ノエルの花束

凪野基

第1話 門

 これは運命だ。郵便受けを覗き込んだジリアンは、目を閉じて深呼吸した。

 ――見間違いではない。夢でも、願望が見せた幻でもない。ミントグリーンの封筒が、大学の茶封筒を足蹴にするがごとく、斜めに立っている。

「ソーンネル魔術学院 ジリアン・ハーシバル殿」

 待ち望んだ便りに違いなかった。万年筆だろう、ブルーブラックのインク溜まりがひどく上品に思える。ふだんプリントされた無機質な文字ばかり見ているから、几帳面な書き文字が自分の名を示しているとはにわかには信じられなかった。

 差出人はノエル・アイアソン。一週間前に、どもりながら電話をかけ、履歴書を送った相手だ。スマートフォンの向こうで、かれはこう言った。「十日以内に、採用の方にのみ通知を送ります」

 ジリアンは封筒を胸に抱き、茶封筒を丸めて共用のゴミ箱に突っ込んだ。



 引っ越しの準備はすぐに終わった。学生寮として借り上げられた狭いアパートに持ち込んだ私物は少なかったし、教科書類はすべてリサイクルボックスに投げ込んだ。必要があれば、大型書店を訪ねればよい。

 研究室の面々は、せっかく後期課程に進んだのだから、卒業まで頑張って魔術師の免状を取れば就職先も、と形ばかりのしおらしさを見せたが、ジリアンが大学を去る理由を知らぬ者はない。誰も強く引き留めようとはしなかった。

 社交辞令の見本のような送別会の申し出をやんわりと断り、退学届と学生証、学生用の杖を学生課のカウンターに差し出せば、ジリアンはもう、大学とは何の関わりもないいち個人に過ぎなかった。

 わずかな着替えと貴重品。スマートフォンと充電器。身の回りの品は、スーツケースひとつと斜めがけにしたメッセンジャーバッグにすべて収まった。ブランドもののバッグや洋服も、限定販売のきらきらしいコスメも、車も家も貴金属も持っていない。自分の人生はこのサイズなのだと、二十年と少しの人生を振り返って苦笑する。

 悲観的なのではない。学生の身分である(「あった」だが)ジリアンはいまだ何者でもなく、教科書の知識のほかに自発的に得たものといえば、保身の技術ばかりだったのだ。愛想笑い、場の空気を読む力、己の存在を空気みたく薄める方法。

 感傷とは無縁だった。ジリアンはスーツケースを転がして電車でターミナル駅に出、長距離バスに乗り換える。景色の移り変わりを眺める六時間が過ぎると、そこは絵本でしか見たことのない田園風景だった。

 バスの乗客がめいめいに去り、ジリアンはがらんとしたロータリーに取り残された。夕方頃には賑わうのかもしれないが、車も人もまばらで、通りを隔てた向こう側に食品と日用品を商う大型マーケットがぽつんと建っているほかには、商店は見当たらない。電波はあるのかと恐れたが、Wi-Fiが使えた。

 スマートフォンの経路案内アプリと路線バスの時刻表を見比べるも、目的地へのバスはうんと先で、無為に時間を潰すよりはとタクシーに歩み寄り、ミントグリーンの封筒を差し出した。

「この住所までお願いします」

「おや、ノエル先生のお客さんとは珍しい。……ああ、ごめんなさいね、詮索するつもりはないんだけど」

 タクシーの運転手は、雇用主のことを気安いふうに呼んだ。アイアソン家を訪ねる客人は少ないようだが、時間を合わせればバスがあるし、自家用車は必須だろうから、タクシーの利用者は限られているのかもしれない。

「先生、と仰るからには、有名な方なんですか」

「指揮者ですよ、オーケストラの。CDもレコードもたくさん出てるし、音楽理論の本もたくさん書いてる。地元の名士、ってやつです。……ああ、指揮者だった、と言うべきですかね。引退されてからですから、こっちに来られたのは」

 運転手が告げた楽団も、教鞭を執っていたという大学も、疎いジリアンですら知っている有名なところだった。履歴書を送る前に、検索のひとつもするべきだったのかもしれないが、退学が決定し、行き場を失う身にとって、「郊外の一軒家に住み込んでのハウスキーパー」の求人はこれ以上なくありがたいもので、給金と雨風を凌げる場所の他には何も求めていなかったのだ。

 履歴書にも通り一遍の学歴を書いたのみで、音楽について、あるいはノエルについてはひとことも触れていない。音楽家の住まいなのであれば、多少なりとも音楽に興味のある者が雇われて然るべきだと思うが、「大学で魔術を学んでいるが、事情があって退学する」などと記したジリアンが採用された理由はとんと想像がつかなかった。

 後部座席で揺られながら、ジャケットのポケットに突っ込んだスマートフォンの液晶画面を撫でる。迷ったすえ、検索はしないでおいた。ウィキペディアの記述を眺めたところで、雇用主についての知識を深めたことにはならないだろうから。

 運転手は、詮索する気はないと言ったとおり、沈黙したままのジリアンに何を語るでもなく、車内に流れるジャズだかボサノヴァだかの音楽に合わせ、ハンドルを握る指でリズムを取っていた。お陰で少しだけうとうとすることができた。

 地元の名士と言うから、どれほど立派なお屋敷なのかと身構えていたが、小高い丘のてっぺんに建つ家屋には門扉すらなかった。郵便受けとプランター、それにサンザシだろうか、緑の垣根がその役目を負っているらしい。すぐそばにガレージがあるが、どう見ても一台分の広さしかない。

 呆然とするジリアンとスーツケースを残し、タクシーは郵便受けの前で切り返して、来た道を下っていった。

 呼び鈴を押す。ややあって姿を現したのがノエル・アイアソンそのひとであることを、ジリアンは直感的に理解した。

「待っていました。さあ、どうぞ中へ。歓迎の前にビジネスの話をしましょう」

 ノエルは獣人セリアンスロープだった。ふさふさと揺れる金茶の尻尾に導かれ、ジリアンはアイアソン家の白い玄関扉をくぐる。

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