第5話 チェス

 ジリアンはチェスを知らない。昔、まだほんの子どもだった頃にルールを教わった記憶はある。対戦相手はいつも隣にいたのだが、彼のほうがずっと熱心だったから、すぐに負かされるようになり、面白くなくなって投げ出したのだ。

 だから、ノエルの書斎の隅に置きっぱなしのチェス盤を見ても、白黒どちらが優勢なのか、ちっともわからなかった。

 その日は珍しく、かれが朝から書斎に籠もっていた。構わず掃除をしてほしいと言われたので、普段はない目を意識しつつ埃を払っていたら、前掛けの裾をチェス盤に引っかけて、駒を半分ほども倒してしまった。

「あっ」

「どうしたんです、ジリアン!」

 あまりにも悲愴な声だったからか、ノエルが血相を変えて立ち上がった。ごまかしようも、言い繕いようもない。ジリアンは乱れたチェス盤を指して頭を下げた。

「すみません、引っかかってしまって、駒が……」

「ああ、そうでしたか。……おやおや、そんな顔しないでください、何も壊れてませんし、きみだって怪我をしたのじゃないでしょう」

 ノエルは屈んで駒を拾い、元通り並べはじめて、ふと手を止めた。柔らかい胡桃色の視線はいつもより遠くを見ている。

「掃除の邪魔になりますし、片付けてしまいましょうかね」

「えっ、途中だったんじゃ」

「またやり直せば良いんですよ。相手も忙しいひとですから、頻繁には来れませんし、もうこの対戦のことなんて忘れているでしょうし。写真に撮るとか、メモするとか、いくらでも残す手段はあったのに、このままの形で触れずにいたのは、きっと私の未練なんでしょうね。ジリアンはなにも悪くありませんよ」

 未練、と言ったわりに、凍りついた時間が融け、戦場が更地になるまではすぐだった。何も言えぬまま、記憶のなかにある小さな背中をノエルに重ねる。

『ジリアンはさわっちゃだめだよ』

 つややかな駒を自在に操る彼の隣で、ジリアンは架空の戦場を思い描き、高潔な騎士が、女王が、相手方の王を討ち取らんとする物語を空想した。物語世界に何時間でも浸っていられる自分と、何試合か終えてふいとどこかに行ってしまう彼と、性格はあまり似ていなかったけれども、彼とは互いに、いちばんの理解者だった。

「ジリアン、本当にいいんです。気にしないでください」

「はい……でも、大切な勝負だったのでは」

 んふふ、とノエルは含み笑いに肩を揺らした。レトリーバー犬の獣人ならではの、通った鼻筋をつんと上向け、胸を張る。

「ちっとも! 相手は音楽家仲間で、言うなれば腐れ縁ってやつです。向こうは今も音楽を続けているのですけど、あまりに鼻持ちならないのでね、ひとつぎゃふんと言わせてやろうと思いまして。これなら何度やっても私が勝ちますからね」

「ノエルは、チェスがお強いんですか?」

「いやいや、嗜む程度ですよ。強いだなんてとんでもない」

「……なるほど」

 ノエルが必ず勝つのに、お相手はチェスに付き合ってくれたのだ。もしかするともう二度と会えないひと、なのだろうか。

 余計な感傷を振り払い、ジリアンは掃除を再開した。

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