を家庭に持ち込みたくなかったし、自分も洗脳されそうで怖かったからだ。


「どうして子供をつくらないんだ?」


ある意味で、核心を突いた質問だった。

哲也はコンドームを好まなかった。その理由は感度が鈍るというもので、翔子も同じ考えだった。

それは即ち、セックスとは承認欲求の究極であって、子供を望まないカップルにとっては快楽という名の儀礼に他ならないのではなかろうか。

促されていく自我に気が付いた時、人の気配がして翔子は振り返った。

寝ぐせ頭の哲也が、パンツ一枚の姿で立っていた。


「おはよう・・・早くない・・・?」


「おはよう」


「どうかしたの?」


「ううん、変な夢見ちゃって」


「恐くなったの?」


「・・・なったの」


「もう出かけるの?」


「ううん、10時に出るからまだ・・・」


「もうひと眠りしようよ」


「もうひと眠り?」


「うん」


駄々っ子みたいな哲也が、急に愛おしくなって、翔子は抱きついて笑った。


「寝る!」


そう言うと、ツバメの巣のような哲也の髪をくしゃくしゃに撫でまわして、これが私たちの愛の表現なんだと言い聞かせた。




軽くひと眠りすると8時を回っていて、キッチンからは香ばしい匂いがしていた。

翔子は、カーテンの隙間から差し込む朝陽に目を細めながら起き上がり、リビングのテーブルに並べられた朝食に感嘆の声をあげた。

エプロン姿の哲也は寝ぐせの付いたままの頭で。


「おはよう、久々に頑張った」


「すごいじゃん、健康的」


「おススメはバナナとセロリのスムージー」


「腕をあげたな!」


「あげたよ」


それぞれのランチョンマットの上には、厚切りのトーストとコンソメスープ、ゆで卵とベーコンサラダが載せられていて、出来たばかりのスムージーを手に、哲也は翔子に自信満々の笑顔を見せた。

カルピスバターと無塩バターのどちらがいいかと尋ねる哲也は、これまで以上に優しかった。


「哲っちゃん、今夜も仕事なんでしょう?」


「うん。でも22時で閉店するから終電で帰れるよ、仕込みはやんなきゃだから13時には出るけどね」


「あの子、前にウチで鍋パーティーした時に手伝ってくれた・・・」


「ああ、かめちゃんか」


「そうそう!」


「辞めた。生活できないって」


「そうなんだ・・・可愛かったのにね」


「大学生もたいへんだよ、どこも募集してないって」


「そう・・・」


話が暗くなりかけたところで、哲也は言った。


「それよりさ、翔子の取材してる人って、多重人格で騒がれた人だよね? 身近にいないけど、どんな感じなの?」


それは素直な質問だろうと翔子は思った。

決して関わることのない事象に、人間は興味津々なのだ。

哲也も悪気はないのだろう。翔子は努めて明るく答えた。


「まだ初めだから詳しくは判らないけど、解離性同一性障害って言うの。彼の頭の中には6人の人格が居て、場面によって人が入れ代わるみたい」


「恐いな・・・なんでそうなっちゃうんだろう・・・」


「うん・・・」


「詐病とかじゃないの?」


「違うみたいよ・・・だいたいはトラウマなんだって。ほら、生きてたら死にたくなることってあるじゃない。鮫島さんはちいさい頃に耐え難い経験をしてきたらしいんだけど、それを補おうとして形成されたのが人格達・・・生きる為の人間の防衛本能なのかもね」


「そっか・・・なんだか可哀そうだな」


「けど・・・」


「けどなに?」


翔子は。


「被害者の耳を食べた可能性は排除出来ないらしいの」


と、言いかけてやめた。

黙り込む姿に哲也は言った。


「あ、ごめんごめん、守秘義務だね」


「・・・そんなとこ」


「記事楽しみにしてるよ」


「あんがと」


数時間後に控えた鮫島結城との接見を考えると、翔子は途端に気が滅入ってしまった。再び、帝北神経サナトリウム閉鎖病棟へ向かうのも気が引けた。パンデミックのさ中、医療現場での感染リスクが頭をよぎったからだ。

スムージーは酸っぱい味がした。




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