大公事件(1/6)

誘拐

 厨房の扉が消え失せた。千切れるほどの勢いで、廊下の壁に撥ねていた。外れて飛んだ把手が転がり、壁に当って、こつん、と鳴る。厨房の中の三人は、何となくそれを目で追った。

 戸口に立つのはエレイン・オーダー、第二王女付きの宮廷女官だ。若いが身形に容姿に隙がなく、黒の女官服には無意味な皺のひとつもない。嗜虐を好む一部には、何故か絶大な人気を誇っている。

 ところが、いつもは冷えた氷の目許が、今は微かに朱らんでいる。確かに、身体の端まで規律でできたエレインが、官営厨房の把手を捩じ切るなど尋常ではない。怠惰な同輩たちの首ならば兎も角も。

 無意識に戸口から目を逸らした三人は、准魔術師ニオフェイトのラエル、宮廷料理人のラルク、客員学士のクランだ。賄いの煮込みを肴に厨房の作業台を囲み、いつものように他愛もない管を巻いていた。

 同じ宮廷勤めだが、エレインは彼らの天敵だった。いつも怖いが、いつもと違うエレインはもっと怖い。それが目の前にいる。

 ラエルは麻痺したように竦み上がり、ラルクは自分は物言わぬ鍋だと思い込もうとしていた。不穏な空気を嗅ぎ取ったクランは、串を口に銜えたまま、逃げ場を探して四方に目を走らせている。

 エレインはつかつかと歩み寄り、一歩ごとに震える三人などお構いなしに、睥睨して言い放った。

「殿下が誘拐されました、貴方がたに過度の期待はしませんが、知恵を出しなさい」


 エレインは勝手に状況を語り始めた。


 馬鹿話に現を抜かしていた三人の近くで、どうやらとんでもない騒動が起きていたらしい。厨房のすぐ傍にある宮廷では、戦の如き臨戦体制が敷かれ、王族の母屋は完全に封鎖されているという。

 気づかないのも間抜けな話だ。エレインの抉るような冷たい目線がものすごく痛い。

 折も折、侍従舎の用向きで外にいたエレインは、急いで取って返したものの、既に殿下の寝所は閉鎖され、中に入れない。これが三人なら不貞腐れて帰るところだが、エレインは違った。

 せめて近くに、と母屋に隣する控えに向かった。

「仕事熱心なことだ」

 茶々を入れようとしたクランは、エレインの目線に気圧され、尻すぼみに口籠った。

 だが、エレインは向かった廊下の詰まりで、殿下の夜着の香に気がついた。花壇にはない自然の草花だ。自身の探した香だから間違いはない。その香がある理由は、ひとつだけだ。王女が近くを通ったのだ。もしかしたら、その壁の向こうを。

 エレインが歩哨に詰め寄るも、閉鎖は解かない、確認しようがないの一点張りだった。解錠には幾重もの確認が必要だ。何より、王女の在室を確かめもせず閉じるはずもない。王女の香などエレインの気のせいだ。

 殿下はとうに寝ている時間だった。もし、その確認が遠目に部屋を覗いただけだったら。壁際の香が、奥の隠し通路から漏れたものだとしたら。そう思うと、エレインはじっとしていられなかった。

「まあ、殿下ならありえなくもないな」

 歯切れも悪く、クランが呟いた。以前、殿下のおねしょを誤魔化す際に、二人してベッドに花瓶を放り投げ、代わりに寝かせて逃げたことがある。無論、エレインに見つかって酷く叱られた。

 おかげでクランは御守り役を外されたが、殿下はたまに、その手段を使うらしい。

「モルダスさま付きの学士が、どうして殿下の御守り役なんかやってたの」

 ラエルが頭に疑問符を浮かべ、呆れたような、感心したような顔で訊ねた。

「いろいろ、予定が狂ったんだ」

 クランが口を尖らせる。三人のうち、知り合って一番浅いのがクランだが、モルダスが招聘したという以外は、何をしているのかもよくわからない。兎に角、変な場所で変なことをしているのが彼の常だ。

「それはともかく、宮廷で何が起きたんだ、また黒い獣が暴れたのか?」

 エレインの遣る方ない怒りがクランに向く前に、ラルクが話を進めた。

「大公殿下が脱獄されたとの話です」

「それ、早く言いなよ」

 ラエルが驚いて声を上げた。

 半年前、宮廷で起きた黒い獣の騒動の直後、王弟カーディフが投獄された。箝口令から漏れ聞こえたのは、王権簒奪の噂だった。禁忌の魔術に傾倒し、宮廷と対立したのが発端だという。

 宮廷の騒ぎは相当なもので、衛士、魔術師の大半が昏倒し、陛下、妃殿下も危なかったらしい。一歩間違えば王朝の最期だ。性急な宮廷の閉鎖だが、それを思えば神経質になるのも無理はない。

「だが、大公が関係しているなら、王族の隠し通路も使えるということか」

「いいえ、大公殿下の王印は剥奪されたはずです」

 ラルクの呟きに、エレインが自ら可能性を否定する。端的にいえば、王印は魔術装置の認証だ。王権通廊と呼ばれる隠し通路も、王族に刻印されたその印がなければ、開くことも通ることもできない。

「なら、王女殿下を連れ去る方法がない」

 ラルクが片方の眉を上げる。

「方法など関係ありません。状況が可能性を示しています」

 エレインは譲らない。

「そんな、乱暴な」

 ラエルが小さく呟いた。勿論、面と向かってエレインに反論する勇気はない。

「まあ、理由ならあるだろう」

 クランが言った。ラルクが驚いて振り返る。

「そうか、王女殿下の王印だ」

 気づいたラエルが代わりに答えた。

「だから王女殿下を攫ったのか」

 いま現在、刻印された王族は四人だけだ。即ち、王、王妃、第一王女、そして第二王女のキャスロード殿下。人質としての御し易さを考えるなら、まだ三歳のキャスロードだろうか。

 二人の王女の寝所は同じ棟にある。たまたま手近に選んだ部屋がキャスロードだった可能性もある。だが、元王族とはいえ、そう易々と宮廷に侵入し、王女を攫えるものだろうか。

「しかし、脱獄して追われる身が、わざわざ危険を冒してまで宮殿に来るか?」

 ラルクは納得が行かない様子だ。宮殿への侵入、王女の誘拐、そもそも、脱獄までもが非合理だ。過去に多少の浮名はあったが、近年の理知的な大公には似合わない行動だと感じていた。

「魔術師が理性的なのは外見だけだよ」

 ラエルが言った。

「探求に取り憑かれたら、何だってする」

「そうだなあ」

 間の抜けた相槌に聞こえたのは、思案するクランの独り言だった。

「もしも殿下を手に入れたなら、王権通廊は通れるだろう、でもその後は?」

 考えた先に顔を顰める。

「俺なら、三歳の子供を連れて逃げ回るなんてごめんだな」

「では、目的は?」

 エレインが訊ねた。彼らの戯言に耐えていたのは、こうした行動の糸口を得るためだ。

「自分の王印を取り戻す」

「王家の儀式場だ、旧王城だね」

 ラルクとラエルが声を上げた。それこそ、王族以外に立ち入ることのできないこの国の零地点だ。ある意味、封鎖された宮廷よりも硬く閉ざされている。エレインの表情が目に見えて強張った。

「まあ、サルカンと護封庁の案件だな」

 クランは両手を広げ、自分たちの手には余る、とエレインに身振りで示して見せた。

「モルダスさまは外遊中だ」

 ラエルが言った。

「陛下も妃殿下もご不在だぞ」

 ラルクが加える。

 クランは二人を交互に見比べ、その視線に顔を顰めた。何故、問うような目をする。おまえなら何か方法を知っているはずだ、と身勝手な圧を感じた。冗談ではない。そんな面倒はごめんだ。

 ふと、エレインの表情に気づいて悲鳴を上げた。何の根拠もないはずなのに、拷問も辞さない顔をしていた。後退っても逃げ場はない。しかも残念なことに、クランはその方法を知っていた。

「旧王城に行く地下道はある、あるにはあるが、そこを通るのは王権蹂躙だ、大逆扱いだぞ」

 エレインはクランを真正面に見据え、感心したように肯いた。

「驚きました、クラン・クライン、あなたが法を語るとは」

 クランにずい、と顔を寄せる。

「ですが、そんなものは些細な問題です、さっさと場所を言いなさい」

「だから、捕まるって」

 そもそも、王女が寝所から消え、夜着の香が廊下に残り、大公が攫って旧王城に向かった、そういう何もかもが、全くの仮定に過ぎない。にも関わらず、旧王城に侵入すれば投獄は確実だ。

 全く割りに合わない。

 だが、浴びせる侮蔑の一覧を端から繰るように、エレインは冷えた眼差しをクランに突き立てる。

「王城倉庫の地下です」

 クランは挫けた。

 不意にクランの景色が回った。エレインが万力のような力でクランの腕を締め上げ、戸口に向かって引き摺って行く。踠いて足掻いて助けを呼ぶも、ラエルもラルクも呆然として動けない。

「何をしているのです、早く来なさい」

 エレインが二人を振り返った。ラエルとラルクが飛び上がる。エレインの目は、まるで引っ掛かった薇仕掛けを見るようだ。動けないなら棄ててしまおう、氷の目がそう言っている。

 二人はぎくしゃくと立ち上がり、慌ててエレインを追い掛けた。

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