019 ランディの覚悟

 ふと、誰かの声が聞こえた気がして、ランディはゆっくりと意識を覚醒させた。明かりを消した部屋は暗く、窓から差し込む宵月の光が室内を照らし出す。


 しばらくそのまま天井を見上げ、


「……腹減ったな。っていうか身体中が痛い」


 全身に鈍痛が残り、少し動くだけで軋みを上げている。直前にあった状況を思い出そうとして、


「……あぁ、俺が馬鹿しただけか」


 訓練で全身に打撲を負ったランディは、介抱される形で自室に寝かされていたのだ。そのまま今日一日起き上がることができず、結局いつの間にか寝てしまったらしい。当然、その間は何も口にしていない。


 これで空腹と鈍痛の原因は把握できた。では――腹部に感じるこの重さはなんなのだろうか。

 

 痛みを堪え、ランディは微かに首をもたげる。


 布団の上から感じる微かな体温に、すぅ、すぅ……と聞こえる規則正しい呼吸音。辛うじて伸ばせた指先が何か温かな、さらさらとしたものに触れた。


 闇に慣れた視界に映るのは、よくよく見知った少女の髪を下ろした後ろ姿。それは、椅子に座ったままランディに覆い被さって微睡むレイチェルだった。


「っ⁉︎」


 咄嗟に体が反応したものの、小さな呻き声で辛うじて堪えた。思考が一気にざわめき、全身がカッと熱くなる。慎重に深呼吸を繰り返し、跳ねる鼓動を必死に沈静化させた。


 緊張を紛らわすために、寝台の横に置いてあった水差しから中身を一口。乾いた口を水分が潤し、思考が幾らか落ち着きを取り戻す。


 自身の体が痛まないように、それ以上に少女を起こさないように。ランディは細心の注意を払って、己の身をゆっくりと起こす。


 見れば、ベッドの脇には水を貯め込んだタライと掛けられたタオル。自身の寝間着の合わせが乱れていること、体がスッキリしていることを加味すると――


「もしかして、体を拭いてくれていたのか……?」


 その考えに至ったとき、ランディは先程以上に頬が熱くなるのを感じた。同時に、胸の中に芽生えた感情に気が付く。温かくてくすぐったくて、心地のいい感情だ。


 なんとなしに頬を掻き、引き攣った表情で手を伸ばす。恐々とレイチェルの頭に手を乗せ、少女を起こさないように優しく撫でる。


「……前にもこんなことがあったな」


 微かなきっかけを頼りに、過去を思い起こす。三年前、街が襲われたときの、忘れられない記憶だった。



  §



 ランディの両親はアルギュロスの隊員だった。彼らが防衛に出ていた折、自分たちの居住区の外壁が崩壊。フォボスが雪崩れ込んできた。


 破壊される街々。逃げ惑い、力尽きる人々。その死体を食い散らかす、蒼銀の異形。


 砂礫が宙を漂い、同時に死の匂いを運ぶ。周囲から聞こえる喧騒と、目の前にある静寂が歪に入り混じる。どれもこれも、生まれてこの方ランディが対面したことのない、まさに異界の空気だ。


 その中を逃げて彷徨ううちに、良く見知った人たちを発見する。隣の家に住む、幼馴染の両親の――喰い散らかされた無残な姿。


『――おじさん、おばさんっ⁉』


 すでに助からないだろう傷を負い、それでも微かに、男性の方には息があった。思わず駆け寄って何とか助け起こす。その男性の瞳に光が戻った。


 微かな、本当に微かな笑みを浮かべ、震える指で一角を指差し、


『…………たの、む……』


 それが、彼の最期の言葉だった。


 力の抜けた重い体躯を横たえ、視線を崩れた露店のテントへと向け――


『レイチェルっ⁉』


 全身を土煙で汚し、うつ伏せに倒れる少女。その背中に走る真一文字の傷からは、止めどなく溢れる赤い雫。びっしりと浮かぶ脂汗に、苦し気な呼吸音が微かに漏れ出ている。


 だが、それでも、少女にはまだ息があった。


『……俺が絶対に助ける』


 レイチェルを背負ったあとに少女の両親をチラリと仰ぎ見、決意を口にする。


 とは言ったものの、現在地は死地そのもの。危険を回避して医療機関まで少女を連れて行くのは、ほとんど不可能だ。無力な自分に何ができるのか。必死に考えを巡らせたランディは、ふととある噂話を思い出す。


 ここから近い、街外れにある施設に住んでいるという、毒竜と呼ばれる魔女の存在。


『そう言えば、魔女の噂を聞いたことがある。その人の力を借りればもしかしたら……』


 悩む内に、背負う少女の口から聞こえる呻きが徐々に小さくなる。


『くそっ、迷ってられねぇ!』


 幼馴染の少女を助けたい一心で、ランディは不確かな噂話に望みを懸けた。足の向く先は、普段人が寄り付かない古代文明の施設跡。


 そして対峙したのは、街で最も恐れられている存在――ヒュドラと呼ばれる少女だ。


 今でこそ普通に接することができる。しかし当時は目を合わせるだけで、心臓を鷲掴みにされるような恐怖を抱いたものだ。


 その震える声を、竦む体を、怯える心を叱咤し、ランディは吠えた。


『アンタがヒュドラかっ!? アンタの血には人の傷を早く治す効果があるんだろっ⁉ 図々しい頼みなのは承知している。でも、俺たちを、せめてこの子だけでも助けてくれ!』

『……それは、意味を理解して言っているのですか』


 想定外に涼やかな声に思考が止まるも、背負うレイチェルの呻きではっと我に返る。


『分かっている、つもりだ。生き延びたとしてもアンタと同じ道を歩むことになるってことだろ。そしてレイチェルにも、この子にも同じ道を歩ませることになる』


 魔女と契約したものは、自らがその眷属になり下がる。だが同時に、ランディは己の弱さを自覚していた。


 実際にこの場に来るまで何度も異形に襲われ、必死に少女を庇い続けた。結果、ランディ自身も動くのもやっとというほどの負傷を負っている。


 それでもここまでやってこれたのは、レイチェルを助けたい一心でのこと。


 足は力尽き、ふたり分の体重を支えられずその場にしゃがみ込む。しかしその瞳から放つ意志だけは死に物狂いで保ち、


『俺は弱いっ‼︎ 正直、化け物に襲われても逃げるだけで精一杯だった……。そんな弱い俺だけど、レイチェルを……助けたいんだ。だから!』

『……決意は固いようですね。ですがこの先は一方通行です。後戻りはできません。それに、わたしの因子は絶対ではありません。貴方たちが確実に助かる保障はありませんよ』

『――それでも可能性があるんだったら、頼むっ‼︎』


 死力をふり絞った、悪魔との契約。


 これはランディが、レイチェルと共にヒュドラの因子を取り込んだ頃の話だ。結果としてふたりは助かったものの、それまでの過程は端的に言って半生半死だった。


 フェルトの言葉通り、因子には適応率が存在する。ランディのそれはいいとは言えず、レイチェルよりも適応に時間がかかったのだ。


 文字通り己の体質を書き換える、全身を常に炎で炙られ続けるような終わりのない苦痛。碌に食事も喉を通らず、ベッドの上で苦痛に耐えるのみの日々が続く。


 一歩も動けなかった約三ヵ月の間に、防衛に出ていた両親の死を知らされて、弱まっていた心が折れたこともある。


 そんなランディの支えとなってくれたのは、外ならぬレイチェルだった。


 先に回復し、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた少女には感謝してもし足りない。それを当の本人に伝えると、こちらこそ命を助けてくれてありがとうと返ってくるのだ。


 自身も悲惨な目に遭い、両親を喪ってなおこちらを気遣ってくれる、少女の優しさ。


 思えばその頃から、ランディの中でレイチェルという存在が変わっていったのだろう。幼馴染という存在から、一人の大切な女の子へと。



  §



「ううん……」


 回想に浸っていたランディは、レイチェルの身動ぎで我に返った。起こしてしまったかとヒヤリとしたが、少女が目覚めた気配はない。


 ほっと一安心して小さく息を吐く。相変わらず規則正しい寝息を立てるレイチェルを撫で続け、


「なぁ。俺はお前を守れるほどに強くなれたのか?」


 ヒュドラ・ブリードになってから、ずっとそれだけを考え続けてきた。大侵攻で両親や友人を大勢喪ったランディにとって、レイチェルは残された希望だ。今や少女を守り続けることこそが、己の存在意義と言っても過言ではない。


 だが、そんなランディは――余りにも無力だ。


「模擬戦ではアイツに……カーレルに惨敗するし、任務のときはお前を危険に晒しちまった。昨日に至っては調子に乗ってズタボロにされたんだぜ。情けないったらありゃしない」


 言葉を切り、カーレルに言われたことを思い出す。自身の中の――伝えられる想い。


「――でも、お前を守りたいって気持ちだけは誰にも負けない。……面と向かって言うのは小っ恥ずかしいけどな」


 こういう状況でしか口にできない情けなさに、内心で呆れ返る。


「だから、もうちょっと待っててくれ。俺が胸を張って、お前の隣に立てるようになるまで。……だーっ。まだ本調子じゃないし、今は寝よう」


 名残惜し気に、そっと少女の頭から手を離し、


「おやすみ、レイチェル」


 そうやって横になり、再び寝入ったランディは――最後まで気がつかなかった。


 髪に隠れた少女の耳が、真っ赤に染まっていることに。規則正しく聞こえる呼吸の下で、少女の鼓動が早鐘のように躍っていることに。何かを叫びだしそうな衝動を、唇を噛むことで必死に堪えていることに。


 そして――


(――待っててあげる。だから早くしなさいよ、ばかランディ……)


 静寂な部屋に消えた、少女の甘やかな囁き声に。

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