002

 賢治が妹の早苗と電話するのは数日ぶりだ。早苗は四年前に授かり婚で結婚をしており、佐藤と名字を改め、今は牛頭畷市に住んでいる。牛頭畷はこの家から車で四十分、自転車で一時間二十分ほどの距離だ。直線距離は近いように思えるが、電車で行くのは少々不便がある。私鉄で一度京橋駅まで出てから国鉄に乗り換えて牛頭畷に向かうか、自転車で三十分弱走って国鉄の竹尾駅に行き、そこから牛頭畷駅まで乗るか。他にも公共交通機関を使ったルートはあるが乗り換えなどが不便だ。

 だから疎遠になるかと言えば、そうでもない。なにせこの便利な土地・牧丘に暮らす坂本家には車もバイクもないのだ。


 両親は父親の退職を機に車を手放した。駐車場の賃料負担や車検代は馬鹿にならないし、さほど頻繁に車で外出することもない。近所のスーパーは徒歩十分の距離、坂は一ヶ所ある程度だ。車がなくとも生活に不便はない。そして出不精の賢治はバイクに興味がないため、ブランド名はおろか有名製造メーカーの名前すら分からない程だ。よって賢治の家に自転車以上のものはない。


 だから、大きな物を買う際や遠方のショッピングモールに行く際などは早苗が足になる。佐藤夫婦は車を所有しているのだ。


「どないしたんや、俺に電話とか珍しいやんけ」


 御用聞きと称して頻繁に家へ電話をかけてくる早苗だが、あえて賢治に電話をかけてくるようなことはほとんどない。前に賢治は庭の草刈り要員を頼まれた際など、賢治はすぐにバテてしまい早苗と子守り役を交代した。混合油のエンジン式草刈り機を自在に振り回す早苗の姿はいかにも強そうだった。

 賢治はあれから妹に頼られた試しがほとんどない。少なくともこの数ヵ月は、賢治が電話に出ても「あ、賢治兄ちゃん? お母さんに代わってくれる?」という会話しかしていない。


「賢治兄ちゃんさ、お父さんとお母さんから聞いたんやけど……テイマーになったってホンマ?」


 早苗は自称ライトオタクだが賢治よりはディープなオタクだ。中学生の時から本棚をラノベと漫画で埋め尽くしており、新婚家庭にそれら全てを持っていった。


「ホンマのホンマや。今日もチョビ訓練してレベルアップさせたわ」

「ウソちゃうやんな?」

「こんなんでウソ吐いてどないするんや。で、どないした。何があったんや」


 早苗は口ごもりながら「あんな」と前置きした。


「和彦がな……ドラゴノイドとか、そういうのになったみたいなんやわ」

「はあ?」


 話によれば、両親との鳥取旅行中から和彦――甥だ――が変なことを言うようになったのだという。僕は恐竜になった、やら、ドラゴンだぞ、だの。はじめは早苗も夫も和彦の言葉を幼児の妄想と考えていたが、四日前、和彦の背中からコウモリのそれに似た翼が生えた。額の左右の端からは突起が隆起し、角のように見えるのだとか。


「ネットで調べたら、アメリカの人で『ドラゴノイドだぜ!』とかいう写真付きの投稿があったんやけど、その人の翼とか角とかと和彦のがそっくりやねん」

「ちょっと待て、今調べるから」

「調べんのは後にして」


 電話口の向こうで、疲れきった声が言った。


「賢治兄ちゃん、その和彦のことをな、相談したいんやわ。明日とかこっちに来れへんか。明日やったら和也さんもおるさかい、あー……うちまで迎えに行くわ。お母さんとお父さんの二人とも……二人ともが無理なんやったらどっちか一人でええわ。あとチョビも一緒にうちに来て」

「あー……わかった」


 面倒事の気配がしたが、賢治は断る話術を持たなかった。


 明くる日の午前十時過ぎ、賢治の家の前に見慣れたミニバンが止まった。ボディーの色が灰色なのは汚れが目立たないからという理由だという。特に車が好きでもない者が必要に駆られて買っただけあって、デザイン性はともかく安全性能が高いモデルだ。どこぞの工務店の車だと言われれば納得するだろう。

 ドアを開けて出てきた早苗の夫、佐藤和也は「私は喧嘩が苦手です」と言わんばかりの柔和な顔つきの男だ。車が着いたとほぼ同時に家からぞろぞろ現れた義父母と義兄を見て和也はペコペコと頭を下げる。彼は牛頭畷を出る前に賢治らに連絡をくれており、戸締まりは玄関を残すのみだ。


「すいません、こっちの都合で」

「いいのよ気にしないで。和彦くんのことなら私たちも手伝えること手伝うわ」

「何かあったんか」

「はい、まあ、あったと言うかこれから起きそうと言うか」


 ぺこりと無言で頭を下げただけの賢治に不快そうな顔をすることもなく、和也は「どうぞ」と言いつつ後部座席のドアを開ける。三列シートの二列目に固定されたチャイルドシートに賢治の甥っ子、和彦が座っていた。

 和彦は早苗に似て額が広く、身内贔屓を差し引いても、幼いながら利発そうな造作の幼児だ。そろそろ四歳になる。


「じいじばあば、おはよー」

「おはよう和彦くん」

「元気に挨拶できてええ子やなぁ。おはようさん」

「チョビー! おはよー! おっちゃんも!」

「おはよ、和彦くん。チョビも和彦くんおはよーって言っとるで」


 早苗が両親の買い物の足になる時は賢治が甥と姪の面倒を見ているのだが、この一年近くは甥の相手をほぼ犬に任せていた。姪が生まれてからだが、ミルクの世話やらおしめの交換やらぐずり泣きの相手やらが増えたためだ。お陰で賢治は最近チョビのおまけと化している。

 あふ、と柔らかく吠えたチョビは迷うことなくチャイルドシートの隣に座り、和彦の足に顎を乗せた。見るからに仲が良い。


「賢治、あんたは三列目。私は二列目に座るからお父さんは助手席に行って」


 てきぱきという母の指示に従い、賢治は少々狭くるしい三列目のシートに乗り込む。母はチョビを持ち上げて足下に座らせると、チョビが暖めた場所に座った。


「お義母さんすみませんけど、和彦がお腹すかせてるんでオヤツあげたってくれませんか」

「もちろん」


 前の二列で気安い会話が交わされ、このままのんびりと牛頭畷の佐藤家まで行けるかと思われた。


「下りたい!」

「あとちょっとや、和彦。もうちょっと我慢な。飴ちゃんかグミいるか?」

「いやや! 飴ちゃんいらん! おーりーるー! ここで下りるー!」


 一時間以上チャイルドシートに縛り付けられたままというのは、そろそろ四歳になるという子供には我慢ならなかったらしい。他に通る車のない住宅街に入った――そろそろ家につくという辺りで駄々をこね始める。そして尺取り虫のように胸を反らせ「うー」と唸り両腕に力こぶを作り。


「やめえ和彦!」


 みっちりと家の並んだ住宅街だ。車のすれ違いも困難な道のため当然ながら徐行運転で、急ブレーキをしても衝撃は軽いものだ。


 体にかかる衝撃は小さかったが、心にかかる衝撃は大きかった。


 和也の怒声とほぼ同時だ。和彦の背中から彼のお気に入りのシャツを破いて飛び出たのは――車外へ溢れ出んばかりの大きな翼。鳥類のそれではなくこうもりのそれに似ており、柔らかそうな産毛の生えた皮に覆われている。翼が本人の肌の色ではなく髪の色をしている理由は不明だが、肌そのものの色をしていた場合、生々しく気味が悪いものになっていただろう。

 チャイルドシートは辛うじて壊れていない。和彦の隣に座っていた母はとっさに身を屈めたお陰で難を逃れていた。


「車ん中で変身したらあかん言うたやろ! ばあばに翼が刺さっとったらどないするつもりやったんや!」

「でも……おりる! 下りるもん!」

「和彦! あと十分くらい我慢せえ!」


 振り返った和也は鬼の形相を浮かべていた。普段柔和な人が怒ると怖いと言うが、普段の彼と今の彼はまるで別人のように違う。湿った声で「下りる」と繰り返す和彦に「我慢しろ早く翼をしまえ」と強い口調の和也。

 そこまで怒らなくてもと賢治は言いかけたが、和也の形相にしおしおと口をつぐむ。


「和也さん、私もこうして怪我一つしてませんし、怒らないであげて。和彦くんはまだ四歳だし、ずっと車に乗りっぱなしは飽きちゃうわ」

「うん、お母さんもこう言ってることやし、な? 早苗たちも家で待っとるやろ。はよ帰ったり」

「和彦くん、あと十分だけ車に乗ってよう? ばあば、和彦くんのママに会いたいわ」


 父母が和也を宥める流れに乗り、賢治も手の白い箱を上に掲げる。


「和彦くん、おうちに着いたらケーキがあるよ。おじちゃんがケーキほら、持ってるから。おうちで食べよ。な?」

「……うん。ケーキ食べる……」

「ならほら、翼しもて。和彦くんの翼でばあば狭いなーってなってるから、変身解除しよ、な?」


 どうにか車内が落ち着き、細い道を右へ行き左へ曲がりと山を登った中腹だ。早苗が暮らす家は牛頭畷から氷室池を通り生駒市へ繋がるハイキングコース沿いにあるが、ハイキングコースとはいえ道の両端に家が立ち並んだ市街地の中だ。彼らの新居を建てるにあたり一メートルほどセットバックしたそうだが、元が千数百坪という土地だったため、土地を削った今なお面積が千坪を数える。


 ――早苗の夫、和也の家系はこの土地に昔から暮らす農家だ。和也の両親はサラリーマン生活を選び国内から国外まで飛び回っているそうで、和也は佐藤家の本家である祖父母に預けられて育った。

 つまり、和也は祖父母から目に入れても痛くないとばかりに可愛がられて育った農家の孫ということになる。和也の祖父母は可愛い孫が結婚するからと山の中腹にある古びた別荘を取り壊し、新しい家までプレゼントした――田舎ではよくある話だ。

 母親が常々「農家と長男だけは結婚相手にするな」と言い聞かせていたのだが、早苗は「ええ人やし」「金持ち喧嘩せずって人やもん」「同居になってもまあ、国鉄やけど始発駅やし大阪市内まで電車で二十分の田舎やで。最強やろ」と両親を説得して結婚したそうだ。

 

 どうして賢治が早苗の結婚について詳しいのか。簡単なことだ。子守りを両親に頼むため実家に休養に来ていたとき、早苗がべらべらと喋ったからだ。


「あの家な、広すぎ。庭が広いのほんまきついわ……。雑草がこれでもかって生えよるもん、賢治兄ちゃんも知っとるやろ? せやからチマチマ端からコンクリで埋めてってるんやけど、最初に見映えがええやろと思て砂利敷いたんがなー、アレがあかんかった。隙間から平気で草生えるし、引っこ抜けへんし。田舎の雑草の生命力舐めたらあかんわ。蚊ぁもいつもは猪相手にしとるから、ぶすーって刺してきよんねん。あそこほんまあかんわ。そんで話戻すけど砂利。砂利敷いてしもたもんやからスコップが刺さらんのよ……。せやさかい砂利掘りから始めて土地均して、ソーナンで砂とセメント買ってきてコンクリ練って、コンクリ地面に塗って、次の場所の草抜いて砂利掘っての繰り返し。お陰さまで腕がムキムキやでほら、見てぇや」


 といった話も含め、早苗はわざわざ賢治の部屋に来て喋り続けた。家族だからここまで微に入り細に入り愚痴を言ったのだろう。

 賢治は「日当八千円出す」と早苗に言われてコンクリ敷きを何度か手伝ったことがあるが、コンクリを練るだけで翌日から二日間腰痛、腕や腹筋そして脚の痛みに苦しまされた。つまり合計三日も消費して八千円だ。あまりに時給が安すぎるため賃上げ交渉をしたことがあるが、「あほなこと言わんとって」と切って捨てられた。


 ――賢治らが乗ったミニバンは斜面を上り、駐車場に止まった。家のある場所より一段低い駐車場は車が四台は止まるだろう広さで、屋根も壁もない吹きっさらしだ。そこから階段もしくは斜面を三メートルほど上ったところに庭が広がり、奥の方に一階建ての木造住宅が建っている。下の道路と六メートル以上の高低差がある、大阪市のビル群から遠くは六甲の山々まで広々と見える眺めの良い土地だ。

 地震があった場合にどうなるかは分からないが、洪水による水害や温暖化に伴う海水面の上昇による被害とは無縁だろう。ちなみに牧丘の家は海水面が一メートル上がれば海に沈む。


「チョビ行こ!」


 母がチャイルドシートのベルトを外すや否や家に向かって飛び出した和彦は、器用にも走りながら変身をし横方向に長い翼を広げる。ズボンから飛び出ている黒いものは尾だろう。チョビは和彦に並び駆けていった。飼い主を振り返るといった可愛げのある行動は全くない。


 そして居間でテーブルを挟み向かい合うのは、嫁に行った娘を含む坂本家四人と、早苗の膝の上でもちもちと跳ねている乳児――姪の双葉だ。和也と和彦、チョビは庭で遊んでいる。


「車ん中で見たかな……。和也さん、和彦に今当たり強いねん」

「まあ、そうね……あれじゃ和彦くんをただ怖がらせちゃうだけだわ」


 何か理由があるのかと尋ねた母に、早苗は神妙な表情で頷いた。


「和彦が、和也さんのおち✕✕✕を握り潰しかけてん。二回も」


 賢治の口中にしょっぱい唾が広がる。それをどうにか飲み込み、もつれる舌をようよう動かす。


「二回もか」

「うん。和也さんと和彦が一緒にお風呂に入るのが常やってんけど、三日前と一昨日と……遊びのつもりで握り潰しかけてな。ドラゴノイドになって握力も腕力も、力が強くなってて……加減が利かずに和彦が握り潰したのがこれです」


 早苗がテーブルの上に置いた紙箱の中には、見るも無惨な砕け方をした変身ベルトがあった。子供をメインターゲットとする玩具のため丈夫に作られているはずだが、車で踏んだのではないかと疑うほど悲惨な状態だ。

 いつも笑顔を浮かべている柔和な父の顔もひきつった。


「おもちゃがこれで、お✕✕✕✕二回も握り潰されかけて、双葉がまだこんなちっちゃいやろ。始めは不幸な事故が起きたらどうしたらって心配してたうちを宥めてたくらいやのに、今は和也さんの方がカリカリしてんねん」

「そらそうやろうな」

「これを見ちゃったらね……」


 笑うに笑えない、男として和也の気持ちが分かる。賢治は和也に拍手を捧げたい気持ちで一杯になった。和也はよく我慢している。お前は偉い。


「これから和彦はどんどん力が強くなっていくと思う。でも双葉はまだこんな赤ちゃんやから逃げられへんし、うちがずっと和彦から目を離さんでいるってのは無理。お父さん、お母さん、賢治兄ちゃん……和彦を預かって貰えへんやろか。このままやとうちから死人と過失致死犯が出る」


 勢いよく深く頭を下げた早苗は、その姿勢のまま言葉を続けた。


「賢治兄ちゃんのテイマーってジョブだけが頼りなんです! テイマーは日本語訳したら調教師やから、ドラゴノイドの和彦に力を抑えるように躾られるんじゃないかと思うんです。とりあえず三日で良い、三日だけ預かってほしい!」


 ――このままでは父子関係に亀裂が入る。家で人死にが出かねない。切実な理由だ。

 テイマーなら力加減を躾られるのではと、早苗がすがりたくなるのは当たり前だろう。ゲームやラノベにおいて、テイマーはスライムからドラゴンまで支配し、使役している。モンスター娘などもテイムの対象であるという話もまま見られる。


「もし事故起きても責任取れへんぞ」

「委任状書く。賢治兄ちゃんがチビッ子を故意に傷つけるような人とちゃうのはうちも和也さんも知ってるし」


 真剣な顔で頷く早苗に、賢治はゆっくり頷きを返した。


「……俺はええよ。和彦くん預かったってもええ。でも親父とお袋はどないなんや。和彦くん預かんのは賛成か反対か」

「お母さんは預かって良いと思うよ。和也さんも今は潰されかけたばかりだからカッカしてるけど、少し時間を置けば落ち着くだろうし」

「お母さんがええならお父さんもええよ」


 娘も孫も可愛い父母は反対せず、ただ、何かあっては困るからと委任状を作成することになった。賢治らが和彦を監督している間に和彦が怪我をしても、坂本家は責任を負わない。ただし免責されるのは全治二週間の怪我までに限り、それ以上の怪我を和彦に負わせてしまった場合はその治療費の全額を負担する。


 判子を持っていなかったため賢治は拇印を押した。


 ただの気のせいかもしれない――しかし、賢治と和彦との間に何かしらの縁が繋がったような気がした。掃き出しの窓から見える庭でチョビと追いかけっこをしている甥の姿を見ながら、賢治はもやもやとする胸元を掻いた。

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