第10話 手強い相手
◆
夕方になり、ミツが帰ってきた時はヒロテツと将棋をしているところだった。
「あら、まだいたんですか、お客さん」
「なかなか手強いよ」
ヒロテツが盤を眺めながらそんなことを言う。
半日もこんなことをしているのに、一勝一敗で、千日手が三回もあったのだ。と言ってもこちらはそれほど本気ではなく、ヒロテツが考えている時間の方が圧倒的に長い。
ミツが料理を始め、タルサカと何かやり取りをしているのが遠くに聞こえた。
「そろそろお暇します、ヒロテツ殿」
「決着がついていないじゃないか」
「明日にでもまた参ります。夕飯までご馳走になるわけにはいきません」
律儀なことだ、とそう言って傷だらけの手がそっと盤を横にどけ、視線がそこから上がる。
眩しいものを見るような顔が、そこにある。
「久々に面白い若者と話ができて、面白かった。スマ殿、明日を楽しみにしているよ」
「はい、こちらこそ」
立ち上がり、縁側を離れる。玄関のある部屋に入ると、タルサカが傘を張る作業の手を止めた。
「夕飯を召し上がっていってください、スマ殿」
「そこまでお世話になるわけにはいきません。ヒロテツ殿とまた明日、将棋を指す約束をしました。明日、もう一度、こちらへ伺います」
「そうですか。父のワガママを聞いてくださり、ありがとうございます」
玄関で草履を履くとき、土間で何かを煮ていたミツが振り返る。
「お構いもできず、申し訳ありませんね。豆大福、ありがとうございます」
ちゃんと彼女の分が残してあったのだ。もう食べたらしい。
「では、失礼します」
外へ出て引き戸を閉めて、腰の剣の位置を直した時、強烈な殺気が刺さるのを感じた。
姿勢を無意識に整え、長屋の群れの間を進みながら、殺気の主の位置を探る。生垣の向こうか。ただ、すぐに向かってくるようではない。
こちらが何気なく剣の位置を整えたことに、反射的に神経を尖らせたか。
生垣を回っていくのに不自然さを感じさせない歩調を意識した。
するとすっくと生垣の陰から立ち上がったのは、上等な着物を着た剣士で、笠をかぶっている。
「ハカリ殿……?」
足を止めて、自然と向かい合う形になった。
ハカリなのは間違いないが、彼は一言も言葉を発しない。体には力んだ様子はない。刀は腰の鞘にあり、柄に触れるようなそぶりもない。
しかし気迫だけは刀を抜いているような強いものがぶつけられてくる。
「あの娘に関わるな」
絞り出すような声はほとんどひび割れていた。
「あの娘?」
ヒロテツ殿の部屋に娘と呼ばれるものは、一人しかいない。
「ミツ殿のことですか? 今日、初めて会ったばかりですが、ハカリ殿のお知り合いですか?」
「問答するようなら、切るまでだ。いいか、二度と近づくな」
参ったな、というのが第一感だった。
ヒロテツと将棋をする約束をしてしまった。明日、あの部屋に入ってミツとすれ違わないのは難しいだろう。
変な誤解があるようだ。それをどうにか解きほぐせないだろうか。
「他意はありません。何も、ハカリ殿の邪魔をするつもりもないのです。ただ、ヒロテツ殿と会いたいだけですから、ミツ殿は何も関係ありません」
笠の下から鬼火じみた妄執の光が射抜くように向けられた。
これでは、どれだけ言葉を尽くしても、彼の考えを変えることはできそうもない。
「わかりました。こちらへ訪問するのは、やめましょう。それでよろしいですか?」
返事はない。ただ視線だけがこちらに向いている。鬼気迫るものがある視線であるから、まだ気は抜けない。
そんな視線の持ち主に斬りかかられたことがないでもない。
ハカリの実力の一端は知っていても、全力は知らない。
それに勝負は、力と力のぶつかり合いの中から、不規則な力が生じて、その不規則さが勝敗を決する場面もある。
「これにて、失礼したいと思います」
頭を下げる。それでも返事はない。
こうなっては生垣を回って、殺気を発した相手を探したのは失敗だった。今の立ち位置から元の方向へ戻れば、ハカリに背中を向けることになる。しかし先へ進めばハカリのすぐ横を抜ける必要がある。道がその二つしかないのだ。
結局、まっすぐに前に進んで、すでに怨念さえも感じられる視線を受けながらハカリとすれ違った。彼が刀を抜くことも、柄に手を触れることもなかった。
すれ違った直後を背後から切られてはたまらないので、その時が一番の緊張を感じた。
だが、そんなこともなかった。
大通りに出てやっと一息をつくことができた。
旅籠へ向かって歩きながら、ハカリがどういうつもりだったのか、考えた。
ミツと親しい間柄なのだろうか。それで敵意を向けられたのか。
ではなぜ、生垣の陰になど隠れていたのか。心では想っていても、告げられないのか、ミツに拒絶されたのだろうか。そこへこうして旅のものがやってきて、部屋に出入りしているとなれば、あるいは平静ではいられないかもしれない。
平静ではいられないと言っても、道場の外で剣を抜いたハカリのことを考えれば、先ほどのような分別は、やや不自然かもしれない。
あるいはそれだけの怒り、憎しみがあり、普段通りではなかったか。
危険かもしれない、と思ったが、考えてみればそんな状態の剣士のすぐそばにいた自分は、危うい上に危うかったことになる。
ミツのことを考えた。そしてタルサカのことも。
ヒロテツは大丈夫だろうか。彼がおいそれと敗れるとも思えないが、何が起こるかはわからないものだ。
旅籠が見えてきて、明日はどうするべきか、少し考える余裕ができた。
長屋へは行かないほうがいいだろう。余計な混乱が起こるのは、目に見えている。
夕陽に染まる空のどこか遠くで、カラスが鳴いた。
(続く)
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