005 悪夢

 ――夢を、見ていた。


 幼い頃から繰り返し見続ける、仔細まで覚えきってしまった夢。自分という存在が、温かな家庭を壊してしまう――悪夢。


 五歳の頃まで、少女は普通の子供としての生活を送っていた。


 幼いながらに整った相貌と見事な金髪、そして――母親譲りの瞳。愛情を持って育てられ、近所の子供たちとも交友があった。


 そんな平穏が崩れたのは、少女の特異体質が判明したときだった。


 きっかけは、友達との些細な喧嘩。傷を負って感情が極端に昂ったとき、流れ出る少女の血が蒼銀に輝き出したのだ。


 街へと襲い来る異形を彷彿とさせる、不気味な輝き。普通の人間では起こりえない、異常な現象だ。


 噂は瞬く間に伝搬し、以来少女の傍には誰もいなくなった。友人、理解者、頼れる大人――あまつさえ両親すらも気味悪がって近寄らない。衣食住こそ保証されていたものの、異物として敬遠される孤独な日々が続く。


 穏やかだった、家庭の崩壊。


 独り引き籠る暗く狭い部屋には、連日のように父親の怒声が響き渡っていた。


 ――どうしてあんな気味の悪い子供を生んだのか。

 ――そもそも俺の子供なのか。

 ――お前がどこの誰ともわからない輩と作った子供ではないのか。

 ――もしかして、あの異形どもと交わったのではないか。


 なじられ、父に捨てられた母が自ら命を絶ったのはそれから間もなくのことだ。むしろそのときまでよく持った方だと、当時の少女は憔悴しながらも達観していた。


 娘にのしかかり、狂気を浮かべる母の手元でナイフが閃く。己が首筋に刃物を突き立て、びくりと跳ねた女の身体。


 少女に流れるものとは違う純粋な紅の雫が、シャワーの如く降りかかる。


 大量の血を流して息絶えた、物言わぬ亡骸。生気なきエメラルドの瞳に映る自分の顔が歪み、


 ――お前なんて、産まなければ良かった。



  §



「――――っ⁉︎」


 荒い息を吐いて、フェルト・ハーティルは夜中に目を覚ました。


 自身の部隊が接収した――隔離された施設にある自室。窓から見える宵月ニュクス・セレーネが照らす、静かな夜だった。


「はあっ、はあっ……」


 全身にびっしりと浮かぶ、玉のような汗。乱れる呼吸を、シーツを握りしめることで辛うじて整える。


 最初の頃はさらなる過呼吸や吐き気にも苦しめられた、毒竜への呪詛。夕食を摂っていたら、不快感はさらに酷かっただろう。


 あのとき浴びた血の生暖かさを思い出すようで、肌に貼りついた夜着が気持ち悪い。


 たまらずベッドを飛び出して全てを脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿となる。そのまま備え付けの浴室へと駆け込み、シャワーの蛇口を捻った。


 薄闇の中に浮かび上がる――消え入ってしまいそうなほどに儚くも幻想的な、白。その表面を、元奏機関で生成された温水が柔らかくなぞってゆく。


 濡れそぼった金の長髪から華奢な肩に垂れた雫。それが、鎖骨から続く柔らかな膨らみに沿って床に跳ねる。しなやかで艶やかな曲線を伝い、まとわりつく淀みが排水溝へと流れてゆく。


「はぁ……」


 響く水音の中、壁に手をついた体勢で呼吸を落ち着けたフェルトの紺碧が鏡を捉えた。


 瑞々しい体躯には、体質のためか傷一つ見当たらない。生まれてから見続けてきた体。そして体内に流れる特異な血も、その一部に他ならない。


 変化があったとすれば、年相応に成長した体と、徐々に変色していった瞳の色だろうか。


 蛇口を閉め、姿見に映った虚像を睨みつけ、


「……わたしなんか」


 幾度も吐いた怨嗟の声が、漏れ出る。


 フェルトを――異端の存在を産んだせいで母は父に捨てられ、狂い、命を絶った。怨めど呪えど、過ぎた時間は――喪われた命は、戻らない。


 やがて部屋の扉が控えめにノックされて、


『フェルト隊長、大丈夫ですか……?』


 向こうから語りかけてくるのは、隣室のレイチェルだ。


 フェルトが悪夢にうなされて起きる夜は、幾度も幾度も繰り返されてきた。その都度気にかけてくれる、心優しい少女の声。


 風の術式で粗方の水分を飛ばし、脱衣スペースに用意しておいたガウンを身にまとう。


 部屋のドアを開け、所在なさげに立っていた少女と対面し、


「レイチェル……ごめんなさい。また起こしてしまいましたね」

「……いえ、私もなんだか眠れなくて」


 はんなりと笑いかけるレイチェルが両手を広げ、フェルトの頭を優しく胸元へといざなう。


 夜着が濡れるのにも構わず洗い立ての髪に顔を埋めて、


「やっぱり、フェルト隊長いい匂いがします」


 そんな優しい言葉をかけてもらえる資格は、自身にはない。


 この身は呪いと血に塗れきっている。あまつさえ、この少女の人生をも狂わせているのだから。


 しかしレイチェルは、そんなフェルトの懊悩おうのうを溶かすかのようにギュッと腕に力を込め、


「フェルト隊長。貴方が自分をどう思っていても、貴方に救われた命がここにあります」


 まるで幼子を安心させるように、言い聞かせてくれる。トク、トクと規則正しい少女の鼓動が、ざわつく感情を鎮めてゆく。


「だから、そんな悲しそうな顔をしないでください」

「……本当に、貴方には励まされてばかりですね」

「私が好きでやっていることですから」


 レイチェル・ディオラ。三年前に起きた異形の侵攻で家族や友人を喪い、自身も死の淵に立った少女。


 そして、初めて因子に順応してくれた〈蒼銀の眷属ヒュドラ・ブリード〉第一席。それまで目的もなく惰性で生きてきたフェルトにとっての、数少ない理解者だ。


 少女の存在にどれほど救われただろう。感謝という言葉では表せないほど、いっそ自身の命よりも大切な存在だ。


 ゆっくりと少女の背に手を回して、優しく抱き返す。


 やがて落ち着いた頃、心地よい腕中を離れて立ち上がり、レイチェルの肩に手を置く。


 翡翠の瞳を見つめ、


「……その優しさをランディにも見せてあげればイチコロなのに」

「――〜〜⁉」


 途端、耳元まで茹だったように赤くなるレイチェル。


 ランディ・クロッツァ。レイチェルの幼馴染で、彼女同様にフェルトの因子を取り込んだ少年だ。


 ふたりが互いを憎からず想っていることを、フェルトはとっくの昔から知っている。同時に、普段の口喧嘩がたたって仲が進展していないことも、重々承知しているのだ。


「べ、別に私はランディのことなんて全然これっぽっちも指先程も爪先程も髪の毛一本ほども何とも想っていませんっ!」


 説得力皆無の言い訳をあたふた重ねる妹分を微笑ましげに見つめ、


まったく、貴方たちは揃って奥手なんですから。言っておきますが、この部隊は任務に支障のない範囲での恋愛は自由ですよ?」

「よ、余計なお世話ですっ⁉︎」

「ふふふ」


 自身とて恋愛経験などほとんど無いくせに、年上の余裕を崩さないフェルト。


 混乱して暴れる少女を一頻り揶揄からかった後、


「本当に落ち着きました。ありがとうございます」


 なお顔を赤らめたままのレイチェルは我に返ってコホンと咳払いし、


「隊長のためでしたら、いつでも相談に乗りますよ」

「であれば、もっとカーレルさんと仲良くしてくれると嬉しいのですが」


 そんなレイチェルへと、フェルトは目下の悩みを伝える。


 案の定、レイチェルは顔をしかめ、


「……それとこれとは話が別です」


 直前まで大人びていた少女が幼子のように拗ねるさまに、フェルトは苦笑した。


「やっぱり、難しいですか?」

「……いまさら他人を受け入れる覚悟がありません。ましてや相手は元アルギュロスです」


 レイチェルは複雑な経緯を経てこの部隊に参加している。それを思えば、この反応は容易に想像できた。


 だが、フェルトは根気強く諭すように、


「彼はもうわたしたちの仲間で、背中を預け合う存在です。何より明日――今日からは任務です。直ぐにどうこうとは言いませんが、せめて歩み寄りの姿勢は見せてください」

「……はい。努力、します」

「お願いしますね」


 不貞腐れたようなレイチェルの頭を撫で、フェルトは遠い過去の出来事を思い出す。


 こちらの変化に気付いたであろう少女が小首を傾げ、


「どうしました?」

「いえ、わたしが幼い頃、頭を撫でられたことを思い出しまして」


 母を喪った直後だろうか。疎まれるだけだったフェルトに優しい声をかけてくれた、自身より幾らか年上の少年がいた。


 面差しは逆光で覚えていない。しかし共に見た光景と、溌剌とした少年の金髪は今でも記憶に根付いている。


「例の、初恋の男の子ですか?」

「はい、その彼です」

「その、あれ以来情報は……」


 緋髪の少女の言葉に、金の髪が左右に揺れる。


「貴方も知っての通りです。それに、あちらもわたしのことなんてとっくに忘れているのではないでしょうか」


 幼少期にあった、少年との邂逅。フェルトにとっては大切な想い出の一幕だが、相手からすれば違うのではないか。そんな負の感情が、少し晴れていた心を徐々に蝕んでゆく。


 なぜならその少年は――フェルトのせいで意識を失うほどの怪我を負ったのだから。

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