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 ババアの旧居というのは恵子が言ったとおり、温泉街の外れにあった。すぐ裏手には聖堂の山がそびえている。風が吹くたびうっそうと茂る木々がざわめき、虫の声が小さくなったり大きくなったりする。家は外観をうかがうかぎりぼろぼろの廃屋で、トタン板でこしらえた簡素な一階建てで、屋上には申し訳程度の物干し台が見つけられた。京都で過ごした家に似ているな、そう思った。あの家も一階建てだったし、まあまあボロボロだったし、屋上の物干し台は怒られたときの隠れ場所だった。

 入口にはうすよごれた引き戸があり、ひどくさびついた南京錠で封じられていた。

「元々はこのまわりが風俗街やったらしいねん。いうたら赤線やね。規制が入ったあとはこのへんはすっかり廃れてもーて、今となっちゃ見てのとおりやわ」

 恵子が鍵を取り出し、南京錠を回しながら言った。錠前も錆びついているのか、「あかん」と呟いて難儀しているあいだに、あたしは後ろを振り返ってみた。あたりは真っ暗だった。ババアの家とおんなじ風体の朽ちた木造住居が並んでいるが、もう誰も住んでいないのだろう。軒下に連なっている穴だらけの看板に、わずかにだけ当時の風俗街の面影がある。

 うら寂しい風景を眺めているときの、居たたまれない感覚に覚えがあった。京都の、いわゆる被差別部落に入ったときのそれだ。姉妹三人で遊んでいるうちにうっかり迷い込んでしまったのだった。同じクラスの女の子と顔を合わせてしまい、あたしは彼女と口を利いたことがほとんどなかったのに、彼女のことが分かったような気がして、そのことがすごくいやだった。顔を合わせたときのあの子の、のっぺりした表情をよく覚えている。そのこともすごくいやだった。帰り道、あたしたちは今までにないぐらい口汚い悪口を言い合いながら歩いた。ポリコレにうるさいババアがあたしたちをぼこぼこに殴ったので、それきりだったけど。

 その反動なのか、それっきり、あたしたちは社会的弱者がきらいだ。あたしは韓国人俳優との共演NGを出したことがある。智子は札付きのミソジニスト、というよりフェミニスト嫌いで、いつも男らしく振る舞っているし、彼氏を作らないのはそれも影響しているのだろう。恵子は障害者を馬鹿にしたひどい小説を寄稿してしまい、ある大手出版社からは出入り禁止を食らったそうだ。「ハイスペックシスターズ」は弱いものがきらいだ。弱いくせ正しいものがだいきらいだ。それを守ろうとするババアにあたしたちはつよく反発した。

 あの、のっぺりした部落と同じような町にババアの家があって、あたしものっぺりした。ボロボロなくせ、やけに正しく建っているこの家を見ると、身体から力が抜けた。それは嫌いという感情の先にあるふたしかな気持ちで、強いていえばセックスをしたあとの虚脱感に似ていた。

 ゆれる木々の向こうに、聖堂のましろい尖塔がかがやいた。ヤスさんに見守られた遊郭で、ババアは何を考えていたんだろう。そんなことを思った。「美」と「智」と「恵」をかねそなえたババアが、ここでたったひとつ手に入れられなかったもののことを考えた。


「あ、開いた」

 恵子のその言葉とともに、ずずず、と不気味な音を立てて引き戸が開いた。部屋のなかからはカビくささが溢れてきた。ババアがここで暮らしていたころ、なかったであろうその匂いは、ババアのここでの暮らしを培養したものに思えて、きもちわるくて、なつかしかった。

「ほぼモノはないねん。何があるんか軽く検めてはみたけど、ろくなものなかったし、ほぼ放っといたるわ。どうせ取り壊すんやし、そうじもしてへん。ごめんなほこりっぽくて」

 恵子の言葉のとおり、部屋のなかは畳のうえにホコリが積もっているだけで、思いのほかすっきりしていた。畳四枚のまんなかに半分の畳が組み込まれている正方形の四畳半で、京都の家と同じだった。畳はうすあかりのなかで見るかぎり、ほとんど傷んではいない。

「あ、電気来てるんだ?」

 智子が指さす先には天井からぶらさがった豆球があって、ちらつきがひどいため寿命が近そうだが、いちおう室内を照らしてくれている。壁のしっくいも剥がれてはいなかった。路地側の壁にだけ正方形の格子窓がある。障子は日焼けこそしているものの、穴ひとつ空いていなかった。この空間はババアの帰りを待っているんじゃないか、そんなことを思うと、背すじがぞわりとした。

「そうそう、電気と水道生きとるねん。誰がお金払ろうてるか知らんけどな。奥にはお風呂とトイレがあるけど、半屋外やから、注意して使こうてな。あと、さすがにガスは来てなかったわ」

 恵子の視線の先を追いかけると、ちいさな三和土の向こうに摺り硝子の入ったサッシ戸があった。その向こうにお風呂とトイレがあるらしい。

「恵子ちゃんこんなところの風呂入ったん? 勇気あるなあ」

 智子が呆れた口調で言うと、恵子は鼻で嗤い、こう応えた。

「いうてうちらが京都で使てたお風呂だって大して変わらへんやんか。ババアが夏はガス使うないうて、うちら冬でも意地張って水風呂入ることあったやん」

 あたしと智子は苦笑いして頷く。なによりも残念なのは、あの水風呂はそれほど悪くなく、けっこう好きだったってことだ。夏は暑いからといっていつまでもお風呂に浸かっていて、ババアに怒られた。真冬ですら「水はゼロ℃だから外よりもあったかい」という智子のよくわからない理論に騙されてやっぱり長風呂をして、ババアに怒られた。春も、秋も同じようにババアに怒られた。あたしたちはいつもババアに怒られていて、ムカついたけど、三人でいるのは楽しかった。今でもちょっとしたいいお風呂に入る機会に恵まれると、あのお風呂のことを思い出す。比べてしまう。そんなの、比べようもないのに。過去と現在なんて。

「ほいで、あの梯子を上がったら屋上に出れるで。いうて大した眺めでもないけどな。夜はまっくらやし、聖堂の塔がひとつ見えて、それだけや。まあ京都の家とおなじやね。京都で見えるんは京都タワーやったけど」

 恵子に言われて顔を上げると、天井から縄梯子がぶら下がっていた。ちょうど足が当たる部分の縄が傷んでいるが、ババアが使っていたのだろうか。天井は梯子の根元部分だけ四角形に色が変わっていた。そこが扉になっていて、屋上に出られるのだろう。


「恵子ちゃん、だいたい分かったからもういいよ。ああ、つかれたー!」

 智子はけだるそうにそう言うと、靴を脱ぎちらかして畳の上にあがり、倒れるように寝転がった。埃まみれの畳でもまったく気後れがない。恵子の言ったとおり、あたしたちが京都で過ごした家もだいたいこんなかんじだった。こんな空間であたしたちは寝て、食べて、怒られて、怒って、泣いて、笑って、そして生きるために必要な全てであり、たったひとつを覚えた。そのたったひとつがあるから、あたしたちは例えば、いつでもどこでも寝ることができる。あたしにはさらに「誰とでも」がつくが、ほんとうは智子も恵子も同じなんだと思う。

 智子に続き、あたしも靴を脱いで畳に上がった。踏んだ感触もしっかりとしていて、やはり古そうには見えない。四畳半の中心にはまんまるいちゃぶ台がぽつんと置かれている。他にモノはほとんどなく、壁際にあるブラウン管式のテレビだけが目立っていた。昔のものにしてはずいぶん大きい。しっかりした木製のテレビ台のうえに据え付けられていた。テレビ台には観音開き式のガラス戸があって、その奥にビデオなのか、ごちゃごちゃしたものがうかがえた。

「ああそのテレビ、ちゃんと点くで」

 あたしがテレビを見つめていると、後ろから恵子の声がした。電源ボタンがどれなのか分からないので、たくさんあるボタンを手あたり次第に押してみると、ブツッ、という鈍い音がして、画面に砂嵐が現れた。

「なになに、テレビ観れるの? 中日戦の結果出てる?」

 ザーという驟雨みたいな音を聴いて、智子がテレビに近づいてきた。テレビの背面を覗き込んで興味深そうに眺めている。彼女が世界的なIT企業に勤めるエンジニアだってことを思い出した。

「同軸ケーブルは配線されてないね。というかアナログ放送にしか対応してないからどっちにしろ見れないか。メーカー、ナショナルだって。初めて見た。年式は80年代か。今でもよく動くねえ。古き良き日本のモノづくりだなあ」

 智子は眼鏡をしきりに動かしながら、彼女らしくもなく早口でああだこうだと呟いて、テレビの分析を始めた。だいたいいつもぼんやりしてるくせ、好きなことになると向こう見ずに没頭するのは昔から変わらない。本気で集中したときにだけ眼鏡を外す。夏休みにはよく蝉の標本を作っていて、中学になるとそれが電子工作に、高校になると自作コンピュータに変わったっけ。どこで手に入れたのか半田ごてを持っていて、庭先にパソコンのジャンク品を集め、よく甘い匂いを漂わせながら半田づけしていたのを思い出す。初めてパソコンが動いたときの彼女の喜びっぷりは今でも忘れられない。「ドスが動いたどすえ」というしょうもないギャグもはっきり覚えてる。三姉妹のなかで智子がいちばん自由奔放で、ひとり遊びが好きで、いわゆるひとりっ子気質だったと思う。

「あっこれゲームに配線されてるじゃん。ゲームできるかもよこれ。うわ懐かしこれ、スーパーファミコンだ。存在は知ってたけど、本物を観るのは初めてだわ」

 智子の独り言は続く。テレビ台のしたのガラス戸を開き、そこに詰まっているものをどんどん取り出して床に並べた。ほとんどはゲームのカセットらしい。クリーム色の樹脂製で、基板の端子部が飛び出したそれを生で見るのはあたしも初めてだった。ゲーム機はケーブルが臓物みたいな異様なありさまで絡まっていて、智子は器用な手つきでそれをほどいていった。

「スーパーファミコンいうんそれ? ゲームできんの?」

 恵子がおそるおそるカセットを手に取った。彼女は好奇心旺盛だが、機械系にはとにかく疎い。家電を弄っていてもよくそんなふうに壊せるもんだというあり得ない間違いをした。そのたびに智子が家電を直してくれて、よくもわるくも智子の技術が鍛えられたようだった。

「恵子ちゃん、さわんな、壊れる」

 智子がきつい声で制する。恵子はぶすっと頬を膨らませてカセットを床に戻す。

「ババア、ゲーム好きだったもんねえ」

 あたしはぼんやりと呟く。ババアは古い携帯ゲーム機を持っていて、時間を持て余すといつもそれでゲームを遊んでいた。新しいゲームを買うお金はなかったので、いつも同じゲームを遊んでいたのだと思うが、よくもまあ飽きもせずひとつのゲームだけを十年も二十年も遊んでいられたものだ。

「こどおば、いう感じやったよな」

 恵子が意味ありげな笑みを浮かべてぽつりと言った。聴き慣れない言葉を聴いて智子が怪訝そうに振り向く。あたしも恵子の顔を見やる。恵子は意地悪く微笑んだまま、こう続けた。

「こどおじ、って聴いたことない? こどもべやおじさん、の略やねん。いい歳していつまでも子ども部屋に住んでて、ゲームとかばっかして、現実逃避してはるおじさんのことやねん。ババアもそんなかんじやったわ。こどもべやおばさん、ってうちには見えたわ」

 恵子はずっとババアと暮らしていたので、あたしの知らないババアもたくさん見てきたのだろう。恵子は彼女の知るそれを「こどおば」という言葉で表現した。あたしはその言葉をあたしが覚えているババアの背中に重ねた。背中を丸めて四畳半のすみっこでゲームに没頭している、あの姿を「こどおば」という言葉が形容していた。だとすればあの四畳半は、「こどもべや」だったのだろうか。この部屋がおそらくそうであるように。

「分かる分かる。ババアはゲームしてばっかで、口を開けば政治の文句ばっかで。だからわたし、ゲームと政治の話しかしないひと、ほんと無理になったもん」

 智子がそう言っておおきく頷く。

「『わたしのかんがえたさいきょうのにほん』ばっかり妄想してる人やったよな。ゲームと政治やねん、あの人にとって全ては」

 恵子は独特の表現でババアを語った。あたしはその言葉を頷けないし、否定もできないでいる。あたしたちを育てたこともまた、「ゲームと政治」だったのだろうか。「わたしのかんがえたさいきょうのこども」を作りたかったのだろうか。そう思うと、自分の全てが否定された思いがして、気がざわざわした。

「『パーフェクトワールド』願望って知ってる?」

 智子がゲームのケーブルをほどく手を止め、あたしと恵子の顔を交互に見て、なぞかけのように言った。

「なんそれ、知らん」

 恵子が答える。あたしも首を横に振る。

「つまりね、『わたしのかんがえたさいきょうのにほん』と同じよ。満たされていない人ってね、満たされている人よりずっと『完璧な世界』を望む傾向があるんだって。ババアがちょうどそれだった。ゲームと政治に没頭して、ありもしない『パーフェクトワールド』ばっかり夢見てるひとだった」

 智子がそう説明してくれた。恵子は「きゃあ」とわざとらしい悲鳴をあげて同意し、

「よかったなあ美子、うちら、満たされてて」

 と言って、笑いながらあたしの肩を叩いた。

 あたしはまだ頷けないでいる。確かにあたしたちは満たされている。おそらくババアが望んだとおりに。しかし「ハイスペックシスターズ」は「パーフェクトシスターズ」ではない。あたしたちは決定的に何かが欠けている。おそらく同じ形をした何かが。それはババアがその生涯を通して遺したあたしたちへのなぞかけで、その答えはこの「こどもべや」にあるのかもしれない。


「やった、動いた!」

 試行錯誤を経たのち、智子はゲームを動かすことに成功したようだった。テレビの砂嵐が消えて真っ暗に変わり、ゲームのメーカーらしきロゴが上からスライドインしてきた。恵子が拍手をする。

「なんこれ。つお……いこ……?」

 続いて真っ黒な背景に白枠が表示され、「げーむをつづける」というメニューのとなりにその文字が表示された。

「うん、これはRPGだね。『つおいこ』っていうのは主人公の名前なんだと思う」

 智子はそう言ってゲームを切り、カセットを抜いて次のカセットを挿した。カセットは端子部が傷んでいるようで、なんどか息を吹きかけてやる必要があったようだが、どれもだいたい問題なく起動してくれた。そしてどのゲームの主人公も等しく「つおいこ」だった。

「つおいこってなんやろ。暗号? アナグラム? いおこつ……おつこい……おいつこ……甥っ子?」

 恵子がしきりに首を傾げる。暗号、という言葉にどきりとする。「つおいこ」こそ、ババアがあたしたちに遺した答えなんじゃないかって、そんな予感がした。

「……わたしね、高校のときだったかな。ババアのゲームが壊れて、修理を頼まれたことがあるんだけど、そのゲームの主人公も『つおいこ』だった」

 智子がそう言い、肩を落とした。なにか言いにくい彼女だけの秘密をようやく話すことができたかのように。

「ゲームの記憶媒体、今みたいにフラッシュメモリじゃなくて、バッテリバックアップされたRAMだと思うんだけど、今でもちゃんとデータが残ってるの、気持ちわるいね。なんか、ババアの呪いみたい」

 理知的な智子らしくもないオカルトな言葉を聴いて、うすら寒くなる。ババアの話をしているとき、智子はその賢さを失う。恵子もその語彙を失う。あたしもたぶん、美しくなくなる。相対評価によって。


 ゲームはほとんどが一人用のRPGだったけれど、ひとつだけ二人対戦のできるゲームがあった。あたしたちでもよく知ってる有名なレーシングゲーム「マリオカート」だ。智子いわく初代だというそれは、ドット絵が荒く色数も少ないし音楽もずいぶん陳腐なものだったが、操作がとても簡単だったので、あたしたちはコントローラを握りしめ子どもに戻ったような歓声を上げながらマリオカートを遊んだ。あたしたちはみんなゲームをしないので、すごく下手だった。あの聡明な智子ですらいきなり逆走を始めてしまい、溶岩の海にまっさかさまにおっこちて、みんなで爆笑した。

「この『ゴースト』ってなに?」

 いろんな操作を試しているうち、恵子がそのメニューを見つけた。

「試しに押してみようよ」

 何の気なしにあたしが恵子の手元のコントローラを弄ってやると、いきなりレースが始まった。恵子が操縦するヨッシーの隣に、半透明のマリオの姿がある。どうやら彼が「ゴースト」らしい。

「なんこいつ! めちゃくちゃ速い!」

 恵子が悲鳴を上げる。レースが始まるなり、「ゴースト」のマリオはものすごい勢いで加速し、道路の果てに消えた。

「あ、分かった。この『ゴースト』って、過去の走りを記憶して、その通りに走ってみせる、その機能のことらしいよ」

 スマホで検索していたらしい智子がそう教えてくれた。

「え、じゃあこの『ゴースト』は、ババアの昔の走りってこと?」

 あたしが尋ねると、智子は押し黙ったまま頷く。画面に目線を戻す。ババアのゴーストはめちゃくちゃ速くて、恵子はあっという間に周回遅れになった。

「速い! ババアが速い!」

 恵子のその言葉が面白くて、ババアが速いのがやたらおかしくて、深夜のテンションもあったのか、あたしたちは爆笑した。そして笑いが落ち着いたのち、あたしたちは交互にコントローラを握り、誰がババアの「ゴースト」を倒せるか、挑戦した。ババアの「ゴースト」はものすごく速くて、誰がやっても追いつけないどころか、背中を捉えることすらできなかった。それでも、あたしたちは何度も何度もババアに立ち向かった。

 この「ゴースト」のデータが残っていることも、智子の言ったとおり「呪い」であるように思える。たとえば「つおいこ」の意味が「おいつこ」であったとしたら。――追いついてこい、ババアのそんな声が聴こえる。

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