第7話 不気味な来訪者

 神主の朝は早い。


 社務所受付時間は八時からだが、それより前に掃除や朝のお勤めを済ませなければならないから、基本的に五時起きだ。

 けれども「四時二十分」という時刻が気になって、いつきは四時十五分に目を覚ました。


 隣の部屋から、かすかにカチャカチャという音が聞こえた。鈴がまだゲームをしているようだ。康博を見つけることはできたのだろうか。


 トイレに行って戻ってくると、鈴の部屋のドアが開いた。

「あー……お姉ちゃん、おはよー」

 けだるいを通り越して疲れ切った声だ。


「おはよ。ずっとゲームしてたの?」

「うん。……高校のときは徹夜も平気だったのに、もう歳かな。ねむー」


 二十歳の鈴が「歳」なら、二十四歳のいつきはどうなるのだ。百年の恋もさめるような顔で大あくびをする鈴に少々あきれながら、本題に入る。


「で、康博くん」

「うん。何とか探して、一緒に世界征服してた」


 やった。天岩戸作戦成功だ。


「でも、なんかもう起きる時間だから散歩に行くって言って、さっき落ちたよ」


 やはり、この時間に起きることは決められているらしい。


「何か話した?」

「ううん。警戒されてるだろうから、聞き出すようなことはやめといた」


 そううまくはいかないか、と溜め息をつく。


「でも、もしかしたらうちに来てくれるかも」


 前言撤回。案外うまくいくものかもしれない。


「ほんと?」

「わかんない。でも、イベントに出す同人誌が間に合わないから、トーン貼りとベタ塗り手伝ってって泣きついといた」


「何それ、方便?」

「半分はホントだよー。切羽詰まってないけど、年明けのイベント合わせで本出すし」


 高校時代は漫画研究部だったこともあり、鈴は今でも同人誌を出しているようだ。時折、ポップなロゴの印刷所名が書かれた、重い段ボール箱が届く。


「なんで今どき紙原稿なんだって怪しまれたけど、あたし実際、ペン入れまでは紙派なんだよね。漫研時代、学校ではパソコンで描けないからずっと紙使ってて、その癖で。デジタル化した先輩たちからトーンたくさんもらったんで、全部アナログでも問題ないし」


 鈴が再びあくびをする。

「ま、そういうわけなんで、あたしは寝るね。おやすみー」


 鈴の部屋のドアが閉まる。


 漠然と「手伝って」と頼まれたところで、疎遠になっていた異性の知人の自宅に、引きこもり男性が訪ねてくるとは思えない。じわじわと心を開いてもらうにしても、間に合うのだろうか。


 考えながら、いつきは浴室へ向かう。

 お務めの前には潔斎が必要だ。大きな神社なら潔斎場があるが、穂積教本院くらいの規模なら自宅の浴室で代用することが多い。


 十月下旬ともなると朝は寒い。長い髪をヘアバンドでまとめ、手早く裸になると、浴室で熱めのシャワーを浴びる。心身を清めるためのものなので、入浴とは違い石鹸で洗わない。洗い流すのはあくまで概念的な汚れなのだ。


 体を拭くと、白衣に浅葱あさぎ色の袴を着用する。パジャマを自室に置き、渡り廊下を通って社務所へと向かう。すでに父が、神饌しんせんの用意をしていた。


「おはようございます」


 米、水、塩、酒を載せた三方を用意し終えた父が、「おはよう」と答える。朝のお勤めまでにはまだ時間がある。


「開門してきます」


 草履を履いて外に出ると、いつきは夜間は閉めている門扉を開けに行った。重い扉をひとつずつ動かして固定すると、外に出て参道を見渡す。


 誰もいない。玉砂利を踏む音も聞こえない。


 #092では、四時二十分に起きて散歩をすることが課題らしい。

 今は四時五十分。もしかしたら康博かアヤナが来るかも、と期待していたのだが。


 心の目のフィルターをはずして遠くまで探っても、やはり誰の気配もない。

 諦めて、境内に入る。五時から朝拝が始まる。


 父とともに大祓詞おおはらえのことばを唱えているときも、どうしても背後の気配が気になり、いつきは集中できなかった。康博が、アヤナが、来てくれるのではないか、と。


 その日は、できるだけ参拝者に気づけるように気を配った。

 必要以上に参道の掃除をし、父が地鎮祭に出かけたあとも、門や賽銭箱の前が見えるよう社務所から注意していた。物音が聞こえるたびに外へ出たが、隣の家の猫に怪訝な顔をされるだけだった。


 秋は陽が早く落ちる。


 すでに薄暗くなった参道を、いつきは歩いた。そろそろ閉門の時間だ。

 一の鳥居まで来たところで立ち止まり、溜め息をついて、神社へと引き返す。


 ふと、背後に気配を感じた。


 砂利を踏む音もかすかに聞こえる。康博かアヤナかもしれない。

 いつきは、心にかぶせてあるフィルターを取り除き、心の目で後ろを探った。


(男性、二十代前半、細身、……黒い靄)


 背筋が寒くなった。


 自分の体熱を急速に奪われていくような感覚だ。

 この人物は、康博でもアヤナでもない。


 いつきは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


 細身の男性が、こちらへ歩いてくるところだった。


 ベージュのトレンチコートのポケットに手を入れ、背筋を伸ばし、まっすぐにいつきを見据えている。


 彼はいつきのすぐ前まできて、ようやく止まった。

 あまりに距離が近いので、いつきは思わず後ずさりする。


「こんにちは」


 男性が口を開く。喉だけで声を出しているかのような、はかない印象の声だった。


 見かけも、全体的に色素が薄い。あまり黄色人種らしくない白い肌、染めているというより地毛であろう薄茶色の髪、同じく薄いヘーゼルナッツ色の瞳。長いまつげも色が薄く、瞳がくっきりしているのにまぶたの輪郭がぼやけたような、不思議なアンバランスさがある。


「こ……こんにちは」


 いつも参拝者にかけているような台詞が出てこず、いつきはオウム返しに同じことを言うのが精一杯だった。


 彼は薄茶色の眉毛を片方だけあげて、にやりと笑った。おでこの中程の長さに揃えられた前髪が、わずかに揺れる。


「ふうん、女性の神主さんかぁ」


 値踏みするような目つきで、いつきの全身を舐めるように見る。


「真榊いつき、っていうから男かと思ってたよ」

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