15話:近づかれたってドキドキしないけど

 翌日。いつものように家を出ると「行ってきます」という、うみちゃんの声とともに隣の家の玄関が同時に開いた。


「おはよう、満ちゃん」


「おう、おはよう」


 なんだろう。今日の彼女は何か違和感がある。「やっぱり似合わない?」と少し恥ずかしそうに苦笑いする彼女の反応で、その違和感の正体はすぐに気づいた。

 スカートを穿いている。中学生の頃も三年間穿いていた。別に彼女はスカートが似合わないわけではない。ズボンの方が似合いすぎているだけで。


「いや、別に可愛いと思うけど…どうした急に」


「百合香が私のスカート姿が見たいって。で、その格好でデートしたいって」


「なんじゃそりゃ」


「二人ともおはよ…」


 合流した望もうみちゃんのスカート姿を見て首を傾げる。


「今日そんな暑いか?」


「百合香がね、デートしたいって。スカート穿いて来てって」


「デートって…部活は?」


「ふふ。サボるよ」


 彼女は元々真面目なタイプではなく、時々部活をサボることもあるし、学校自体サボることもあった。病んでいた時期だったから望も私も叱ることはしなかった—どちらにせよ私はサボり常習犯のため叱ることはできない—が、今回は望も怒っているようだ。しかしうみちゃんはいつものようにへらへらしている。


「あははー。適当に体調不良って言っておいてー」


「…」


「そんな怖い顔しないでよ。たまにはサボったっていいでしょう?」


「…たまには?」


「高校生になってからは一回もサボってないよ」


「まだ数週間しか経ってないだろ」


「いいじゃない。見逃してよ。なんでもするから。あっ、エッチなお願いは却下するから」


「…はぁ…じゃあなんかジュース奢って」


「はぁい。何がいい?ミルクティー?」


「…俺がミルクティー苦手なの知ってるだろ」


「ごめんごめん。ふふ。許してくれてありがとう」


 今日はやけに明るい。よっぽど彼女とのデートが楽しみなのだろう。しかし、まだ彼女と付き合ってはいないらしい。友達以上恋人未満の状態なのだとか。




 教室に入ると、教室がどよめいた。クラスメイト達の視線が彼女のスカートに集まる。彼女が席に座ると近くの女子生徒が「急にどうしたの?」と話しかけて来た。


「別に大した理由はないよ。今日はスカートの気分だっただけ。似合わない?」


「いや、似合わなくはないけど…なんかすっごい違和感」


「あははっ、これでも中学生の頃はスカート穿いてたんだよ」


 彼女のズボン姿に慣れて忘れそうになるが、そうなのだ。中学生の頃は三年間ずっとスカートを穿いていた。というか、それしか選択肢がなかった。


「ほら、これ」


 中学生時代の写真をクラスメイトに見せるうみちゃん。髪が長い頃の写真だ。


「えっ、鈴木くんロングヘアじゃん。意外と似合ってるし」


「モデルさんみたい」


「ありがとー」


 だんだんと彼女の周りにクラスメイト達が集まってきた。一旦席を外すと、ユリエルが実さんに呼ばれて教室を出て行くのが見えた。感想を言いに行くのは後の方が良いだろうか。


 しばらく待っていたが、彼女は戻ってこない。


「あれ、百合香は?」


「実さんに連れて行かれた。ちょっと迎えに行ってくるわ」


「あ、私が…「おーいちょっと何人かこっち来て手伝ってくれないか!学級委員ー!」」


 廊下から三崎先生が叫ぶ声が聞こえた。


「呼ばれてんぞ」


「うぅ…ちょっと行ってくる…百合香のことお願いね」


「おう」


 ついでに昨日貰った感想も伝えよう。

 その辺の生徒に彼女達がどこへ行ったか聞き込みをしながら二人の足跡を辿る。辿り着いたのは音楽部の部室。何故か鍵がかかっていた。二人が居るのはここじゃないのだろうか。しかし、中から話し声は聞こえる。


「実さん、ユリエル、もうすぐHR始まるよ」


 ノックをして声をかけると鍵が開く音が聞こえた。しかし、返事はなく出てこない。まるで、私が入ってくるのを待っているようだ。一体中で何をしているのだろうか。如何わしい事でもしているのだろうか。いやいや、まさか。再び扉をノックするが返事はない。

 仕方ない、鍵が空いているなら開けてしまおう。


「…え」


 一体これはどういう状況なのか。扉を開けた先に居た二人はキスをしていた。ユリエルはうみちゃんが好きだと言っていたのに。しかしすぐに彼女が実さんを突き飛ばしたことで、望んでしていたわけではないと判断する。私を見てからユリエルの方に視線を戻し「あら、見られちゃったわね」とわざとらしく笑う実さん。状況が全く理解出来ないが、ユリエルが手を振り上げようとすると反射的に身体が動いて彼女の腕を掴んでいた。


「…実さん、昨日、音源、ありがとうございました。…私、初めて聴いた時からあなたの演奏が好きで」


 彼女に音源の件のお礼を言う。そんな呑気な状況じゃないのはわかっているけれど、何か言わなければいけない気がした。


「…そう。貴女が鈴木さんが言ってたファンの子なのね」


「…うっす。それ伝えたくて追いかけきました」


「…幻滅したでしょう。私が貴女の友達の好きな人にこんなことするなんて


 自嘲するように笑う実さん。その表情が病んでいた頃のうみちゃんと重なる。望に八つ当たりをしていた時のうみちゃんと。空美さん達と演奏している時はあんなに楽しそうだったのに、彼女もうみちゃんと似た闇を抱えているのだろうか。


「…ユリエル、返してもらいますね。この子、うみちゃんのなんで」


 ユリエルが傷つけられればうみちゃんが苦しむ。守らなければ。だけど、同時に実さんの抱える闇も気になる。しかし今は深入りすべきではない気がする。私は彼女の友人でもなんでもない。ただのファンだ。


「…あら、付き合ってないって聞いたのだけど」


「まぁ…今は付き合ってないって言ってますけど、ほとんど付き合ってるようなもんですよ。だから、あんまちょっかいかけないでやってくださいね」


 それだけ告げてユリエルを連れて部室を出ようとすると、実さんは「待って」と私達を引き止めた。


「その子にはちょっかいを出さないって約束してあげる。代わりに、貴女がわたしの相手をして」


「…相手?」


「えぇ。…わたしね、女の子が好きなの。貴女みたいな可愛い女の子が」


 そう言いながら、実さんは私に詰め寄る。だから彼女に手を出そうとしたというのだろうか。女の子なら誰でも良いのだろうか。私で良いなら、別に私は構わない。


「あざっす」


 とりあえず可愛いと言われたことにお礼を言うと、彼女はきょとんとしてしまった。


「…貴女、今どういう立場か分かってる?なにに対するお礼よそれ」


「いや、可愛いって言われたんで。で、私が彼女の代わりになればいいんすよね?構いませんよ」


「意味分かって言っているの?」


 呆れたように問う実さん。私は勉強は苦手だが、そこまで馬鹿ではない。


「分かりますよ。要するにセフ……"愛人"になれってことでしょう?別にいいですよ。私、実さんのこと嫌いじゃないですし」


 動揺する実さん。本気で脅す気なんてなかったのだろう。分かっている。逆に距離を詰め、耳元で囁く。


「私もちょうど、寂しさを紛らわせる相手が欲しかったんです」


 すると彼女は顔を真っ赤に染めた。なかなか可愛い反応をするじゃないか。人の女に手を出そうとした割には。いや、あれのキスもきっと、脅かすつもりだっただけなのだろう。

 冗談であることを告げてから、ユリエルを連れて部室を出る。


「…実さんと何話してたの?」


「…私と海菜が羨ましいって話。羨ましくて、妬ましくて、嫉妬で狂いそうだって」


 "女の子が好き"と彼女は言っていた。その好きは恋愛的な意味だろう。過去に何かあったのだろう。例えば、自分の恋を他人に、あるいは好きな人に、あるいは家族に否定されたとか。


「…あの人、悪い人じゃないと思う」


「無理矢理キスされたうえに、殴ろうとしてたくせに庇うんだ?」


 私がそう言うとユリエルは思い出したように唇を手の甲で拭った。


「…手が出そうになったことは反省してる。止めてくれてありがとう」


「どういたしまして。私もあの人が悪い人だとは思わないよ」


 振り返るが、部室から彼女が出てくる気配はない。


「迎えに来たのが王子じゃなくてごめんね」


「…別に気にしてないわ。海菜は人気者だもの」


「めちゃくちゃ気にしてんじゃん。うみちゃんも行こうとはしてたんだけど、学級委員だからって先生の手伝いで借り出されちゃってさ」


「…それは仕方ないわね」


 と言いつつも不満そうだ。彼女が自分以外に人気があることに嫉妬しているのだろう。しかし、うみちゃんが行かなくてよかったかもしれない。二人がキスをしているシーンなんて見たくはないだろうから。

 そういえば、私は彼女がユリエルとキスをしているところを見てしまったというのに、嫉妬をしなかった。


「…なぁ、ユリエルはうみちゃんが自分以外の誰かとキスしてたら嫌だよな?」


「嫌に決まってるじゃない」


「…だよなぁ」


 私は特に何も思わなかった。あれだけ迫られても一切ドキドキしなかった。彼女が他の誰かとキス以上のことをしているところを想像してみても、モヤモヤしたりはしない。羨ましいとは思うが。


「…私、さっきの見てわかった。別に実さんが誰とキスしようが、セ…いちゃいちゃしてようが、気にならないんだって。あの人に恋人が出来たってきっと、あの人が望んだ人なら素直に祝福できる」


 同時にもう一つ分かったことがある。


「興味はヴァイオリンだけじゃなくて、あの人本人にも向けられてる。彼女のこと、もっと詳しく知りたいって思ってる。あんな…辛そうな顔しないでほしいって」


 それはきっとあの日のうみちゃんに重ねてしまっているからかもしれない。


「…私はそれは恋だと思うわ。逆に恋だと言い切れないのはなぜ?」


 それが恋だと言うのなら、うみちゃんや望に対する感情も恋ということになってしまうと思うから。それから…


「…あれだけ近寄られてもドキドキしなかったから」


 そう。あれだけ近づかれても、彼女の演奏を聴いた時のようなドキドキは一切なかったから。恋はドキドキするものだと、誰もが口を揃えて言う。それから、独占欲も無い。だけど…もっと近づきたいという感情さらに強くなった。心配なんだ。あの日のうみちゃんと重なるから。


「…彼女の心の支えになれるなら、どんな関係でも良いんだ。友人でも、都合の良い関係でも」


「そうね。確かに、恋をするとドキドキするわ。私も海菜の近くに居るとドキドキする。けど、このドキドキはきっと、彼女と過ごす時間が長くなるにつれて失われていくものだと思うの。それが無くなっても私はきっと、彼女と一緒にいたいと思っていると思う。私はこのドキドキを味わうためだけに彼女と一緒にいるわけじゃないから」


「…えっと…つまり?」


「つまりね、恋って、例外はあるだろうけど、いつかは愛になるものだと思うの。満ちゃんはきっと、その過程をすっ飛ばしちゃうくらい実さんを愛してしまっただけなんじゃないかしら」


 恋が愛に変わる過程をすっ飛ばした?…私は実さんを愛している?


「…すっ飛ばしちゃっただけ…」


「えぇ。あくまでも私の意見だけどね」


「…恋の過程をすっ飛ばすほど好きって…」


 そんなこと言われるとは思わなかった。ユリエルからはそう見えるのだろうか。そんなに私は彼女に惚れているように見えるのだろうか。


「…なんかそれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど…」


「ふふ。満ちゃんの実さんに対する気持ちはきっと、恋じゃないとしても、恋愛感情の一種ではあると思うわ」


「…そう…なのかな…」


 恋と恋愛感情がイコールで結ばれないなんて、そんなことは考えたことなかった。そうか、私の中に恋という感情はないかもしれなくても、愛は確かに存在するのか。しかし、恋愛の愛と友愛の愛はどう違うのだろうという新しい疑問が生まれた。


「あくまでも、私の見解ね。最終的に答えを出すのはあなたよ。でも、あまり周りと比較比較したって答えは出ないと思うわ。周りと比べて焦ったって、余計に答えが遠ざかるだけだと思う。あの人のこと、好きなんでしょう?」


 彼女の台詞にデジャブを感じた。昨日、うみちゃんにほぼ同じことを言われた。なんだか笑ってしまう。


「…恥ずかしいこと言ったかしら」


「いや…昨日うみちゃんに同じこと言われたから…なんかすげぇデジャブ」


「…そ、そう…」


 恥ずかしそうに顔を逸らすユリエル。うみちゃん居たらしつこくからかっているだろう。


「ふふ…ありがとう。もうちょっと悩んでみるよ。実さんとの繋がりもできたことだし」


「…身代わりになるって話、まさか本気じゃないでしょうね」


「…あの人は多分本気じゃないよ。『私も寂しいから相手してくれる人が欲しかったんです』って言ったら真っ赤になってたし。半分は冗談なのに」


 半分は。もう半分は本気だ。彼女に対して性的な興味がないとは言えない。まぁそれは彼女だからではなく、女性なら誰でも良いわけだが。だけどどうせならお互いに楽しみたい。楽しんでくれる人としたい。だから別に実さんが嫌なら無理強いする気はない。





 と、思っていたが、昼休みになると私は彼女に呼び出された。弁当を持って立ち上がるとユリエルに袖を引かれる。


「満ちゃん…」


「大丈夫だって。一緒にご飯食べてくるだけ」


「…何?今朝実さんと喧嘩でもした?」


「いや、別に。ちょっと話しただけ。多分その話の続きがしたいんだろうな」


「ふぅん。暴力はダメだよ満ちゃん。下手すると退学になっちゃう。せめてその制服を着てる間は大人しくしようね」


「喧嘩じゃねぇって…行ってくる」


 弁当を持って彼女と合流する。


「どこで食べるんすか?」


「…そうね。誰にも邪魔されずに二人きりになれる場所」


 連れてこられたのは音楽部の部室。「鍵開いてるからどうぞ」と言われ入ると後ろでガチャッと鍵をかける音がした。そして弁当を取り上げられる。それを机の上に置くと、彼女は私に迫り、リボンに手をかけて私の顔を見る。


「…動じないわね」


「言ったじゃん。別にセフレになってあげて良いって。けどさ、学校でするってリスク高くね?見つかったら退学っすよ」


「…それでもしてる人は居るわ。自主練をするからって言って部室の鍵を借りて」


「ふぅん?それってあんたのこと?」


「…えぇ。そうよ」


 の、割には手慣れているようには見えない。試しに私から手を伸ばし、彼女の頬に触れる。びくりと怯えるように跳ねた。手を触れたまま顔を近づけると、彼女は磁石が反発するように離れる。離れる頭を引き寄せ、唇が触れるギリギリまで近づく。彼女は顔を逸らしながら私の身体を押して抵抗の意を示した。やはり、本当は私とこういうことをしたいわけではないのだろう。


「…私のこと、抱いてくれんじゃないの?先輩」


 揶揄うように耳元で囁くと彼女は私を睨んだ。振り上げられた手を掴み、もう片方の手とまとめて壁に押し付ける。


「抱かれる方が好きですか?私は別にどっちでも良いですよ」


 そう脅かすと、彼女は悔しそうに唇を噛み締め、泣き出してしまった。


「…はぁ。冗談っすよ。別に嫌がる女を無理矢理犯す趣味とかないんで安心してください。何もしません」


 拘束を解き、ハンカチを渡して彼女から少し離れて座る。


「怖がらせてごめんね。先輩」


「…なんなんですか…貴女」


「今朝も言った通り、あんたのファンです。…あ、名乗りましたっけ。月島満っていいます」


「…一条実よ」


「知ってます。改めて、わざわざ音源の抽出ありがとうございました。あれって、外で撮ったの?」


 沈黙が流れる。返事を待っていると、やがてため息をついて入り口近くの机の上に置いた二人分の弁当を持ってきた。私に弁当を渡し、少し離れて座ると私を見ないまま弁当を広げながら返事を返してくれた。


「学校の中庭で。…たまたま通りかかった鈴木さんの好きな彼女に頼んで撮ってもらった」


「へぇ。…自然の音とあんたのヴァイオリンの相性最高でしたよ。…めちゃくちゃ良かったっす」


「…貴女、見た目のわりにヤンキーみたいな喋り方するのね」


 会話が続く。物理的な距離は縮まらないが、少しは警戒を解いてくれたようだ。


「よく言われます。見た目と中身のギャップが激しいって」


「タバコ吸ってそう」


「よく言われるけど、吸ってねぇっすよ。酒も飲んでない。少なくとも、部室に女連れ込んで鍵かけて如何わしいことしてるあんたよりは真面目っすよ」


「…してないわ。冗談よあれは」


 分かっている。


「…分かってます。私さ、あんたと話がしてみたかったんだ。あんたのヴァイオリンを聴いた日からずっと、あんたが気になってた」


「…なんですか?告白ならお断りします。わたしは貴女のような人嫌いです」


「別に、あんたを私のものにしたいなんて言いませんよ。…私ね、恋が分からないんです。誰かを独り占めしたいとか、自分だけを見てほしいとか、一緒に居るとドキドキするとか…そういうの、私にはないんすよ」


 私の恋の対象は彼女自身ではなく、彼女がヴァイオリンで奏でる音だった。今日、そのことを確信した。そして、私は人間に対して恋をしないかもしれないという説が濃厚になった。


「…わたしからしたら羨ましい限りです。…恋なんて感情は煩わしいだけですから…麻薬に例えられる通り、危険な感情ですよ。…恋をすると人は冷静な判断が出来なくなる。…あげられるものならあげたいですよこんな感情」


 約二年前、うみちゃんも同じことを言っていた。


「…似たようなことを友人に言われたことがあります。…今のあんたはあの時の彼女と同じ顔をしている」


 この世の全てを憎み、そんな自分の感情を必死に押し殺していた彼女と。


「…そうですか。私をその友人と重ねて、同情してるんですね」


 不快そうに顔をしかめる彼女。


「…多分そうですね。…不快ですか?」


「えぇ。…この上なく不快です」


「なら、私は教室に戻ります」


 立ち上がろうとすると止められる。私の袖を握った手は震えていた。戻り、隣に座る。距離を空けようとはしなかった。もう警戒はしていないのだろうか。


「…おかず交換します?」


「…結構です」


「庶民の食べるものなんて口にできませんわ!って?」


「…どうせほとんど冷凍食品でしょう」


「多少は手作りしてますよ。卵焼きとか」


 卵焼き以外は冷凍もしくは残り物だが。


「ちなみに、私が焼いてます。あんたはお嬢様だから料理とか一切しなさそうっすね」


「…そうね。お弁当は使用人が作ってくれます」


「ははっ。贅沢な暮らししてんなぁ。包丁握ったことあります?てか、台所入ったことある?」


「…包丁は危ないので持たせてもらえません」


 冗談のつもりだったが、本当に包丁を持たせて貰えないとは思わなかった。


「マジか…あ、指怪我するといけないから?」


「…貴女は毎日どこかしら怪我してそうね」


「流石に毎日はねぇよ。あー…でも小学生ぐらいの頃はよく骨折ってましたね。木登りして落ちたりして」


「…木登りって…貴女、猿みたいね」


 呆れたようにため息を吐く実さん。


「あははっ。実さんは木登ったこと無さそう」


「…ある方が珍しいと思いますが」


「今度一緒に登ります?」


「結構です。遠慮します」


「大丈夫っすよ。私が背負って登るんで」


「…貴女、本当に人間ですか?」


 恋愛感情が無い人も居るらしいという話をすると『それは人しておかしいよ』と言う人もいた。私もそうかもしれないという話をしているのによくもそんなこと言えるものだ。実さんがそういう意味で言ったわけでは無いということは分かっているが、ふとそんなことを思い出してしまった。


「人間ですよ。…普通の人間です。あんたと同じ」


「…そうね」


「失礼なこと言ったわ」と彼女は小さく謝った。そこで謝罪の言葉が素直に出るということはやはり、彼女は悪人ではない。もしかしたら、彼女も人間じゃないと、あるいは普通じゃないと言われたことがあるのかもしれない。


「…実さんは誰かに恋したことあるんすよね?」


「…中学生の頃、付き合っている女の子が居たわ」


「へぇ」


 それを聞いたって私は嫉妬したりしない。むしろ知りたい。どうしてそんな辛そうな顔をするのか。だけど、ずけずけと土足で心に踏み入ってぐちゃぐちゃに荒らしたいわけでは無い。私にはまだ彼女の心に踏み入る資格はない。


「…貴女は私の兄に似ているわね。恋をしない。だけど寂しがり屋で、寂しさを紛らわすためだけに女性を抱く。女性であれば誰でもいい。…貴女もそうなのでしょう。…だから私に優しくするのかしら」


「…別にヤりたいから優しくしてるわけじゃないっすよ。むしろ、誰でもいいからこそそんな面倒なことしない。だって、惚れられた女に手出して執着されたら面倒じゃないっすか」


「…そう。やっぱり貴女、兄と考え方が似てるわ。気が合いそうね」


 私を軽蔑するように彼女は冷たく笑う。自惚れかもしれないが、そこに含まれるのは軽蔑だけではない気がした。


「…そうっすよ。私は誰でも良いんすよ。だから嫌がる人にわざわざ迫ったりはしません。トラブルを起こすのは面倒なんで。…私があんたに付いてきたのはあんたと話をしてみたかったからです。あんたに対する感情の正体を知りたかったから」


「…そう。…それで、何か分かったの?」


「…ドキドキするのは、あんたの演奏に対してであって、あんた個人じゃないってのは分かりました。でも…あんたのこともっと知りたいって気持ちはあります」


「…貴女、恥ずかしい人ね」


「…空美さんとどっちがキザですか?」


「…変わんないわよそんなに」


「ふぅん。ということは私のことはそんなに嫌いじゃないんだ」


「…どうしてそういう発想になるのかしら。おめでたい人ね」


 といいつつも、否定はしない。そして、卵焼きを私のご飯の上に置くと「等価交換よ」と言って私の卵焼きを勝手に箸で切って持っていく。


「…美味うまっ…なんかぷちぷちしてる」


 とびことかたらこだろうか。いやしかし、中に入っているものはピンクでも赤でもなく黒い。


「…キャビアよ」


 キャビアというと…高級食材だ。確か、サメの卵。


「…マジか。人生初キャビアだわ」


「…食べたことないの?キャビア」


「逆に、卵焼きにキャビア入れる家庭ってなかなかないと思います。高級食材だろ?キャビアって」


「…そうだったわね」


「そうだったわねって」


 やはり庶民の私とは感覚が違うのだろうか。それにしても、不快だとか嫌いだとか言いながら、出て行こうとしたら引き留めたり、こうやっておかずの交換に応じてくれたり…心を開こうとしてくれていると解釈して良いのだろうか。もう少し踏み込んで良いのだろうか。いや、まだもう少し様子を見た方がいいかもしれない。そう思っていると


「…付き合っていた女の子とは、親に別れさせられたの」


 と、ぽつりと彼女が溢した。


「…親の決めた人としか恋愛出来ない感じですか?」


「…そう言いつけられているわけではないけれど、実質そうね。…わたしが同性愛者であることは認めてくれない。対して、兄の柚樹がふらふらと遊び歩いていることに関しては何も言わない。彼は次男だからどうでもいいの」


「次男ってことは、他にもお兄さんが居るんすか」


「えぇ。上に兄が一人。そしてわたしと柚樹の3人兄弟。長兄ちょうけいはいずれ会社を継ぐ大事な人だけど、父にとっては、わたしと柚樹はどうでもいい存在なの。ただ、わたしは母から溺愛されている。母が愛しているのはだけど」


「…双子のお兄さんは?」


「あれは母からも見放されてるわ。…だけどわたしは彼が羨ましい。親から執着されない彼が。見張られずに自由に遊べる彼が羨ましくてしかたない。…わたしは人形なの。母のお気に入りのお人形。お人形には心なんて、必要ない」


 彼女は箸を止めると私の肩に頭を預けた。


「…知りたかったんでしょう。わたしのこと。お望み通り教えてあげたわよ」


「…ありがとうございます」


「…貴女のことも教えなさい」


「私のことっすか?私のことはもう大体話しましたけど…空美さんの従姉妹のうみちゃんと幼馴染で…恋という感情に憧れていて…あ、弟が1人居ます。あと、犬飼ってます。写真見ます?」


 つきみと新が一緒に写る写真を彼女に見せる。


「…ポメラニアンかしら」


「はい。ポメラニアンのつきみと、一個下の弟の新です」


「…似てるわね。貴女に」


「そうなんすよ。弟、私に似てかわいい顔してるでしょ。だから昔から、やんちゃな男子からちょっかい出されがちで。他の写真も見ていいよ」


「…犬と弟ばかりね。…貴女、ブラコンなの?」


「…まぁ、否定はできないですね。でも可愛くない?弟。天使ですよ天使」


「…貴女は天使の皮をかぶった悪魔って感じだけど」


「えっ、見た目が天使みたいに可愛い?あざっす」


「…都合の良い耳ね」


「いや、実際私って誰が見ても美少女じゃないですか」


「…はぁ…」


「貴女と話してると調子が狂う…」とため息を吐く実さん。だけど、やはり私のことを嫌っているようには見えない。自分のことを話してくれたということは心を開いてくれたということだろう。なら私ももう少し踏み込ませてもらおう。


「…ねぇ、実さん。明日暇?デートしません?」


「…貴女、恋はしないとか言いながらぐいぐい来るのね」


「大丈夫っすよ。別に密室に連れ込んでどうこうするわけじゃないんで。とりあえず連絡先交換しましょ。もうチャイムなりそうだし。ほら、携帯出して」


 ため息を吐きながらも、スマホを出してくれた。LINKに彼女のアカウントを友達登録する。


「土曜日、どこ行きたい?水族館?動物園?遊園地?カラオケ?」


「…貴女の行きたいところで良いわ」


「じゃあカラオケ。待ち合わせ場所はまた夕方、部活が終わったら連絡しますね」


「…ええ」


 多少強引だったかもしれないが、連絡先の交換に応じてくれた。デートの約束も断らなかった。ということはやはり彼女は


「実さんやっぱ私のこと嫌いじゃないでしょ」


「…第一印象よりはマシになったわね」


「あ、認めるんだ」


「…わたしは教室戻るから。…鍵、職員室に戻しておいてください」


 言い残して実さんは私を置いて部室を出て行く。部室に一人取り残されてしまった。

 心を開いてくれた理由は分からないが、距離が縮まったことは嬉しく感じている。恋は理屈ではないと、人は口を揃えて言う。私のこれも恋なのだろうか。ドキドキしないけど、そうなのだろうか。分からないが…私は彼女が嫌いではない。むしろ好きだ。それははっきりと分かった。

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