追憶

西尾 諒

第1話

ディーゼル機関車特有の息を切らすような長いエンジン音が遠くから聞こえてきた。立ち昇っていた陽炎が、その音に呼応するかのように微かに揺らいだ。

道の傍らに座り込んだまま僕はその音に耳を澄ませた。

機関車の音は確かに道の向こう側から響いてきた。僕が進んでいる道は、少なくとも方向としては間違っていない。

国道の向こう側にある畑には大きく葉を広げた煙草が植えられていてその上には高く空が立ち上がり、その重みで陸地との間で押し潰されたみたいに歪んだ形の夕陽が、もうずいぶん低く、なんとか浮かんでいる。だが、もうしばらくすれば私は消えるから、と告げていた。

校門を出て歩き始めてからだいぶ時間が経っているのに、見慣れた風景はいつまでたっても目の前に現れて来なかった。道を間違えたのかもしれない。そう思う心細さが僕の足を萎えさせていたのだが、線路はそれほど遠くはない。方向も間違っていない。その事実が僕に勇気を少しくれた。

母は僕が家に帰って来ないことにやきもきし始めているだろう。放課後に三角ベースで遊んで遅くなったとしても、もうとっくに家に着いていておかしくない時刻だった。

昭和三十九年、夏。もうすぐ東京でオリンピックが開かれる、そんな年の事だった。


日が傾き始めると僕らは校舎の時計を見上げ、四時半になったら、回の途中でも三角ベースを止めることにしていた。三角ベースっていうのは、要は二塁がない野球のことだ。野球をやる友達はなかなか十八人も集まるわけじゃない。一チーム6人、場合によってはそれよりも少なくてもできる三角ベースというゲームは便利なものだった。

だけど・・・一年前、夕闇の中で諦めきれずに野球を続けていたクラスメートがライナー性のボールを見失って、顔面にボールを受けてしまった。僕らは慌てて泣きじゃっているその子を保健室に連れて行った。「離婚をしたらしい」と生徒の間で密かに噂になっていた四十近くの、髪をひっつめにした保健の先生はちょうど帰り仕度をしているところだった。

右目を押さえながらウンウンと呻いている友達を保健室のベッドにみんなで担ぎ上げて横たえた。保健の先生が真剣な面持でその子を診ているのを囲んで、僕らは固唾をのんで見守っていた。

「これ、見える?」

ボールが当たった方じゃない片方の眼を瞑らせて、先生はその子に怒ったような口調で尋ねた。

「見えるの?」

「うん」

弱弱しく、その子は呟いた。ほっ、と先生の口から溜息が漏れた。念のためといって救急車で運ばれて行ったその友達を見送ると、立派な銀髪の教頭先生がその子の家族に電話をした。保健の先生は残っていた僕ら全員を、怒ったままの口調で隣の空き教室に来るように言った。僕らが教室に揃うと、黒縁の眼鏡の奥から先生は厳しい眼で見つめた。強い視線にたじろいで僕らは互いに顔を見合わせ、眼を伏せた。

「もうちょっとで眼球にまともに当たるところだったんだ。そうしたら目が潰れていたかもしれないんだよ」

激しい言葉と怒りの眼差しを避けるために俯いていた僕は思わずその言葉に先生をちらりと見上げた。先生の眼は少し釣りあがっていた。不意に先生と視線が合ってしまい慌てた僕は神妙にもう一度頭を下げた。もし、帰ることを邪魔されたのを怒っているだけだったら、先生はさっさと家に帰ってしまっていたに違いない。つまり彼女は真剣に僕たちを叱っていた。

三十分以上も僕らを説教した後、その先生は口で言っただけではこの「お馬鹿さんたち」にはきちんと伝わらないと思ったのだろう、思いついたようにどこかから眼の手術の写真が写っている本を取り出して僕らに見せた。僕らは拡大された眼の写真の不気味さと手術器具のおどろおどろしさに慄いた。思わず自分たちの目に片手を当てながら僕らは先生のいうことにこくこくと頷いていた。

「気味悪かったぁ」

ようやく先生が僕らを許したのは始まってから一時間ほども経っていただろうか。夕暮れの中、学校の正門を出た僕の隣を歩いていた子が呟いた。語尾がちょっと震えていた。そして僕らはその日から、四時半になったら三角ベースをやめて帰ることに決めたのだった。


その話は母にもしてあったから、三角ベースをしていて遅くなっているのではない、と思っているだろう。再び歩き出した僕は斜めに長く引く自分の影を眺めながら、五度目の盛大なため息をついた。けれどもあたりを見渡しても僕のため息に気づいてくれそうな人影はどこにも見当たらなかった。向かいの家の庭で犬が僕に気が付いたのか、ワン、とひとつ吠えた。


放課後、そう、今から二時間ほど前、校門を出てすぐの空き地で僕はシオカラトンボを追いかけていた。三角ベースはお休みだった。風邪をひいた子供たちがたくさんいたからだ。

シオカラトンボは体は小さいくせにすばしっこく、虫網を持っていなければなかなか掴まらない。でも時折飛ぶのに疲れると草の穂先に停まって休む。そこへそーっと近づいていき、人差し指の指先をくるくると回すと大きな眼をしたトンボは頭を同じ方向に無器用にかくかくと回し始める。しばらくそうしてから、背後から手を伸ばしふっと翅を抑えると容易に捕まられるのだ。赤とんぼほど簡単ではないけれど、シオカラトンボにも意外と間抜けな奴がいる。

その日、シオカラトンボを追いかけている途中で僕はギンヤンマが悠々と空を飛んでいるのを見つけてしまった。

トンボ界の大物だ。トランプで言えばクイーンとかジャックだ。オニヤンマほど大きくて勇ましくはないけれど飛ぶ姿は優雅で色も美しく僕はどちらかというとオニヤンマよりもギンヤンマの方が好きだった。シオカラトンボとは違ってとても素手で捉えることができるようなクラスではなかったけれど、見つけてしまった以上放っておくことはできなかった。僕は夢中でギンヤンマの明るい緑色の肢体を追いかけ始めた。

掴まるわけがなかった。ギンヤンマは僕をからかうように野原を行ったり来たりして、時に僕の頭上で馬鹿にするかのようにホバリングしながら見下ろし、休まずに飛び続けた。散々追いかけまわしたけれど、僕をからかうのに飽きたのだろうか。それとも本当に疲れたのか、ギンヤンマは突然道を隔てた畑の向こう側に消えていった。やっぱりなぁと悔しがりながらその姿を見送ると、仕方なく僕は駅に向かった。

改札口でポケットの中に手を突っ込んだとき、中に入れていた筈の定期券がないことに気づいた。耳の奥ですっと血が引く音がした。僕は慌てて学校に取って返し、誰もいない教室の隅から隅までくまなく探した。心臓の音がいつもより早く高く鳴っていた。けれどもどんなに丁寧に探しても僕の定期券入れは見あたらなかった。

拾得物係の事務員の人はもう帰宅してしまっていた。僕は肩を落としてとぼとぼともう一度校門を出た。落としたのは学校の中だとは限らない、そう思った。学校から駅まで歩いて行った道を思い返して目を凝らしながら僕は落とした定期券を探し歩いた。どこにも見つからなかった。トンボを追いかけていたあたりの野原を、僕は腰をかがめながら当てもなく探し回った。

空き地には煙草の吸殻や不思議な形をした金属が落ちていた。捨てられた新聞がバサバサと音を立てて風に揺れている。驚いたショウリョウバッタが長い脚をいっぱいに使って跳ね、ヤマトシジミが足もとでおろおろと飛び回った。でも肝心の黒いビニール製の、灰色にくすみかかったセルロイドの窓のついた定期券入れはどこにも見当たらなかった。

駅と学校の間を二回往復し、野原を何回も探し回った挙句、僕は諦めた。脚は草臥れて力が入らなくなり、半ズボンの下で尖った草の葉に傷つけられた腿や脹脛にはところどころ細く、薄く血がにじんでいた。それを見ているとなんだか泣きたい気持ちになった。それでも歯の奥を食いしばるようにして僕は家への方向を目指して歩き始めたのだった。学校のある駅と家のある駅との区間はたった一つだけ。でも歩いて帰るのにどのくらい時間がかかるのか、皆目見当がつかなかった。

線路と平行に走るアスファルトの県道の交差点から眺めると、道は初夏の光に揺れながらまっすぐ彼方へと続いている。頭がくらくらとした。空気は埃っぽく、潮の匂いがした。道端の枯れかけた菜の花の上を一羽の紋白蝶がひらひらと舞っている。葉の上に停まっていたナナホシテントウムシが、僕の視線に気が付いたのか、ゆっくりと翅を広げるとブーンと高い羽音を立て、危なっかしげに飛び立っていった。


あの時からもう一時間近くも歩き続けただろう。ずいぶんと距離は稼いだはずだった。

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