人待ち


 「寒い、なあ……」

 私は手に息をふきかけて小さく呟いた。冷たいベンチに座っていると、そこから体温が下がっていく気がする。

 私は足首をのばしたり、縮めたりして、少しでも寒さを凌ごうとしていた。

 空は冬の曇天である。足元で、落ち葉が乾いた寂しい音をたてて舞っている。色をなくした冬の公園にひと気はない。それがいっそう寒く感じさせる。

 私はスカートの裾を無理矢理下げ、コートの前を寄せて、バックを抱きしめた。

 公園に着いてもうすでに二十分が経とうとしているのだが、一向に友人が来る気配はない。私が早く来すぎたせいもあるのだけれど……。

「さむ……」

 私は寂しさもあって、また呟いた。呟くごとに寒くしかならないのに、寂しさのほうが勝っていたようだ。

人を待つのは嫌いだ。自分ひとりが世界から取り残された気がする。時は進み、人々は自分の前を通り過ぎはするけれど、自分ひとりは、待ち人が来るまでその世界に入れないような……。

 暗い思考を振り払うようにぶんぶんとかぶりを振ったときである。

「!」

 突然、温かいものが頬に触れた。

「おっそーい!」

 言って振り向いた私の視界に入ったのは、見知らぬ人だった。しかも男性である。

 頬に当てられているのはミルクティー。

「あのう?」

私がおずおずと言うと、その人はにっこり微笑んだ。縁なしの眼鏡の下には優しい目。

私は。その笑顔につられるように、

「いただきます」

 とミルクティーの缶を手に取った。その缶は私の手をじんわりと暖め、一口飲むと、温かいミルクティーが喉を通って胃を温めてくれるのが分かった。私はなぜだかほっとした。

「人待ちですか?」

 彼は耳に心地よいテナーの声をしていた。

「はい」

「僕もなんです。隣に座ってもかまわないかな?」

 彼は言ってまたにっこり笑んだ。寒さが和らいでいく。きっとミルクティーだけのせいではないだろう。彼は春の空気をまとっているかのようだった。

 私は知らず知らずに頷いていた。

「ありがとう。じゃあ、座らせてもらうね。僕はよくこの公園に来るんだけれど、冬のここが一番好きだな。静かで、なんだか落ち着く。寒いけどね」

 私は少し驚いて彼を見た。何もない冬の公園。寂しいだけの公園。この人はそれが好きだと言うのか。

 彼は、そんな私の顔を見て楽しげに笑った。

そして、指を指す。

「ほら、木がたくさんあるよね。よく見て。葉はないけれど、枝は細いけれど、真っ直ぐと風に耐えていて、強さを感じない?

冬は何もないからこそ、逆に見えてくるものがあると僕は思うんだ。近くに人がいるときは、人の温かさが分からないのと同じように、普段は見過ごしてしまうことって多いと思うんだよ」

 彼は綺麗な目をして静かに語った。

「ここへはよく来るんですか?」

 また私のほうを向いて言った彼に、私は、「は、はい」

 と頷いた。友人とのよく待ち合わせする場所なのだ。

「好き?」

「そうですね、なんとなく」

 私の返答に彼は嬉しそうに笑った。それがなんだか眩しくて、私は恥ずかしくなって俯いた。

「そのまま、目をつむって、耳をすまして。

風の音、車の音、鳥の声、羽ばたく音……」

 彼がゆっくりと言葉を紡ぐ度に、私の世界は広がっていった。まるで知らない空間にいるみたいだ。

 ゆっくり目を開けると、見慣れた景色が新しく見えた。彼は相変わらずにこにこ笑っている。

「今日は曇りだけど、空もまだ綺麗なんだよね。世界も捨てたもんじゃないと思うよ」

 私は素直に頷いた。


 彼の目にはとても多くのことが映っているのだろう。私にとって些細なことが、彼の目を通すと素晴らしいものに見えているに違いない。私は大切なことを見落としているのかもしれない、と思った。忙しいからなんていい訳だ。時間に支配されて息を切らしているのは事実だけれど、時間があると逆にそれを持て余しているのも事実だ。何でもそうかもしれない。「しよう」と思えばできることばかり。「できない」のではなくて「しようとしない」だけ。

 耳元で風の鳴る音がして、私は我に返った。

「風が強くなってきましたね」

 彼はそう言って、空気を嗅ぐような仕草をした。そして、

「ちょっと待っていて下さい」

 そう早口に言うと、走って公園を出て、すぐ前の横断歩道を渡って、どこかへ行ってしまった。

 私はまた一人になった。風はますます強くなるばかりだ。冷えた髪が頬を叩いて痛い。落ちている空き缶が耳障りな音をたてて転がっていく。落ち葉にいたっては、空へ吹き上げられるほどだ。

 こんな日に待ち合わせするんじゃなかったなあと、少し後悔する。でも。

 眼鏡をかけたあの人の笑顔が浮かんだ。

(まあ、いっか)

 私はそう思って、彼がしたように、空気の匂いを嗅いでみた。

(あれ?)

 知っている匂いだと思った。なんの匂いだろう。

 目を閉じてもう一度嗅ごうとした、私の鼻の頭に何か冷たいものが落ちてきた。

(そうか!雨の匂いだったんだ!)

 かなり雨粒が大きい。どこか雨宿りをするところ……と辺りを見回していると、あの人が帰ってきた。

「やっぱり降ってきちゃいましたね」

 と、彼は手にした傘を開いて私に差し出した。そして、少し恥ずかしそうに笑って言った。

「手持ちのお金が少なくて、一本しか買えなかったんです。……入れてもらえると有り難いんですが……」

「そんなこと! あなたの傘なんですから、当然じゃないですか。私こそすみません。見ず知らずの私に……。本当になんてお礼を言ったらいいのか」

 慌てて答えると、

「いえいえ」

 と、彼は笑い、

「僕が寂しかっただけなんですから」

 と言った。

 かくして、私は雨の中の公園で、初対面の人と相合傘なるものをするという奇妙な体験をすることとなった。雨が本降りになると、風は幾分か治まった。静かな青い時間が私たちを包んでいた。雨音までもが優しく聞こえる。

「お友達、雨にぬれてなければいいですね」

 友人の家からこの公園までは、距離があるが、途中に何件もの店があるので大丈夫だろう。

「どこに行く予定なんですか?」

「新しい本屋ができたと聞いたので……」

「ああ、あの大きな。

きっと通り雨です。止みますよ」

 彼の言葉通り、雨は小降りになり、やがてあがった。

 公園にできたたくさんの水溜りには、雲の隙間から見え始めた青空が映って、きらきらと光っていた。

「雨の後は、いつもより太陽が愛しくなっちゃうなあ」

 彼は目を細めて空を見上げると言った。先刻の寒さが嘘のようだ。陽の光がゆっくりと染みとおって体を温めていく。冬の太陽がこんなに愛しいなんて、知らなかった。私は、無防備に伸びをしている、年上の彼を見た。新鮮だった。

「あ、お友達みたいですよ」

 彼の声に、少しびっくりして、彼の視線をたどると、私の待ち人が駆けてくるところだった。

「ごっめーん」

 息を切らしてやってきた友人に、私は、

「おっそーい」

 と返事をした。だが、この時間が終わることをちょっぴり残念に思った。私は彼に向き直って、

「ありがとうございました」

 と深々とお辞儀をし、傘を返そうとした。

「それ、あげます」

「え、そんな」

 慌てる私に、彼はまたにっこりと微笑んだ。その笑顔を見ると私は何も言えなくなってしまった。

「……いただきます」

 私は始めのミルクティーよろしく、傘を受け取った。そして、彼にもう一度お辞儀をして、友人のほうへ駆け寄った。彼は笑いながら手を振っていた。

「誰?」

「うん? えーっと……」

 友人が不思議そうに聞いてくるが、私は返答に詰まってしまった。彼のことは全く知らないままだ。名前さえも。

 私が彼のほうを振り返ると、彼は私たちとは反対の方向に歩いて、公園を出て行くところだった。

(あれ? 彼はもしかしたら……)

 私は相変わらず、人を待つ役回りが多い。しかし、その時間が私は嫌いではなくなった。読書にふけったり、季節の風景を楽しんだり。たまにはそんな時間があってもいい、と今では思うのだ。

 そして今日、私は約束もしていない人をあの公園で待っている。

 天気は晴れ。でも手にはあの傘。私に多くのことをくれたあの人。今度は自己紹介から始めよう。

                       了

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