第3話  家出

家に着くと、京香おばさん(幸子の母)と爺ちゃんが何やら深刻な顔で話し込んでいた。僕の顔を見るなりおばさんが

「幸子が居無くなっちゃったのよ!」動揺しているおばさんの訴えの事情が飲み込めないまま

「里帰りしていたんでしょ。」と言う僕の問いに、おばさんは

「実は・・・」爺ちゃんの補助説明も加わり、おばさんが事情を話し始めた。里帰りとは口実で、本当は、実の父親に会いに行っていたのだった。しかも、末期癌でもう先が無い、かなり深刻な状態の病状らしく、父親と言う人のたっての願いがあり、幸子には今まで内緒にしていた事実を暴露してまででも重要な事で、要は遺産相続の話らしかった。父親と言う人は、結構有名な棋士で、正妻との間に子供は無く、その正妻も数年前に亡くなられて天蓋孤独の身になってみて、若い頃の放蕩三昧を恥じたのか、幸子親子の事を思い出したらしい。まあ、聞けばお涙頂戴的なベタな話なのだが、どうも対面した娘に問題が有ったようで、幸子はこの気の毒な父親と大喧嘩をして横浜にある病院を飛び出してしまったという事なのだ。おばさんの電話には出ない様子で、所在が掴めないままでいる様子であった。まあ、僕が電話した所で応答するとも思えなかったが、どんな反応があるか試しに掛けて見ることにして、僕はパソコンの地図画面を見つめていた。幸子の超理工系の思考から導き出される、彼女の行動を僕なりの仮説で組み立てていくと、要するに(酔歩の理論)なのだけれど、該当する病院を中心に幸子の行動パターンを計算に入れて、周辺の地形や施設を絞り込んでみた。そんな事を考えながら、携帯のボタンを押すと、暫くの沈黙の後応答があり

「・・・迎えに来てくれ・・・」か細い声で返事が有った。

「何処に居るんだ?」

「小学生の頃に来た、海が見える丘の上だ。」

「ああー、あそこか。分かった、すぐ行くから待ってろ!何か欲しいものあるか?」

「お金が底を付いた。腹減ったし。」

「ああ、なんか食い物持って行くから、我慢しろ。」僕は、爺ちゃんに出動を要請した。取りあえず、おばさんは家で待機してもらうことにして、僕と爺ちゃんで出向いた。いつもの様に、オービスに引っかからない様にすっ飛ばす爺ちゃんの運転に、冷や冷やしながら、幸子の事を考えていた。あの時は、珍しく、親父が僕と雪乃と幸子を連れだって、出かけた先があの公園だった。今考えれば、あの日は、母の命日だったんだろう、母は海が好きだった。よく潮干狩りや、海水浴につれて行ってくれた。あれは、父なりの母への供養だったのかもしれない。程なくして、あの公園に着いた。僕は、爺ちゃんに待機してもらい、幸子の所へ向かった。

「ほら、食い物だ。おにぎりとお茶とこっちにおかずもあるぞ。」

「うん、ありがとう。」

「まったく何処に居たんだ?」

「うーん、ちゃんとビジネスホテルに泊まった。雨で、外には居られなし。でも、食事代が無くなって、小銭で買った自動販売機のカップ麺を食ってた。」

おにぎりをもそもそ食べ終わった幸子に、お茶と好物のナッツ入りのチョコを渡した。

「父親が生きてる、もう時期死んじゃんだろうけど、なんて知らなかったし…あのオヤジいきなり怒り出しやがって、母を罵倒し出したから、頭にきてついカットなってしまったんだ。」

「お前がその格好で、娘だて行ったら誰だって驚くだろうさ。」

「だって、いきなり連れて行かれたんだぞ。あいつが雇った探偵だか調査員だかに!」

確かに、おばさんの話からも、十数年何の音沙汰も無かった人間から、急に呼び出しがかかり、迎えを寄越すから直ぐ来い見たいな調子で引っ張り出されたらしい。あまりにも唐突な邂逅と、直ぐには受け入れがたい事実、さらには母への罵倒が加われば、幸子の頭と限らず、誰の頭のなかでも混乱するだろう。

「それで、お前はそれで良いのか?せっかく名乗り出てくれた父親で、しかももうじきに、本当に会えなくなってしまう人間なんだぞ。」

「だから、色々考えたよ。だけど判んないよ。如何すれば良いのか!…だから相談に乗ってくれよ。」

「まずは、幸子がどうしたいかによるんだが…と言っても分かんないなら…しょうがないが・・・・任せてくれるならそれなりに善処するけど、まずは、その人物に改めて会う気があるのか?こんな事の後で!」

「私だって、父親の事位ちゃんと知っておきたい気持ちは有るよ。今まで、死んだ事になっていて、何も知らされていなかったし、顔さえ知らなかったんだもの。」

「うん、だけど真実て言うのは、美談だけじゃ済まされないぞ。辛い思いも残るかもしれない。ましてや、今度の様に先が見えてる話なんだから。その覚悟があるなら協力しよう。」

幸子は暫く考えてから、

「今、止めたらきっと後悔すると思う。辛くても、現実と向き合うべきかなて気がしていたんだ。でも、本当は、薫が来てくれたらそうしようと思っていた。私一人では、できっこないから。」

「何だ、最初から答えは出してたのか。すんなり、電話に出たから変だなと思っていたんだが。」

僕は状況をおばさんに連絡してから、幸子の父親がいると言う病院へ向かうことにした。迷惑を掛けた上、蚊帳の外にしてしまった爺ちゃんには、ひとまずおばさんの所に戻ってもらった。

病室に居たその人物は、棋士と言うより数学の教師の様で、僕らを怪訝そうな目で見ながら

「最近の若い連中は、女が男の格好して、男が女の格好をするのが流行かい。」と聞いてきた。僕ら二人が目の前に居るのだから当然な質問なのは予想していたので、手の内の駒を見せる意味で、家の商売と、幸子とは幼なじみで商売仲間である間柄(誇張あり)を、それなりに誠意を持って説明した。

「単純に言えば、僕が女形で幸子が男形です。チンドン屋の役割の一つです。」

課題に出した方程式の回答を解く学生の姿を楽しみながら眺めているような顔で僕の話を聞き終わってから

「所で、兄ちゃんは将棋をやるかい?」

「いいえ、鋏将棋とか山崩し程度です。」

「ふーん、それは残念だね。筋の良い棋士になれたかもしれないのにな。」

一頻りの僕の話に耳を傾けてくれたその人物は

「まあ、いきなり呼びつけておいて、怒鳴りつけて悪かったな。娘だと聞かされていたもんだからさ。」

「僕は幼い頃に母を亡くして、それが余りに唐突だったので、泣くことも出来ない位に悲しかったんです。もっとも、その分、妹が随分泣いてくれましたけど、だから、幸子には、そんな、惨い断絶を味わって欲しくないいんです・・・あ、すいません、不謹慎でした。」

「まあ、もうじき行っちまうのは本当の事だからな・・・兄ちゃん鬼殺しで来たね。」

「鬼殺し?」

「ああ、桂馬て駒が有るだろう。」

「ええ、ヘンテコな進みかたをする奴ですか。」

「うん、そうだ。そいつを使って王を仕留める手だ。下手に動かせば大抵は歩の餌食なんだがな。」

そう言うと

「わりいが、一服させてむらうよ。」そう言うと、ひょいとベットを降りてベランダに出て行った。すっかり暮れてしまった空に、煙を吹きかけながら

「兄ちゃん、俺ちの娘を宜しくな。細かい事は、代理人から京香へ伝えておくから。」僕は一瞬、何を頼まれたのか分からなかったが、無意識に

「はい」と返事をしていた。時間も押していたので、別れの挨拶をして帰えろうとした時

「ああ、幸子て言ったけか、もし今度会いに来てくれる時は、もう少し女ぽい格好で頼むぜ、せめて隣の兄ちゃん位にな。」僕は内心、クーと笑いを堪えていたが、幸子が

「そうします。」と一言だけ言い残して出て行った。

結局、探偵だか調査員だかの人は、お抱えの弁護士さんだった。その人の計らいで、とんでも無く高級なホテルで夕食をごちそうになり、泊まる部屋まで準備してくれていた。

幸子が長いこと、電話でおばさんと話しているのが聞こえていたが、さすがに気疲れでも出たのか側に在ったベッドに横になった途端に眠りに付いていた。

母と雪乃と三人で海にいる夢を見ていた、たぶん伊豆の何処かの。透明な水と色鮮やかな小さな魚達が泳いでいた。暫く潮騒に包まれて居たかと思ったら、森の如く静かで重い空間が広がっていた。その先にあるものを掴もうとして、眠りから緩やかに覚めた。僕は、朦朧とした頭の中で

(雪乃?)でも髪の臭いが違っていた。

(シャンプー変えた)

(うんー誰)

(また、何だか面倒な事になってるのか?)

それは、幸子が僕の腕の中にすっぽり入り込んで、寝ている姿だった。彼女の頬がかなり濡れていたのに気づき、暫くそのままでいた。僕の前では、何時も気張って見せている幸子とは違う、か弱い少女がそこにいた。(まあ、いいか。成るようになれ。)そう思いながら、再び眠りに付いていた。目が覚めると、幸子が僕を覗き込んでいた。

「薫、熱いぞ。」

「熱い?」

「熱有るぞ。」

「熱!誰が?」

「薫だよ。」そう言えば、体がだるい感じがした。

「明後日は仕事入ってるし、まいったな、一寸疲れが出たかな。」独り言の様に言うと

「フロントで風邪薬でも調達してくるぞ。」珍しく協力的な幸子が気の利いた対応を見せてくれた。

「ああ、有り難う、早々に引き上げるとしよう。」

僕らは、軽い食事を取ってからホテルを出た。連休に突入したためか、何時もは通勤客で混雑する電車は空いていた。ぼーとした頭で海辺の高層ビルを眺めていると

「昨夜は、薫の横で寝たんだが気づいたか?」

「ああ、それとなく・・・」僕は、幸子が泣いていた訳を聞こうかと思ったが止めにして

「寝間着は着てたよな。」

「ふんん、どう言う意味だ。」

「寝間着代わりの浴衣は相性が悪いんだ。大抵朝起きるとバラケているから。」

「うんー薫、今別な事考えていただろう・・・私も半分位その気は合ったんだぞ。あの親父と約束してたじゃないか、私の面倒を見るて。」

「だから、何の面倒見るんだよ。あの時は頼むぞって言われたから、返事をしたまでだ。」

「ほーそうか、私はてっきり責任を取ってくれるのかと思ったぞ。」

「なんの責任だよ。」

「そりゃー、私を女にする責任だよ。」僕はとっさに周囲を見回してしまった。運良く誰にも聞かれていな様だった。

「薫は、さっさと寝入っちゃうし。」

「何で、俺が責任取らなければ成らないんだよ?」

「だって、探しに来てくれたろう。それに、父親との和解にも手助けしてくれたし。」

「そりゃーお前が幼なじみだからだ。」

「それだけか、ホントに・・・一寸は期待していたのに。」

「今は、それだけだ。この先どう成るかは分からないけどな。」

僕は、熱ぽい頭でウザイ事を考えるのが面倒になっていた。カッタルそうに幸子の肩に頭を持たれかけると

「しんどいのか?」

「ああ、」幸子が、僕のおでこに手を当てて

「まだ。熱有るな。もう時期だから・・・」実際は、そんなに辛くは無かったのだが、話の続きをするのが嫌で少々オーバー気味に振る舞って見せていた。いつもの帰宅駅に着くと、そのまま駆け付けの医者に行き、薬を貰ってから、部屋で寝ていた。暫く経ってから、用事から戻って来た雪乃の声がしていた。そして案の定僕の部屋に押しかけてきた、こんな時、母が居てくれたら良い干渉役になってくれていただろうと思ったが

「お兄ちゃんたら、外泊なんかしたから風邪引いたんでしょ。昨夜は何処に居たのよ?」

「爺ちゃんに連絡して有ったろう。」

「また幸子さん絡みね。泥酔して担架で帰宅したり、失踪したり・・・」

「まあー、そんなにじゃけにするな。あいつはあいつで大変だったんだから。」

「しょうが無いな。幸子さんと何があったのよ。横浜のホテルで泊まったんでしょう。おばさんが言ってたよ。」

「そう言う表現をされると何だか、凄い事があったみたいだな・・・何にもねーよ。帰りが遅くなっちゃったんで、先方さんが気を利かせて、部屋を取ってくれていたまでだよ。」

「だって、Pホテルて 三つ星レストランがある所でしょ?」

「ああ、そう言う意味では、凄いご馳走だったな。」

「ずるいんだから、私だって、竹林亭とかに行きたいのに・・・」

「しょうがねーだろう。今まで高校生だったんだから・・・お前達の歓迎会が終わったら連れてってやるよ。」

「おー、ホントだよ!」

結局雪乃は、なんだかんだ言いながら僕の部屋に居てそのまま昼寝に入っていた。三時頃に目が覚めると案の定隣に雪乃が居たが、寝かせたまま居間の方へ行くと、おばさんと幸子が来ていた。

「風邪大丈夫か。」

「薬が効いたみたいで、大分楽になったよ。」

「薫ちゃんに、色々迷惑かけちゃってごめんね!」京香おばさんが申し訳なさそうに言った。

「いやー・・・」

「それで、あの人の代理人て言う方から、何だか書類が届いてね。」そう言いながらおばさんが書類を出してきた。ざっと、内容を見てから、

「うちの親父が帰って来たら一緒に話し会いましょうか。まあ、大人の判断も必要でしょうから。」

その書類の内容は、大まかに言って三つの案件だった。一つに幸子の養育費、と言うか育英基金みたいな内容と、二つ目が幸子が結婚して子供が出来た場合、一人を硲家(幸子の父の家)の養子とする事、そしてもう一つが、硲家の土地家屋の相続の事だった。説明資料として、硲家の家系と土地家屋の内容が、かなり細かく書かれた書類が添付されていた。硲家は代々の旧家らしく、鎌倉にかなりの土地と本家とも言える母屋を持っているのだが、母屋は将棋連盟が借り受け、委託管理していて、タイトル戦などに使われて居るようだった。そして、海に近い山林を含めた土地が問題だった。

「幸子、あの書類読んだか?」

「うん、まあ・・・」

「育英基金とか養子の話は置いておいて、あの土地の事なんだが、借り主のリゾートホテルのオーナーて何処かで聞いた名前だろう。」

「ああ、三芳コンツェルンだろう。ふん、あの三芳さんか?」

「うん、気になったんで、ネットで検索してみたんだが、さすがに綾佳さんの所まではたどりつかなかったけど、かなり近い存在まで確認できたんだ。」

「ふーん、それより薫、私と結婚しろよ。そうすれば、一緒に相続できるぞ。」

「あほか、前にも言ったように、今は只の幼なじみだ。」

「ふん、そうか・・・気長に待つしかないのか。」

「そんな事より、お前こそ良い男見つけりゃ良いだろう。なんなら、さる筋に頼んでおいてやろうか。」

「バカか・・・何だ、そのさる筋て言うのは?」

「雪乃の良い相手も見つけてくれるて言う頼もしいお方だ。」

「ほう、それは有難いお方だな。雪乃ちゃんも早く卒業するといいな、お前から・・・所で、まだ一緒に寝てんのか?」

「・・・たまにな、言って置くが俺が望んでる訳じゃないぞ。」

「フン、変態。私の時は、先に寝ちまったくせに。」

「そりゃ、お前が勝手にそうしたんだろうが。」

「雪乃ちゃんだてそうじゃないのか。勝手に潜り込んで来るんだろう。」

「そりゃーそうだが、目的が違うだろう。」

「そうか?・・・」

「危ない事言うなよな。ちゃんと血の繋がった妹だからな。」

手詰まりに成ったのか、暫く幸子は沈黙したが

「三芳さんとはどうなんだよ?お前のタイプだろう、梢おばさん(薫の母)に一寸似てるしな。」

「大きなお世話だ。お前にとやかく詮索される謂われはないぞ。」

「そうか、お前の義姉的な立場から心配してるんだが。」

「それなら、姉が弟に結婚を迫ったりするか・・・ともかく、今は、幸子との関係に結論を出したくないし、今出したら、お互いがお互いを失う事になる・・・、俺には、幸子が必要だ、幸子も俺が必要なように・・・・」勢い余って言ってしまった言葉に

「ありがとうよ。」そう言って、幸子は僕の胸に抱きついて来た。不意の出来事ではあったが、その時の僕は、彼女の気持ちの奥底にある声をしっかり受け止めたくて、何時しか幸子をきつく抱きしめた。

「そう言う喋り方もやめろ。少しは女らしくなって、親父さんの所へ会いに行くんだろう。」

「ああ・・・、そうしたい。」

「あの夜、お前が泣いて居たのは知ってたよ。だからそのままにしたんだ。こうやって受け止めてはやれるが、お前の問題を、俺が解決することは出来ない。向き合わねば成らないんだよ、現実に。」

「うん分かってる・・・、頑張ってみる。」そう言いながら、潤んだ目で僕を見上げていた。それは、あの夜の可憐な少女の顔だった。思わず、その唇を奪いたい衝動に駆られる自分を必死に押さえていたが、幸子の瞳からこぼれた涙がそのくびきを押し流していた。そして、幸子の唇がこんなに柔らかかったのも、僕に身を任せた体がこんなにも華奢だった事も初めて体感した気がした。互いに求めあう舌の動きの他に、物とは違う暖かい思いが流れ、行き来している様であった。この事が、あの晩の出来事であれば、僕は幸子の全てを奪って居ただろう。暫くして、事務所の椅子にへたり込んでいた僕らを、母屋から探しに来た雪乃が見つけ、声を掛けられた時に、僕は我に返った。

「何してるの、暗い中で・・・さっきから呼んでるのに!」

「ああ、ごめん。一寸言い争いに成っちゃって、お互いに疲れちゃったんだよ。」とっさの作り話がバレない様に、努めて冷静を保って見せたが、雪乃は怪訝そうな目をしていた。

「お父さん帰ってきたから、会議始めようて、お爺ちゃんから招集が掛かったよ。」

「ああ、分かった。じゃー幸子も・・・」やや語気を強めて言ったが、顔をみる自信が無かった。ややうつむき加減に立ち上がった幸子の横顔を見たとき、その唇がたまらなく艶めかしく見えた。

その夜の、両佐藤家の家族会議は、あまり実り多い物では無かった。相続の問題も結局は、幸子が結婚してからの話だし、育英基金も月々に振り込まれる金額は、奨学金と大して変わらない程度の額でしかなく、彼女がいきなり資産家令嬢に成るわけでも無かった。彼女の父親には悪いが、所詮、勝負士の資産でしか無く、代々の硲家が残してくれた財産も、幸子の父が将棋に打ち込むためだけの目的に殆ど費やされていて今すぐどうなると言う状況では無かった。外見的、物理的には幸子に大きな変化はもたらさない。一番の大きな影響は幸子の心の中なのだろう、僕はそう思いながら会議の終わった幸子の顔を眺めていた。

連休も終わった週の週末に、歓迎会行事が行われた。屋外のオープンステージと体育館に屋内ステージが設置され、この時期の最終催しとして一部のクラブや同好会の勧誘が行われていた。いよいよ、歓迎会当日となった日、ここの所のゴタゴタを一挙抱えてこの日がくるとは予想していなかった僕としても、引き受けた事はきっちりとこなさなければと思い、気合いを入れていた。午前中は、屋外のステージで幾つかの催しが行われ、その一つに幸子達のバンド演奏があった。自治会室の何時もの場所で、綾佳さん達と準備を整えていると、そこえ目慣れない女性がこちらに近づいてくるのに気づいて、手を止めた。おそらく綾佳さんは僕が気づく何倍も前からそれが誰であるか理解していたのだろう。その女性は、僕の右隣に座った。それは、幸子が何時もするように。

「え、幸子!」黒のタイト調のミニスカートを履き、ボディーラインがハッキリ分かるような服装で、おそらくこれだけ、露出した足を白昼見たのは、夏のプールか海の時ぐらいだろうと思うほどの脚線美を見せつけていた。

「お茶が有ったらくれ・・・いや頂戴!」幸子の言い回しと、変貌ぶりに面くらいながら、僕はペットボトルのお茶を差し出した。

「どーうしたの!一瞬、誰かと思ったよ。」僕の返事の合間に、綾佳さんがつぶやく様に言ったのが聞こえた。

「戦線布告ね。」

「ああ、今日のバンドでボーカルやる衣装なんだ。どうだ、少しは女ぽいか。演奏が済んだら、父の所に行くつもりなんだが。」

「それで、そんな格好してみたのか。」

僕は少しはにかんだ幸子の顔をフェルメールの人物画でも見ているかの様に見ていた。何故なら幸子のその唇には真っ赤なルージュが引かれていたからだった。

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