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 あたしは聖堂に行きたいと申し出た。「『神様の葬式』のラストシーンが聖堂だから、参考までに、どんな様子なのか見ておきたい」ともっともらしい理由を伝えると、ババアは分かったのか、分かってないのか、聖堂までの階段を歩き始めた。ときおり後ろを振り返ってくれたから、先導してくれてるんだってわかった。

 教会に行きたいと思ったことなんてなかったのに、教会に行くのは面倒で仕方なかったのに、あたしはどうしちゃったんだろう。

 前の世界と同じような階段を上がりきると、前の世界と同じように、木立のなかに開けた空間があって、一面の芝生の向こうには聖堂が立っていた。聖堂の姿だけは前の世界と違った。前の世界では尖塔も本体もましろい姿をしていて、屋根も近未来的な非対称だったが、この世界では伝統的なカトリック様式の建築ではよくある石造りで、柱や窓が目立ち、屋根も二本の尖塔も線対照で、中心には環状のステンドグラスが飾られていた。智子いわく、これは火災で燃え落ちる前の姿だという。まだ汚れも目立たない壁面をうかがうかぎり、建築されて間もないように見える。カレンダーでは今は平成三年だが、聖堂が建てられたのは昭和二十六年だそうだ。この間にはちょうど四十年のギャップがあり、少なくとも四十年の矛盾を孕んでこの世界は存在している。この世界の時間軸の最先端に位置するもののひとつが、この聖堂だ。

「あっ、そうか」

 ふと気づいたことがあり、あたしは呟いた。ババアが産まれたのは、確か昭和九年。だとすれば、昭和二十六年には十七歳で、いまの年齢と一致する。この世界にはいろんな年代のものが同時存在しているが、少なくともババアと聖堂とは同じ時系列に位置しているんだ。

 夏の太陽もいつの間にか高度を上げており、強い日差しに照らされた芝生が青く萌え立っている。ババアはその真ん中を足早に歩き、聖堂に向かった。あたしもその後ろを追いかけた。


 聖堂に入っても、なんの感慨も湧かなかった。それはあたしが通った京都の教会とよく似ていたからで、ほかにも行ったことのある多くの教会と似ていたからで、つまり教会として一般的な、わるくいえば凡庸な造りになっていた。信心はなくともいちおうカトリックとして育てられたあたしは、この種の空間で気後れすることはないし、ありがたみを感じることも、けだるさを感じることもなく、ただ、ああよく知る空間だ、と思うだけだ。

 よくあるように、入口の乳白色をした陶器には、聖水がたたえられていた。ババアが慣れた手つきで聖水に触れ、素早く十字を切る。カトリックであれば誰もがやったことのある作法なので、あたしも取り立てての敬虔な気持ちはないまま、身に馴染んだ手癖のように同じ仕草をする。

 教会のいちばん奥、壁面には、前の世界ではマリア像が十字架に打ち付けられていたはずだ。しかしこの世界の教会では、一般的な教会がすべてそうであるように、ヤスさん像が掲げられていた。そうだ、これが当たり前なのだ。であればやはり当たり前じゃないのは、元の世界のほうなのか。ババアが強い子を堕胎した、もうひとつの世界線。

 ヤスさんの前でババアはひざを地面に付けると、先ほどよりもゆったりした動きで十字を切り、そして両手を組み合わせ、頭を下げて目を閉じた。あたしもババアに倣い、同じようにした。このお祈りのとき、あたしはいつも何を願っていいのか分からなかった。欲しいものがあるとか、テストでいい点を取りたいとか、どうでもいいことを願ったことはよくあるけれど、たとえば女優になりたいとか、大切なことを願ったことは一度もなかった。だってあたしは、ヤスさんなんて信じていなかったから。同じようにあたしは、ババアにどうでもいいことを求めたことはあるけれど、ほんとうに大切なことを求めたことは一度もなかった。たぶんあたしは、ババアを信じてもいなかった。

 いまはあたしは、何を願ったらいいのか、はっきりと分かった。ほんとうに大切なことを願うことができた。あたしは何を信じたらいいのか、今だけかもしれないけれど、初めて分かった。

「チヘ!」

 静かな教会に鋭い声が響いた。女の子の声だった。振り返ると、入口のところに黒服の少女が立っていた。逆光で顔までは見えなかった。

 少女はよく分からない言語を、おそらく韓国語を叫びながらババアに走り寄ってきた。

「ぎゃっ!」

 ババアがあたしの身体を強く押し、少女にぶつかった。あたしたちは絡み合うようにして床に倒れ込み、ちょうど頭が激突したのでしばらく悶絶をした。あたしたちが痛みに堪えているうち、ババアはするりと逃げてしまった。


「すみません、大丈夫ですか!?」

 あたしよりも少女のほうが痛そうだったので、慌てて声をかけた。口にしたあとで日本語では理解できないだろうことに気づいた。少女がしゃべっていたのは韓国語に聴こえたし、おそらくババアと同じ韓国人なのだろう。

「……いったー」

 少女は後頭部を押さえたまま、そう呟いて上半身を持ちあげた。どうやら日本語も話せるし、理解できるようだ。ただ、顔つきは大陸系というか、目や鼻の筋がよく通っていたので、韓国人ではあるのだろう。ババアともすこし似ている。韓国人らしさ、とかそういうことではなく、怒りをあらわしたときの表情が。ババアほど可愛くはなくて、容姿は十人前といったところだった。

「えっと、あなたは、だれ?」

 少女はあたしの姿に気づくと、目をぱちくりとした。韓国語は流暢に感じられたが、日本語はカタコトだった。教会特有の黒い服を着ていて、胸元には十字架を下げている。この聖堂の子なのだろうか。あたしよりも年下で、中学生ぐらいに見えた。

「え……と、あたしは……、カンチヘと同じ家に暮らしてる、美子、っていいます。あ、ベル、っていったほうが、通じるのかな?」

 こころなし身振り手振りを交えながらゆっくりと伝えた。少女は外国人特有の顔つきというのか、初めは分かりやすく怪訝そうに眉をひそめていたが、ベル、という言葉を聴くと、一気に表情を明るくした。はっきりとした感情の変化がやはり日本人離れしている。

「あー、ベル! チヘの家に、住んでるんですよね! 聖堂にようこそ。歓迎します。私は」

 少女はそこでいったん言葉を区切ると、うやうやしく俯き、あたしに向かって十字を切った。

「チヘの妹の、カンジヨンと言います。この聖堂の、神父の、孫娘です」

 その言葉であたしは、前の世界でババアの葬式をしたとき、聖堂に迎え入れてくれたシスターを思い出した。あのシスターこそカンジヨンで、ババアの妹だったんだ。あのシスターも神父の孫娘を名乗っていた。カトリックの神父は本来子どもを持つことはできないため、その例外となった彼女のことはよく覚えていた。

「韓国……の方ですよね? ずっと日本にいるんですか?」

 あたしはそう尋ねてみた。前の世界でシスター、つまりカンジヨンは、高校卒業と同時に日本を離れたと言っていた。次に日本に帰ってくるのはそれから六十年後。そしてババアを見送ることになる。あのときのシスターは、あたしには、ババアの死をそれほど悲しんでいるようには見えなかった。もちろんキリスト教的な死生観もあるだろうけれど。ただあたしは、妹だというカンジヨンと、ババアとの関係には、本来家族間にあるべきでない歪みが感じられる気がして、それがババアの人生に輪郭を与えたような気がして、その正体を確かめるべく、カンジヨンから見たババアを尋ねてみようと思ったのだ。

「日本に来て、二年です。でもあと四年したら、また韓国に帰ります。留学で来ているだけなので」

 カンジヨンは無邪気に微笑んで言った。そう、無邪気なのだ。その点がババアと決定的に異なる。ババアはいつも何かを憎み、何かに怒ってるような、そんな世界中を敵に回しているような人だった。留学というのは、あたしの勝手なイメージだが、人生におけるちょっと長い旅行であり、人生に多分の彩りを添える休息であり、愉快で、気楽で、刺激的ではあれど前向きなものであるように感じられる。だから本来であれば、カンジヨンのように無邪気な向き合い方が有体なはずだ。ババアはぜんぜんそうではなかった。ババアにとっての日本は、苦痛で、気重で、刺激的というにはあまりに後ろ向きすぎるものであるように感じられた。

「……お姉さんの、カンチヘも、そうなんですか? そのうち、韓国に帰るんですか?」

 あたしはそう尋ねてみた。前の世界と同じようにストーリーが進むのであれば、ババアだけは日本に残るはずだ。それが一体どういう理由によるものか、確認してみたかった。

 ババアのことを尋ねると、カンジヨンはとたんに表情を暗くした。

「姉は、あ、チヘは、韓国には帰れません」

 姉、と口にしたあと、気まずそうに言い直した。その口調はどこか軽薄で、わざとらしく、そして後ろ暗さのようなものを隠せなかった。どうしてババアを姉と呼ばないのか。彼女が口にした「帰れません」は「帰りません」の間違いではないのか。その口調の冷淡さも、単に日本語が不得手だからなのか。あたしは知りたいと思った。

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