第9話 Lick:舐めて

「二見さん、Kneel〈おすわり〉」


私は言われた通りにぺたんと床に座り込んで、相馬くんを見上げる。鍵を閉めた二人きりの教室でプレイは始まった。

自分がSubだと自覚しているからなのか、あの時のように身体が操られる恐怖はなかった。むしろ相馬くんの命令が、見下ろすその視線が、やけに心地よく感じてしまう。


「両手は揃えて床につけるんだよ。…そう」


お尻をつけて地べたに座り、上から見下ろされ、本当に犬にでもなった気分なのに屈辱さえ感じないのはやはり自分がSubだからだろうか。そんな趣味を持っている覚えもないし、どうかそうであってほしい。


「Come〈おいで〉。僕の膝の上、頭乗せて」


椅子に座っている相馬くんは、自分の膝をぽんぽんと二度叩いてそう言った。言われた通りにもたれると、相馬くんは微笑んで頭を撫でた。


「いい子」


「んー…」


頭の中がふわふわする。全身が暖かい湯船に浸かるような安心感。快楽で満たされていき、物を考えるのが億劫になる。


「…その、いつも言ってくれる“いい子”って、プレイの一環…?」


「そうだよ。支配されたい、管理されたい、褒められたい、守られたい…っていう色んな欲求が、一概に“従属欲求”ってまとめられてる。命令だけがプレイじゃない」


確かにそうだな、とぼんやり思考する。

コマンドを受けるのと同じくらいに、“いい子”の一言は頭の中に甘やかに響く。


「気持ちいい?」


「きもちい…」


「僕もすごく…満たされてる」


この姿勢では相馬くんの表情は見えなかったけれど、身体や脳までも締めつけるような優しいグレアの感覚や、その恍惚とした声音から相馬くんの言葉が本当なのだと分かった。




プレイは大体、一ヶ月に一度の頻度で行われた。

簡単なコマンド、それからたくさん褒められ頭を撫でられ、その一回で十分過ぎるほどに一ヶ月分の従属欲求は満たされた。

約束は二つ。一つは、嫌だと思ったら迷わずセーフワードを使うこと。もう一つは――『私の主人は相馬くんだけ』。私たちは主従関係なのだから、他のDomの命令に従うのは、言ってしまえば浮気と同じことなのだ。




特に事件もなく、穏やかに順調に時は流れた。


夏が来て、それから過ぎ去り、まだ暑さの残る九月。高校生活で最大とも言えるイベント、修学旅行がやってきた。行き先は――沖縄。


「…二見さん?」


「……はい」


集合場所の羽田空港で、キャリーバッグにリュックサックを重ねてその上に突っ伏していた私は名前を呼ばれ、顔を上げた。

心配そうな顔をした相馬くんが目の前にしゃがんでいた。


「具合悪い?」


「ちょっと眠いだけ。…後で話したい」


相馬くんは何かを悟ったように、こくりと頷いた。

言うまでもなくダイナミクス関連のことで、周りに大勢の生徒がいる今の状況では話せる内容じゃない。



その日の夜。宿の大浴場を一人早めに出た私を待ち構えていたかのように、相馬くんは廊下の突き当たりの人気のない場所まで私を引っ張っていった。


「…朝より酷くなってない?」


無意識なのだろう、やや険のある声と共に相馬くんはほんの少しグレアを放っていた。

限りなく微弱なのに、その感覚を覚え込んだ私の身体は敏感に反応してしまう。膝から力が抜けるのが分かる。…コマンドが欲しい。支配してほしい。

今、私は限りなく飢えていた。


「…欲しい」


その一言で相馬くんは何のことか理解したみたいだったが、首を横に振る。


「ここじゃダメだ。…一体、何があったの」


「私…」


言いかけた時、向こうの方から足音が近づいてくるのが聞こえた。相馬くんが間一髪で私を観葉植物の横の死角に押しやると、やってきたのは先生だった。


「あ、先生どうも。自販機ですか?」


「相馬、お前もか」


小銭をチャリンチャリンと入れるとボタンが押され、ガコンという音と共にペットボトルが落ちる音がする。


「そういや相馬と同じ部屋だったよな、中村やら高峰やらの問題児集団は。お前が上手く御してくれよ」


「へー、僕は問題児リストから抜いてくれてるんですね」


「いや、そういやそうだったな」


ははは、という笑い声と共に、物陰に隠れる私に気づくことなく先生は去っていった。

相馬くんはその後ろ姿を見届けると急いで私の所に来て、「場所を変えよう」と囁いた。


私はただこくりと頷き、壁に体重を預けてなんとか立っていた。

相馬くんは私の頭に手を置いたまま、スマホを取り出して誰かに電話をかける。


「あ、西木。今…佐野原って四組の?うん、ちょっと遅れる。…分かった」


タンっと画面をタップして通話を切ると、少し強引に私の腕を引いた。


「僕の部屋行こ」


エレベーターをおりると、幸運にも廊下には数人の生徒しかいなかった。その彼らもこちらの様子は気にする様子も見せず喋りに夢中だったので、相馬くんは堂々と自分の部屋を開けて私を押し込んだ。


もつれる自分の足に引っ掛けて転びそうになりながらスリッパを脱ぎ、並べられた布団の上へ連れていかれる。


「Kneel〈おすわり〉」


待ってたとばかりに、私はがくりと布団の上に膝をついた。そのコマンドはもう、耳で聞いて脳で意味を理解する前に、反射で身体が動くように馴染んできていた。


「何故こんなことになってるのか教えて。二週間くらい前に、今月のプレイは済ませたはずだけど」


私は下を向いて、揃えられた自分の指先を見つめながら口を開いた。


「私、昨日と今日、抑制剤飲んだ…」


「Look〈こっち見て〉」


見えない何かに顎を持ち上げられるように、相馬くんの方に顔を向ける。今にも泣きそうな、情けない自分の顔を見せるのは嫌だった。けれどいつにも増して強いグレアに私の身体は従わざるを得ない。


「…抑制剤、飲んでないこと知られて。…それで昨日と今日…」


これまで飲んだふりをして手をつけなかったり、捨てたりしていたDom用の抑制剤。しかし目の前で飲めと言われれば、誤魔化しはきかない。

お母さんに悪気は微塵もない、むしろわざわざ私のことを心配しての行動だということを十分理解している。


「…ごめんなさい」


「よく話せたね。いい子」


訳のわからない涙が滲む。プレイ中は情緒がおかしくなる。相馬くんがしゃがんで差し出した手のひらに、夢中で頬を擦り寄せた。しかしいつもみたいに、急速に満たされていくような感覚はない。


Dom用の抑制剤は、Subには従属欲の促進剤になるのだ。底無しに思えるほどの欲求が渦を巻いて苦しかった。足りない。

数ヶ月間飲むのを辞めていたのを、いきなり服用したせいだろう。抑制剤は慣れない身体に過剰な効果を及ぼした。


あぁそうか、あの薬は欲求不満による“体調不良”を抑制するのではない。欲求を抑制しているのだ。その意味にやっと気づいた。


「二見さん、セーフワードは」


「…ギブアップ」


「お利口」


確認を取ったのは久々だった。セーフワードを言わなければいけないようなことを、これからするのだろうか?身体にぞくりと痺れが走る。


「“Lick”…舐めて、の意味」


初めて習うコマンドだった。

目の前に出された相馬くんの指。これを…舐めるのか?

恐る恐る顔を近づけ、それからその指先を口に含む。


「…上手。そのまま舌使って。…噛んだらダメだよ」


無我夢中で、言われた通りに相馬くんの指に舌を絡めた。その指が歯列をなぞるように動いたり、喉の辺りを掠めても噛んじゃいけない。咳き込んでもいけない。ただ、命令の通りに…そうすれば…。


「いい子だね、二見さん」


耳元で囁かれた瞬間、身体中がぽかぽかと火照り始めた。ようやく頭がふわふわと軽くなる感覚が訪れる。


「…はは、蕩けきった顔。気持ちいい?」


「ひもひい…」


「僕もだよ。ありがとう」


相馬くんは指を引き抜いて自分も布団の上に腰を下ろすと、その膝に私の頭を乗せるように命じた。


いつもは椅子に座る相馬くんの膝にもたれているけれど、こういう膝枕はお互いに顔を見合わせるのが少し気恥ずかしい。


「嫌じゃなかった…?」


遠慮がちに尋ねる相馬くん。私は目を閉じた。


「…嫌じゃ、ない」


「そっか」


――普段しないことや、恥ずかしいことを要求するコマンドはその分、欲求を満たしやすいんだよ。Kneelなんかよりもずっと、ね。

どこか遠くから聞こえてくるような相馬くんの言葉をゆっくり消化しながら、ふわふわとした感覚から醒めるのをしばらく待った。

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