夜を這う手

白木奏

第1話

 寝返りを打って壁に向くと、ちょうど目の前にある。

 見慣れた形の何かが壁から生えている。微かにくすんだ鈍色の光を放ち、暗闇に馴染んだ目に少しまぶしく見える。


≪ああ、今日も来てたんだ≫


 アルコールのもたらす心地よい酩酊感に浸りながら、磐田はぼんやりとした頭で考えた。


 壁から奇妙なものが生えているのが見えるようになったのは、いつからだったろう。

 車事故で妻を失い、現実味がないまま葬式を執り行った夜からかもしれないし、上司の汚職事件に巻き込まれ、周りから疑いの目を向けられた夜からかもしれない。

 いずれにせよ、生涯の記憶を焼き尽くせるんじゃないかと思えるほどの酒を流し込んだ日だったことだけは確かだ。

 ベッドに倒れこみ、ぐずぐずになった脳みそが際限なく膨張していく感覚に身を任せていると、漫然とした視線が偶然それを捉えた。

 ちょうど枕の置かれたあたりの壁から、ぼんやり光るものが生えている。

 鼻先から数センチと離れていない場所にあるそれを、身動きする気力を持たない磐田は、ただ見るともなしに見つめ続けた。

 最初は大きめの葉っぱに見えていたが、焦点が定まるにつれ、より明確な形をもって目に映りこんだ。

 人の手だった。


 まっすぐ伸びている人差し指と、手のひらに向けてやや曲がっている四つの指。

 指の先にある丸く膨らんだ爪が、少し青白い。

 目線と大体同じ高さにあるため、下を向いた手のひらは隠れているが、枕をずらして覗きこめば見えるだろう。動くのが億劫で結局そうしなかったが。

 手首より先しかない手は、まるで壁から這い出る途中で休息しているかのように、だらんと垂れ下がっている。


 最初は酒のせいで変な夢を見たと気にも留めなかったが、また酒に酔った別の夜に同じ夢を見て、何度も繰り返していくうちに、そういうものなんだと納得した。

 別段驚きはなかった。

 機械的に進む日常生活に抱く感慨など、とうの昔に失われた。何もかもモノクロ写真のようにかすみ、色あせ、酒だけはふわふわと漂う幸福感を与えてくれた。

 磐田にはそれがすべてだった。


 その手はただそこにいた。

 手に続く本体がずるりと壁から這い出ることはついになく、ものを探す仕草など手らしい動きを見せることもなかった。

 時折思い出したように、指先がぴくっとかすかに震えたり、凝った関節をほぐすように緩やかに曲げ伸ばしたりした。

 まるで微睡まどろみに浮き沈みしているようだ、と磐田は思った。

 微睡はいいものだ。

 熟睡の時のように完全に意識を手放すことはなく、そこへ落ちる心地よさを予感させる魅力で人を酔わせる。

 池の底に沈む滓のような、むせ返る現実の淀みすら軽やかに舞い上がらせ、フィルター越しにつかの間の幻想的な景色を作り上げる。

 その手も、自分と同じ夢に身を置いているかもしれないと思うと、磐田は妙な親近感を抱き始めた。


 味が分からなくなるまで酒を飲んでから布団にもぐり、壁側へ視線を向ける。

 いない時もあるが、手がいると、喜びや悲しみを受信しにくくなった頭は、わずかながら嬉しさに似た何かを感じる。

 じっと鈍色の光を見つめ、それが壁から這い出る様子を想像する。

 先に丸い爪一枚、にじみ出るように壁から現れ、指の腹が壁をさする。

 関節まで見えるようになり、指は部屋の気配を探るように、ゆっくりと関節を曲げ伸ばし、親指以外の四指が揃う。

 揃った四指は音もなく壁を撫でまわり、蝶が蛹の束縛を解くように弱弱しい力を頼りに、奥に潜んでいた手のひらを引きずり出す……

 実際は、手が生えてくる過程など一度も見たことはないが。

 ただそこにいるか。いないか。

 

 寝ていてもやけに鮮明な夢を見るし、目が覚めていても周りの言動がはりぼてに見えるので、現実も幻覚も大差ないのではないか、と磐田は思う。

 最初は、自分の周りにも人がいた気がする。

 憐れむ人や、叱咤する人、ほくそ笑む人、軽蔑する人……

 だが人に頼ることよりも、酒に頼ることを選んだ。

 好意も悪意も空々しく上滑りしていき、気付けば誰もいなくなり、ふわふわした心地よさだけが残った。


≪君だけは、何も言わないのだな≫


 まとわりつくことはなく、ただ気まぐれに現れ、息づくように闇に淡く光る手が、自分に寄り添っているように思えた。

 輪郭も定かではない視界を頼りに、磐田はごく自然にその手に触れた。

 粉雪に触れるような、ひやりとした滑らかな感触だった。

 線を引くように、根っこから指の腹までさする。

 ぷっくり膨らんでいる爪を両側からつまみ、軽く押し込む。

 いつも垂れ下がった指に隠されている手のひらに、くるくると円を描く。

 たおやかな、女性の手だ。

 そうこうしているうちに、惰眠を邪魔されたとでも言わんばかりに、手は起きがけのようにのそりと動く。

 妙に愛嬌あるその動きに、磐田は呻きにも似た笑みを漏らし、泥のような眠りに沈んだ。


 壁から生えている手とのふれあいは、ささやかな楽しみの一つになった。

 夢うつつの中、手と戯れる。

 握る時もさする時も、壊れもののように大事に扱った。

 輪郭をなぞり、感触を確かめる。


 ふとしたきっかけで、その手の指を咥えてみた。

 ひんやりとした冷たさに、舌が条件反射的に引っ込んだのも一瞬で、きめ細かさと繊細さが口の中の粘膜を通じて伝わり、やめられなくなった。

 細長い指を中ほどまで咥えこみ、関節の凹みに歯を当ててあまがみする。

 唇を爪の先に当て、ざらざらと引っ掻かれるように動かす。

 手のひらに顔をうずめ、手首から指の付け根の間まで、少しずつ、丁寧に、舌先で舐め上げていく。

 その手を愛おしく感じるが、別段性的な衝動に突き動かされたわけではなかった。

 ただ子供がお気に入りの飴玉を見つけたように、一度その甘さを知ると、いつまでも口の中で転がしていたかった。


 その手はそこにいるだけで、ひどく慰められた気がした。


 過ぎ去る日常は、雪片のように降り積もっていく。

 ふわふわと舞うかけらは、柔らかく軽やかに見えても、積み重ねれば生き物の体温を奪い、芯をへし折ってしまう残酷さを持つ。

 磐田は降り積もるものをどけ、通り道を作る作業を放棄した。

 ただ骨にしみる寒さが暖かく感じられるまで寝ころがり、雪に埋もれるのを待つばかりで、何かがぽきりと折れる音すらしなかった。

 あるいは思い出せないほどの昔に、とうに折れていたのかもしれない。


 酒がもたらす無音の暗闇の中で、磐田は手を見つめる。

 音が取り除かれた静寂な世界に、鈍色に光る手はどこまでも美しく感じられた。


≪なあ、俺を、連れて行ってくれないか≫


 声は実際に口に出ていたか、心の中でつぶやいただけか、もはや磐田には分からない。

 ただ夜を這う手が愛おしくて、この瞬間を切り取り、永遠にしたかった。

 磐田は、自らの手を差しのべ、壁から出ている手のひらを軽くくすぐり、指の根元から爪の先まで、一本一本丁寧にさすってから、手の甲に添える。

 次に親指と人差し指の間をくぐるように、首を淡く光る掌にあてた。

 手は微睡から起こされたように、ぴくりと震える。

 思いが伝わったようで、磐田は笑みを浮かべ、その手の甲に添えた自分の手に力を入れた。

 その繊細な手を傷付けないように慎重に導き、だけど自らの息の根を確実に止められるように、確実に締めあげていく。

 ぐげっ、かっ、と口から変な音が洩れても他人事に思えて、いっそう強く力を入れる。

 すぐに何も聞こえなくなった。

 淡く光る手が自分の首に絡みつき、命を摘み取っていく様子を脳裏に思い描き、磐田は今までにない幸福感を噛みしめながら目を閉じた。


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