黒い市壁

 宵、夜の帳が天を覆って少しの頃、第四市環レムスの中央は、まだ静寂に包まれていた。

 第三市環跡アウグ=ラダと呼ばれる、市街を二つに割る用水路の付近は、数日前に突然の点検が布告されて以来、ひと気が失せている。こんな時間に通るのは、貧乏籤を引いた夜警だけだ。

「思うに、これは懲戒だな」

 警邏のひとりが呟いた。辺りは人っ子一人いない。出くわすのは同類だけだ。

「あの幽霊騒ぎで立入禁止にしたのだろ、それの手伝いじゃないのか」

 相方が返す。二人は市警兵の服でなく、宮廷衛士の格好をしていた。

「いや、隊長が何かやばいことに首を突っ込んだらしい」

 それで宮廷衛士隊が市警の如き夜回りに、そう合点がいったのか、大きく頷く。

「クラインが牢に入れられた、あれか」

 腕を組み、唸る。

「まあ、いつかはそうなると思ったが」

 ふと、用水路に目を凝らしたまま押し黙る相方を覗き込む。視線を追って、水面を見た。

「何か、」

 雨でもないのに、小さな波紋が無数に散って行く。

 鈍い音を靴底で聞いた。見る間に水面が細かく沸き立った。まるで砂粒を敷き詰めたように白くなる。地の奥底に鼓を打つような響きが続き、やがて水底から巨大な気泡が盛り上がった。

 二人は申し合わせるまでもなく、脱兎のごとくその場から逃げ出した。

 一拍の静寂の後、用水路を挟んだ一帯が大きく波打ち、破綻した。空に向かって水流立ち、地上に落ちて水煙を上げる。建物が割れて擦り上がり、削れた瓦礫が積み上がって行く。

 瓦礫や土砂や建物が、用水路の水と一緒に夜空に長い尾を引いて立ち上がった。否、空ではない。浮いてはいない。下に漆黒の壁がある。夜になお暗い、黒い水晶でできた市壁だ。

 それはかつての第三市環アウグ=ラダだ。四〇〇年前に失われた、魔晶石の市壁だった。


 大きな揺れは収まったものの、今も遠くに音が聞こえる。落石のような、雨垂れのような。その音と共に地面が震える。それはおそらく第二市環ガウスの先が源だろうと思われた。

 第一市環オーデンの西翼、壁が北を向く辺り、宮廷環アルプの際にマリエルとコルベットは立っている。壁龕の影に王権通廊の開口があり、二人はそこでキャスロードを待っていた。

 王都の地盤が揺れるなど、二人は想像したこともなかった。おそらくこの国の誰もがそうだ。人通りの少ないこの辺りにさえ、にわかに気忙しい人の動きが伝わって来る。

 二人がいるのは宮廷環アルプの古い装飾壁の下だが、被害はせいぜい、降った埃に咽るほどだ。幸いこの辺りに崩落や地割れなどは見当たらず、今のところ、遥か震源地の方向にも炎の照り返しはない。

 好奇心は疼いたが、まだここを離れる訳にはいかなかった。

 キャスロードがこの地下を通る。通りを横切り、第一市環オーデンにほど近い上級拘留棟を往復している。避難路として造られたという王権通廊は堅牢だが、少しは不安もあった。

 今すぐ飛び込みたいのは山々だが、何せ二人だけでは入れない。

「もう少し待って、帰って来なければ拘留棟に行こう」

 マリエルが囁いた。ここでは北に伸びる宮廷環アルプの周路の向こうに、市警兵庁舎ある。今は蜂の巣を突ついたような騒ぎだ。それを抜けた先にあるのが上級拘留棟だった。

「入れてくれるとは思えないけどね」

 投げやりに応えるコルベットの前を、早掛けの馬車が走り過ぎた。この騒動で市警の往来が激しい。二人は壁に寄って身を潜めた。王女の御付きが出歩く時間でもないからだ。

「そのときは押し入るまでだ」

 思いつめたマリエルの口調をからかうように、コルベットはにやりと笑った。

「勝手なことすんなって、また二人で言われちゃうかな」

「馬鹿者、勝手なことを言うな」

 二人は首を竦めて飛び上がった。慌てて市壁を振り返ると、壁龕の隙間から白い頭巾の先が覗いている。二人はキャスロードに駆け寄ると、絞ったランタンを翳して無事を確かめた。

「お怪我は?」

 頭巾を上げようとしたマリエルの手を止め、キャスロードは首を振った。

「それより、あの揺れはなんだ」

「いや、それが皆目、第二市環ガウスの向こうで何かあったとしか、工房が下手を打ったのかも知れませんが、殿下?」

 コルベットが言葉の途中で頭巾を覗き込む。マリエルも同じもの感じ取った。

 今夜、塞ぎ込んでいたキャスロードが、ようやく行動を起こした。良かれ悪かれ、クランに会って王女の感情が揺れるだろうとは、二人も想定していた。だが、思いのほかキャスロードの気配が重い。

「殿下、クラン殿とは、その」

 マリエルが怖々と声を掛けるや、一台の馬車が言葉を掻き消すほどの制動音を鳴らした。行き過ぎず、三人の前に停車する。大振りで堅牢、小旗は国印だ。宮廷の御用車両だった。

 二頭馬の鼻息と懸架装置の排気が重なって震えた。黒々とした車体の端には側方灯が点々と輪郭を示し、馬身の脇に吊るした照明が路面を煌々と照らしている。御者が目礼して解錠を告げた。

 引き扉が滑って昇降台が下りるや、硬い靴音が鳴った。暗がりに顔を確かめるまでもなく、エレインだとわかる。暗に了解を得ていても、マリエルとコルベットは無意識に首を竦めた。

「お迎えに上がりました殿下、館に戻られますよう」

 歩み寄る数歩で三人の表情を読み解いて、エレインはキャスロードに告げた。

「あの揺れだな、何が起きたのだ」

 キャスロードが問う。先ほどの大きな揺れ、今も続く音の原因が知りたい。エレインは微かに頷いたが、先に御者台を振り返り、馬車の回頭を促した。この先には宮廷環アルフを越える通用門がない。

第四市環レムスの中央水路一帯が崩落したとの報がございました、状況確認と避難誘導を実行中です」

「まさか、第三市環跡アウグ=ラダかな」

 コルベットの呟きに、エレインは一瞥で応えた。

「確認中です」

 エレインの表情は変わらないが、こうして言葉を重ねるのは、不確かな情報であっても告げた方が理があると判断したからだろう。本来なら、それはエレインの好むところではない。

「市壁と同等の範囲で黒い塁壁が隆起し、其処より無数の黒い獣が出現して内環に向かっているとの報告もございます」

「黒い、獣?」

 マリエルが記憶を辿って息を呑む。大空洞で聴いたカーディフ大公の謀反だ。宮廷の大半を昏睡させた古魔術の獣。物理の刃が効かず、ラルクの切り結んだ相手には人型のものもあったという。

「エレイン、私は儀式堂に行く」

 顔を上げ、頭巾の影の顔を向けたキャスロードに皆は息を詰めた。引き結んだ唇、今までにない強い瞳がそこにある。だが、泣き腫らした目許を擦り上げた跡は、隠し切れていなかった。

 キャスロードは歯を食いしばって堪えている。

「殿下、何が、」

 王女はマリエルとコルベットを遮って言った。

「これは叔父上の残した災厄だ、止められるのは私だけだ」

「クラインがそう言ったのですか?」

 エレインが問い返した。

「クランは」

 堪えきれずに言葉を詰めた。勝手に零れた涙に気づいて、慌てて目を擦る。

「私が行かねば、私が、父上の帰還を待っている猶予はない」

 そう言い切った。例えエレインに叱り飛ばされても、その目に引く気は微塵もなかった。

 馬沓と車輪の音が近づいた。回頭した馬車が、宮廷環アルプの周路を空け、路肩に停車する。黒々とした影が四人を隠した。市壁に掛けた道路灯が、馬車の屋根を照らしている。

 手前の交差路に光を投げて、市警兵舎の馬車が通りに出た。

 前照灯が南を向いたそのとき、光跡がくるくると宙を向き、鈍い音と短い馬の悲鳴が響いた。馬体と思しき黒い塊が、宮廷環アルプまで滑って行く。梶棒が折れ飛び、車体が横を向いて傾いだ。

 対向車にぶつかったのか。それにしては気配が変だ。音を立て、傾いだ車体が何度も揺れる。車軸が折れ、膝を突くように横転した。衝突のせいではなく、押されたような倒れ方だ。

「殿下」

 キャスロードの視界には既にエレインの背中がある。その前には、マリエルとコルベットが身構えている。馬車の隙間に、捩じれた格好で投げ出された御者と、飛び散った破片が見えた。

 横転した馬車の車体が、軋みを上げて撓んだ。燈の光筋に踊る埃の渦、それを反転したような黒い蠢きが、馬車の上に伸し掛かっていた。道路灯が炙り出した微かな輪郭は、巨大な獣だ。

「これは、驚きだ」

 コルベットが半笑いの呟きを洩らした。目は射るように獣を睨め付け、手は懐の施術管を探っている。傍のマリエルは白刃を向けていたが、剣の間合いを読みあぐねているようだ。

「もっと師匠に話しを聴いておけばよかった」

 獣の輪郭は影とも煙ともつかず、目鼻も見えない。存在に焦点を欠いており、剣を振るう勘所がまるでわからない。だが、市警の馬車を抉り裂くほどの実体があるのは確かだ。

 黒い獣が身を躍らせた。

 コルベットが施術管を投擲し一語の短縮詠唱を口にした。間合いを合わせて目を眇め、弾けた光を潜ってマリエルが前に飛び出した。前脚と思しき伸びた黒い塊を斬り上げる。

 薄い泥を斬るような感覚があった。

 獣が身を返して距離を取った。斬り飛ばしたはずの前脚は跡形もなく霧散し、対峙する獣はどこにも欠損がない。斬るには斬れるが一時凌ぎだ。殺し処が判らない。マリエルが呻いた。

「どうすんの、これ」

 コルベットも背中で呆れたように呟いている。

 不意に光芒が路面を追い越し、前に伸びて獣を照らした。警笛と制動音が同時に鳴って、背後に車輪の音が来る。マリエルとコルベットを掠め、馬車が黒い獣に突っ込んで行った。

 馬が外れて身を躱すように逃げた。車体が尻を振って滑る。横転した馬車との間に獣を押し潰そうと、車輪が路面を引き毟る。獣が跳ねた。突っ込んだ馬車の天井に身を乗り上げる。

 馬車の窓から杖の先が覗いた。かちん、と機械式の詠唱を鳴らすや、唐突に獣が霧散した。文字通り、弾けるように掻き消える。杖から落ちた空の施術管が、石畳に音を響かせた。

「ご無事ですか」

 潰れた御者台から上擦った声がする。まずは自分に問うべきだ、と皆が呆れてそう思った。御者がもがくように帯を解き、歪んだシートから這い出した。らふらふらと車体に回り込む。

「アディ」

 コルベットが呆然と呟いた。アディ・ファランドは馬車の扉を引き開け、杖を手にしたラエル・アル・ラースを路上に降ろした。盲目だが、弟子よりも遥かに足許がしっかりしている。

 マリエルが、何故ここに、と問いかけて、魔術師塔にほど近いと思い出した。この騒動に、宮廷魔術師が宮廷に招集されるのは想像に難くない。だが、驚いたのは向こうも同じのようだ。

「殿下、こんな所で、」

 言葉を掛けつつ歩み寄ったラエルは、キャスロードの気配を嗅いで口を閉じた。普段は人を避けている癖に、ラエルは空気を読むことに長けている。問うように顔をエレインに向けた。

「あれは、同じものですか」

 だが、エレインは言葉短くラエルにそう問い返した。彼らだけが知る、あの魔物ではないのか。

「そうだね、一〇年前と同じ施術だ、だが解せない、あれは防衛装置の一種であって、王印の制御なしに起動するはずがない」

 ラエルはそう答えて、呟くように独り言ちた。

「あの揺れに反応した可能性はあるが」

「探求は後で、まずは殿下を」

 エレインが遮った。

「ラエル、一緒に来い」

 キャスロードが不意に割り込んで言った。目深に頭巾を被ったまま、ラエルに告げる。

「我はこの騒ぎを止める方法を知っているのだ」

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