第43話 権利
◆
夜更けに、クツが戻ってきた。
「遊女の仕事とは思えないですよ、こんなのは」
そうぼやきながら、返書を女将に手渡し、クツが背伸びするような動作をする。袖が下がって、肘の辺りまで露わになる。白い肌をしている。
何気なくじっと見ていると、ニコニコとクツがこちらを見て、伸ばした手をこちらの膝の上に置いた。
「さっきまではよく見なかったけど、悪くない顔をしているじゃないの、お兄さん。今夜はもう、何もご用事がないのなら、少し遊んで行かないかね」
はあ、などと苦笑いで応じながら、黙って書状を読んでいる女将を見るが、返事はない。この誘いはどうしたら良いかな、と救いを求める視線を強く送るが、気づきもしない。
「どうする? もうこんな夜更けだから、銭は少しは割り引くよ」
「やめておきなさいね、クツ」
やっと顔を上げた女将の言葉に、頬を膨らませ、「遊女らしい仕事がしたいわねぇ」とクツはつぶやく。彼女の器量とこの様子では、客に困るとも思えないが、書状を届ける仕事への不平だろうと思う。
そんな遊女を無視して、こちらに返書が差し出される。
「読んでもよろしいのですか?」
「どうぞ。あなたにまつわる内容ですから」
受け取り、文を確認していく。
書いているのはマサエイで、彼の考えがそこにははっきりと表明されていた。
封書を閉じ、思わず天を仰ぐ。
「ご迷惑をおかけしないようにします」
心を引き締め、頭を下げる。顔を上げたところへ女将も緊張感のある表情を向けてくる。一人だけ取り残されたクツがキョロキョロと二人の顔を確認した。
「え? なんですか、二人でそんな顔しちゃって。何があるんです?」
「マサエイの配下が私を狙うのです」
そう口にすると、あらら、とクツが肩を落とす。
「これは上玉のお客様を逃がすことになりそう。スマ様はもうイチキを出て行くんですね」
「そうなります」
「まあ、また何かございましたら、お訪ねになってください。その時は是非、私をお座敷にあげてくださいね」
そんな話をしている場合ではないよ、と女将が声をかける。
「どうもきな臭い匂いがする。クツ、スマ様を裏から逃がしておやり。騒ぎになりそうなら、あんたがうまく守るんだよ」
「用心棒にやらせてくださいよぉ」
「菱屋がかばうようになっては、オリカミ様と折り合いが悪くなりますからね、抜かりなくやるように」
「私ってなんでこう、なんでも任されちゃうんでしょうか」
すっくとクツが立ち上がる。
「ほら、スマ様、行きましょうよ。危ないんでしょう?」
立ち上がる前に、女将の顔を見る。女将はわずかに笑みを見せた。
「くだらないことに巻き込んでしまって、悪かったね」
「私こそ、余計な手出しをしました」
「ミツ殿のことは、ご安心なさい。私が責任を持ちますからね」
マサエイは書状の中で、ミツを菱屋へ移すことを了承していた。その代わりに手勢を使って狩りを行う旨が書かれていたのだ。それを菱屋は妨害せずにいるように、とも。
「ありがとうございます。では」
頭を下げ、立ち上がり腰に剣を差した。
クツが先に廊下に出るので、それを追っていく。
女郎屋の裏へ回り、風呂場の前を抜け、厨房も抜けて、まったくの建物の裏に出た。板塀と建物の隙間をクツが指差す。
「この先に板塀が壊れているところがあってね、そこから逃げられますからね」
「ありがとうございます、クツ殿。礼をしたいのですが、懐も冷えていて」
言い訳のようなことを口にしたからだろう、クツが可笑しそうな顔になる。
「遊女を喜ばせるには、お座敷に来ていただくことですよ、スマ様。そのうち、またこの街へ来られた時、私をお呼びくださいね」
「もしかしたら、あなたは身請けされていて、ここにはいないかもしれない」
「そうなれば、それはそれで幸せなんでしょうけど、私に幸せになる権利はあるのやら」
その権利は誰にもあるはずだ。
そう言いたくても言えないのが、この街での日々だった。
「あらあら、余計なことを言いましたね。早く行ってくださいね、私もこんなところに長くはいたくありませんから」
「申し訳ない。では」
「今度来た時、私じゃなくてミツという子を呼んではいけませんからね」
「ええ、わかりました」
その冗談には心和むものがあった。これもまた女の器量だろう。
頭を下げ、狭い隙間へ入っていく。人一人がやっとだ。
少し進むと言われた通りに板塀に破れがある。どうにか外へ出られそうだが、動きを止めた。
塀の向こうでいくつかの足音がする。通行人ではない、何かを探っている、もしくは待ち構えているような人の動きだった。
塀の破れも監視されているだろう。
マサエイは既に動いている。
こちらを下手人、混乱の首謀者として、首をはねるつもりなのだ。
まさかそのまま首を差し出す気もない。
塀の先へ進み、破れているところから離れて、どうにか体を塀と建物の間で突っ張って、塀の上に這い上がった。
塀が面しているのは狭い通りで、今は、提灯を持った男が二人いるだけ。やはり塀を抜け出せる場所を重点的に見ていたのだろう。
塀に懸垂していたのを落としを立てないように地面に降り、ひそかに移動し、二人を一息に倒せる位置についた。そっと改めて塀を越えることにした。
二人の剣士を殴り倒すようなことは不可能だ。
切るしかない。
最後の最後まで、血に塗れるよりないのか。
いつになったら、流血は終わるのだろう。
これもまた迷いか。
切り捨てるべきものか。
片手で体を支え、腰の剣の柄に手を置いて、そっと引き抜く。
呼吸が切り替わり、集中の度合いが増す。
今、と思った時には塀を蹴りつけ、体が舞う。
着地前に一人、着地と同時にもう一度、跳ねて、二人目を切る。
どちらも悲鳴をあげなかったが、体が倒れる重い音は夜の静けさの中では大きすぎる。
地面に落ちて燃えている提灯をそのままに、剣を鞘に戻して夜の街へ駆け出した。
狭い通りを抜けようかという時、背後で笛が鳴り、その甲高い音は町中に聞こえたと思う。
大通りへ飛び出す前に、前方に三人の男が立ち塞がった。
彼らは躊躇いなく、刀を抜く。
自分の周囲に死が垂れ込め、人間らしさがあっという間に侵食された。
鬼か、邪か。
もう一度、剣の柄に触れる。
真っ黒いものが全て、自分も相手も、街も空気も覆いつくし、やはり、凪がやってきた。
(続く)
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