第28話 霜降り――収斂する記憶、その先にカラス

 ハナは目を覚ました。いつもより随分と早い時間だった。レースのカーテン越しに、夜明け前のうっすらとした光が差し込んでいる。

 いつも朝起きるのは苦手で、枕から頭を離せないところをムニンの嘴攻撃でつつき起こされるだが、今日は目覚めた瞬間から頭のなかはすっきりとしていた。上半身を起こして視線を上に向けると、天井近くのとまり木にいるムニンと目が合った。金色の瞳でじっとハナを見て、それから羽を広げてベッドの上まで滑空してやって来る。

「おはよう、ムニン」

 ハナはいつものように挨拶して、ムニンに右手を差し出す。ムニンはぴょんぴょんと毛布の上を跳ねてハナの手元へやって来ると、手首に脚を載せた。ハナは手を持ち上げて、ムニンと目線を合わせる。

「いろんなことを思い出してたよ」

 額縁に収められた古い写真を眺めていると、まるで記憶の奥底の蓋が開けられたように、いままで忘れていた出来事が一辺に頭のなかに溢れてきた。戦争の始まり、魔女になったときのこと、終わらない悲惨な日々、そして終戦……。それは当時まだ十代半ばだったハナには重すぎる出来事の連続で、頭の防衛本能が、忘れることでハナを守ろうとしたのだろう。

 記憶の蓋が開いたことで、すべてをまざまざと思い出せる。夜空を降下するときの身を切る寒さ、眼下の街を焼いたときの炎の熱さと灼熱の匂い。仲間たちの笑い声と悲鳴が、記憶のなかで圧縮されて、折り重なって木霊する。二百年というフィルターを通してようやく、ハナはそれを冷静に受け止めていた。

「あなたはわたしの半身だった」

 記憶のなかの魔女は、誰も使い魔を連れていなかった。当時は引き離されていたのだ。

「わたしは、あなたを供物にして魔女になる資格を得たんだ」

 それはまだ魔女になる前、ハナには姉妹のように過ごした大切な存在がいた。恐らく姉妹だった、それも双子の。けれど、ハナの記憶は曖昧で、彼女が自分とどういう繋がりだったのか、血縁だったのかどうか、それを判断する情報が欠けていた。幼い頃の記憶とは概してそういうものだろう、身近にあるものが当たり前すぎて、それにわざわざ名称を与えて差別化などしないものだ。

 彼女と一緒にいた最後の記憶は、燃え盛る故郷の町での出来事だ。

『大丈夫、ずっと一緒にいるよ』

 その日、ハナと彼女の住む小さな町は空襲を受けて火の海になった。怯えるハナにそう言って彼女は手を繋ぎ、二人は燃えて崩れる家のなかから命からがら逃げ出した。しかし、狭い路地を抜けて近くの森のなかへ逃げようとしたところで、彼女が倒れ、そこに路地脇の家の屋根材が落ちて彼女を生き埋めにして、彼女の一歩後ろにいたハナだけが助かった。ハナは散々泣いて、手を握って彼女の名を呼び続け、そして意識を失ったのだと思う。気が付くと周囲は廃墟に変わっていて、そして、あの人が立っていた。

『おまえは幸運な子だ』

 町一つが焼けたあとだというのに、その声は楽しげですらあった。ひたすら不快に思いながらも、ハナはもう動けず、文句の一つも言い返せない。

『魔女になるための備えと、そして供えを持っている。喜ばしい。希有なことだ』

 その言葉の意味を、ハナは魔女になってからもあまり理解していなかった。

 魔女になる資格は二つ。一つはなにかを強く願う力、想像力。もう一つは、代償として差し出すことのできる命。

 ハナは、双子の姉妹を供物に捧げて、命を繋ぎ、魔女になった。

 供物となった命は人間の体を失い、魔女の命の一部である使い魔として再生する。では、彼女たちは魔女が前線に出ていたときは一体どこにいたのか。

「使い魔は、魔女を隷属させるための手札にされていたんだろうね」

 当時、使い魔の存在は魔女から隠されていた。強力な破壊兵器である魔女が万が一叛意を起こした際、使い魔を害することで本体である魔女に致命的なダメージを与えることができる。だから彼女たちは、どこか秘匿された場所に隠されていたはずだ。

 終戦後、ハナの元へムニンが現れたのは、二人を隔てるなんらかの障壁が取り払われて、ムニンがハナの元へ戻ってきたのだった。

「ごめんね、ムニン。いいえ、もう名前も思い出せないけれど、わたしの大切な人……。わたし、あなたを犠牲にしたことさえ忘れていたんだね……」

 ムニンは全部覚えていたのだろうか。覚えたうえで傍にいてくれたのだとしたら、彼女の気持ちはいかばかりだろう。二つだった命は一つになって、彼女は自由を失ってハナの一部になってしまった。

 ムニンはじっとハナを見ていた。金色の瞳は瞬きもしない。そこになにかの感情を読めないかと、ハナがムニンに顔を近付けた、そのとき――、

「いっっっっっっったぁぁぁぁああっ!!!」

 ムニンの太く立派な嘴が、ハナの額にめり込んだ。ハナは思わず、手に載ったムニンを追い払うように両腕を大きく振り回した。ムニンは腕の攻撃をすべてかいくぐってしれっと枕元に着地すると、嘴で置き時計を指し示す。夜明けの時間だった。

 シリアスな気持ちを妨害されたハナは、しばし呆然とムニンを見下ろして、それから溜め息をつく。

「はいはい、仕事の時間だね」

 そうだ。ムニンとはもうずっとこういう生活をしているのだ。二百年後に突然昔のことを思い出してセンチメンタルになるよりも、二百年続けてきた生活を続けることのほうが、きっと、ずっと大事だ。

 ハナはベッドから出ると、いつものように身支度を整えた。

 視界の端に、本棚に立てかけた額縁が映る。写真をどこかに飾ろうかな、と少しだけ考えてから外へ出た。



「さぁむぅぅぅ……ずっと家にいたいねぇ、ムニン」

 玄関扉を開けた瞬間、ハナは首を引っ込めて鼻先までマフラーを持ち上げた。今日はまた一段と寒い。湖の向こうに見える森の景色が、靄で霞んでほとんど見通すことができなかった。時間が凍ってしまったような、静かな朝だ。

「あ、霜が降りてる」

 朝靄だけが景色を白く見せているのではなかった。茶色や黄色、ところどころに緑の見える地面の上をびっしりと、白く繊細な綿のようなものが覆っている。

 それは紛う方なき、冬の訪れだった。

 秋と冬のあわいの季節が、終わる。

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