第四十一話 〜揺れる大地〜

 鋭い危機感が全身を駆け巡る。

 原初の脳より発せられる警告を、確かにジョーは感じた。


「ビビッてんだろが……」


 オオカミが笑う。

 血まみれの口角を吊り上げ、まるで勝利を目前にしたような表情。


「こいよ…………おらぁ……こいよ!」


 拳を頭上に構えたまま、ジョーを挑発する。

 瀕死のオオカミを相手に、この時初めて、獅子は自ら足を引いた。


「来いっつってんだろ!?」

「…………」


 ジョーは葛藤していた。

 彼は獅子長という立場上、公然と人を殺めることが出来ない。

 今の彼を全力で攻撃すれば、間違いなく死に至らしめてしまうだろう。 


 だが、眼の前で虚勢を張っているこの男の目は、勝利へのゆるぎない自信に満ちている。

 背筋にビリビリと嫌な感触が走る。

 中途半端な攻撃をすれば、それこそ命取りに――。


 そう、獅子は確信する。


「むう……」


 今ここで彼を殺せば、外の世界との間で行われている取引がどれだけ凍結されるかわからない。

 サヴァナの長として、それは可能な限り避けなければならない事態だった。


 いっそ彼の勝利を認めてやろうか――?

 そんなことさえジョーは考え始めていた。


 だが彼にも誇りはある。

 この大イベントの最中、手負いのオオカミに背を向けたとなれば一生の恥となるだろう。


 ならば――。


 そしてジョーは『覚悟』を決めた。

 さらには、信じてみようとも思った。


 今目の前に立っている、ロンという戦士の『強がり』を。 



 * * *



 ジョーが両腕を上段に構えた。


 ついに来る――。


 この瞬間を待っていた。

 ロンは腹の底で死ぬ覚悟を決める。


 今初めてジョーが、本気で相手を『殺り』に来る。

 ジョーはずっと『遊び』で戦っていたが、それではこの『秘奥義』は使えないのだ。


「流石にそのハッタリは笑えない……」


 やっとマジな目になりやがった――。

 ロンは腹の底にありったけの気合を込める。


「……悪く思わないでくれたまえ」


 次の瞬間、ロンはジョーに向かって自分の体が吸引されていくのを感じた。

 スッと引かれた獅子の拳に秘められた神通力が、あたかも時空間を捻じ曲げているようだ。


 男の背後に吹き荒れた殺意の波動。

 引き絞られた力が解き放たれる、まさにその時――。


――ありがとよ。


 感謝の言葉とともに、ロンは自ら獣面を剥ぎ取った。


「――!!!!?」


 瞬間、ジョーが血相を変えた。

 その双眸を最大限に見開き、牙を噛み締める。

 全身の筋肉をバキバキと鳴らして、全力で解き放った力を――押さえ込む!


 この力で面無しを殴ったら『殺すどころでは』済まなくなる。

 その体は爛熟した果実のように爆裂し、世にもグロテスクな光景が出来上がるだろう――。


「――グウウウ!?」


 偉大なる自制力を発揮して、獅子の拳は、ロンの眼の前わずか数cmで停止した。


――言葉が足りなかったぜ。


 続いてパサリ、布きれが叩きつけられる音。


「!?」


 獅子の顔面に覆い被さるオオカミ面。


「本気でやってもあんたは死ぬんだ!」


 獣面を脱ぎ捨て、面をもたないただの『ヒト』となったロン。

 全身に残されているありったけのエネルギーをかき集めて――。


『『『『ゴッ!』』』』


 その左拳を、獅子の横面めがけて叩きこんだ。



 * * *



 しばしの静寂。

 彫像のように動かない二つの体。

 やがて客席のいずこから奇声があがる。


――アーオゥッ!?


 それを機に爆発する8万人の絶叫。


――ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!


 巨大なセントラルコロシアムの外壁が何もかも消し飛ぶかと思われる程の大喝采。


 コロシアム外のオーロラビジョンで観戦していた有象無象の面無し達が、そしてテレビ中継を通して観戦していた150万の住民が、同時にサヴァナの大地を蹴って飛び跳ねた。


――ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!


 そのエネルギーが無視しきれない地響きとなって、戦士達が立つフィールドを揺るがしていく――!


 客席のあちこちから鳴り物の音が上がり、嵐のような喝采が降り注ぎ、高い口笛の音が右へ左へ飛び交った。

 そしてありとあらゆる物体が投げ込まれてくる。


 座布団、空き缶、ペットボトル、シャツ、ジャケット、ズボン、パンツ、トウモロコシの芯――。


 広大なフィールドはあっと言う間にゴミ溜めと化す!


「……くっ」


 そんな中、ようやくジョーがよろよろと後ろに下がった。

 2歩、3歩と足を下げ、信じられないといった表情で、そっと殴られた右頬を押さえる。


――ザマアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!


「だから言っただろう……」


 振り切った拳を引き戻す。


「あんたの『魂』が死ぬって!」

「……むうう!?」


 放心しきった表情のジョーが、ロンの顔を見つめる。

 いま獅子の眼に映っているものは、生まれたままのヒトの素顔。

 サヴァナで最も弱い生物である、面無しの顔だった。


――獅子が殴られた!

――ただの面無(ゼブラ)に!


 まさに、面目丸つぶれ。

 ロンの起死回生の卑怯戦術は、『伝説の獣面脱ぎマスクオフ』として語り継がれることになる。


「フッ……」


 やがて、観念したように獅子が笑った。

 もし拳を止めなかったとしても、ジョーは獅子長として死んでいただろう。

 卑しい面無の返り血を全身に浴びて、二目と見られない姿になっていたはずだ。


 ともすれば、その返り血をもって獅子への一撃とみなすことも出来よう。

 いずれにせよジョーの魂が、死に等しい程に傷つけられたに違いない。


「……これがサヴァナか」


 静かに目を閉じて息を吐き、再び確かめるようにして殴られた頬を撫でる。

 尋常ならざる気迫を纏っていた獅子が、今は二周り以上も小さくなっていた。


「ぐっ……ふぅ……!」


 ロンは立っていることすら苦しく、ついにその場に膝を突いた。

 それと同時にジョーが、高く右手を上げてひらりと振った。


 場内に轟くファンファーレ。

 あらかじめ、演出を用意してあったのだ。

 全てのスポットライトがカプラに当てられ、金の山羊を納めていたカプセルが降りてくる。


 そして間もなく大階段に着陸。

 自動的に留め金が外されて、カプセルが真っ二つに割れた。

 そこからカプラが、階段を転がり落ちんばかりの勢いで駆け出してくる。


「……ロン!」


 なおも響き続けるファンファーレ。

 カプラは転びそうになりながらも、広いフィールドの上を走ってくる。

 その後ろを、戦いを見守っていたトラが、客の動きを警戒しながらついてくる。


「ロン!」


 ジョーがその場から離れると、それと入れ違うようにして、カプラが飛び込んできた。


「うおおっ……!?」


 地に膝をついていたロンは、飛び込んできたカプラに押し倒された。

 その頬には金色の髭、そして一筋の涙――。


「許してもらえないことはわかってる、でも言わせて……」


 懐かしい花のような香り。

 また会うことがあったら、まずは怒鳴ってやろうと思っていたが。


「ごめんなさい……ひどい迷惑をかけてしまって……」


 そうしてロンの胸に顔を埋めてくる。


 どうして良いかわからない……。

 謝らせるために来たわけではないが、心のどこかでこの状況を望んでいたような気もする。


 しかしそれはきっと、俺の負けん気がそうさせるのであって、けしてカプラを取り戻したかったわけではない。

 あくまでもロンはそう思っておく。


「べ、別に……ゲッホ……お前にためにやったんじゃねえ……」


 だから何とか、それだけ言って答えとした。


「うん、いいの……そんな貴方を私は好きになったのよ……ロン!」


 良くわからないが、どうやらカプラの望むようになったらしい。

 しかし、いつまでこうしていれば良いのだろう?

 いい加減、疲れ果ててしまった。


 まったく女ってやつは、どうしてこうも相手の状況を気にしない。

 さっきから頭がクラクラして目蓋が重い。

 出来ればこのまま、横になってしまいたいのだが――。


――ドドドドドドドド……!


 その時にわかに、地鳴りのような音が響いてきた。

 ジョーに向かって走ってくるトラが、血相を変えて叫ぶ。


「やばいぞジョー!」


 それで何となくわかった。


「暴動だ!」


 どうやら、お行儀の悪い連中がフィールドになだれ込んできているらしい。


 しかし、一体どうしようというのか?

 ロンにはさっぱり理解できない。

 ここにはおっかねえライオン様が、トラまで従えて立ってるというのに――。


「まったく、世話の焼ける連中だ……」


 思ったとおり、さっそく好戦的な表情を浮かべるジョー。


「では第二幕と行こうか!」


 そう咆えて、今度はロン達を守るべく背を向けるジョー。


 にわかにぼやけるロンの視界。

 世界がぐるぐる回っている――。


「……ロン?」


 この先のことはどうでも良いとロンは思った。

 とにかく俺は、あのライオン野郎をぶん殴った。

 それで何もかもみんなOKだ。


 だからもう――。


「ロン……? どうしたのっ? ロン!」

「…………」


 いい加減……休ませてくれ!

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