冷凍された真夢

棺之夜幟

序章 冷凍美人

第1話

 八月某日、自宅の冷凍庫が閉まらないので、困っている。


 ある日の朝、冷凍庫の扉が閉まっていないことに気づいた。その日は、昨夜閉め忘れたのだろう。そう思って、一度扉を閉めて、家を出た。それでも冷凍庫は閉まらずに、楽しみにしていたアイスも冷凍うどんも溶けてしまった。もったいないと思いながらも、渋々、食べられるものだけ細々と食べていった。

 どうやら、冷凍庫の扉の中にある磁石が、破損したか何かで、閉まらなくなってしまっているようだった。


 自宅の冷蔵庫は、冷凍室と冷蔵室の電源を別々に切ることが出来る。仕方なく、僕は冷凍庫電源を切って、冷蔵庫だけでの生活を始めた。この冷蔵庫は、アパートの備え付けで、大家のババアに相談しても、奴は金を渋るばかりで、空き部屋の冷蔵庫との交換や、修理などの話は引き出せないままだった。エアコンも無い、夏の暑さばかりのこの部屋で、冷凍庫が無い、アイスクリームも無いというのは、過酷なことだった。


「と、いうわけだ。お前の部屋の冷凍庫、場所を少しばかり貸してくれないか」


 我慢しきれずに僕が頭を下げたのは、隣部屋の住人で、学友である小清水だった。僕が言った言葉を咀嚼するように、小清水は煙草を吹かす。大学構内で唯一の喫煙室は、外気との換気が一番効率よく、他の部屋よりも涼しいため、僕達の憩いの場でもあった。


「見返りに、実家から送られてくる米をやろう」

「要らん。こっちは実家から山積みに素麺が送られてきている。寧ろお前、消費しろ。めんつゆもくれてやる」

「うちも祖母ちゃんから素麺貰うんだよ。めんつゆは寄越せ。いや、それより、祖母ちゃんが送ってくれるアイスが食えなくなるのは辛い。好きに食べても良いから、アイスを置く場所をくれ」


 小清水はハッとほくそ笑む。じりじりと音を立てて、灰皿に煙草を押し付ける。


「駄目だ駄目だ。今、夏だぞ。俺だって自分のもので冷凍庫は満杯なんだよ。諦めて、食べるときに食べる分だけ買えよ。案外、節約になるかも」


 クククっと小清水は笑う。シャツを直して、喫煙室を出た。僕はそれに着いて行ったが、何度頼み込んでも、小清水はうんと言わない。反対隣の部屋が空き部屋であることに、久しく絶望感を感じた。


 暫くして、そろそろ、小清水に迫るのも、うざったいかなと諦めていたころだった。アルバイトに行くために、早朝に眠い目を擦っている時だった。ふと、台所に立つと、違和感を感じた。


 いつも、パカパカと馬鹿の開いた口のように閉まらない冷凍庫の扉が、キッチリと閉まっているのだ。それは、健在だった頃のそれを思い出す。詰まっていた物が取れたか、今迄のことが夢だったように、ピッチリと冷気を逃すまいと、冷凍庫の扉は閉まっている。


 僕は喜びを抑えながら、確認のために、扉に手をかけた。しっかりと硬い手応えが、磁石の触感を表している。立ったまま、グッと力を込め、僕は腕を引いた。パカりと扉が開く。瞬間、悪寒にも似た冷気が僕の足元を這った。


 おかしい。

 何故冷たいんだ。


 僕の背筋に何かが走るようにして、伝う汗を逆走する。

 僕は扉が壊れてから今まで、冷凍庫の電源を入れていない。中身を見ずに、僕は後ろの電源盤を確認する。やはり、電源は入っていない。もう一度、冷凍庫の扉を開けた。

 冷気は僕の足の指の間を舐めるように、部屋を満たしていく。薄暗い部屋に、冷凍庫の冷たい光が入り込んでいた。

 あぁ、確かに、動いている。冷気をこの小さな空間に、満たしている。

 不可思議な現象に、どうも配線がおかしくなっているということかと、首を傾げた。僕は身をかがめて、空の冷凍庫の中身を覗き込んだ。

 

 唐突な、ギュルリと胃の上部が液体で満たされたような感覚に、僕は口を押さえた。背中に体重を落として、そのまま尻を床に叩きつける。

 目の前を満たす赤と黒、そして白のコントラストが、非日常を主張する。空のはずの冷凍庫の中身は、赤黒い何かで満たされて、遅れて鉄錆の匂いを運ぶ。

 そのコントラストの正体は、白く艶かしい肌の女の、死体だった。

 よく見たくもないそれを、逃げ場のない部屋の中で、僕は見つめていた。暫くして、冷静さを備えた狂気性が、僕の脳を埋め尽くす。

 とても、それが綺麗に思えるようになってしまった。よくよく見れば、それは、上半身のみで、だいぶ重要な、下半身を欠いている。凍った血の大部分は、下半身と切り離された部分から流れ出たのだと確信できた。黒く長い髪には、霜がついて、全体的に水分を含んだ瑞々しい女だったのだとわかる。白濁した眼球が、物言わぬそれを象徴する。


 触れてみたい。


 そう思って、僕は冷凍庫の中に手を伸ばす。すぐに、ぐらりと視界が混ざって溶けた。嘔吐感と高揚感は眼孔に対する圧迫感に変わっていった。

 

 スマホのアラームが鳴っている。現実に引き戻された僕は、眠気を吹き飛ばす程に強い鼓動を感じていた。空虚な脳のまま、ベッドから身を起こし、ゆっくりと、重力を全身に感じながら、無意識に台所へ向かう。

 ずるずると後から追っかけてくる感情の中には、恐怖や畏れとも言えるものが含まれていた。それでも僕は、足も手も止めなかった。

 冷凍庫を見た時、僕はやっと追いついた感情を、手で握りしめていた。

 馬鹿の口のように開いた冷凍庫の扉は、僕を慰めるように、暗い中身を見せている。グッタリと、中身のない常温の冷凍庫の前で、僕は思わず宙に笑みを溢した。

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