マザーが動くところ、誰もがかしこまる


 翌朝、マザーは聖堂で祈りを捧げてからシスター島原を呼んだ。


「午後の予定をすべてキャンセルしたいのです。出かけますので、ご一緒してくださいますか」


 シスター島原の顔が輝いた。


「お供させていただきます。マザー、どちらに行かれますか」

「産婦人科の柚木さんを覚えていらっしゃる?」

「昨年、お嬢さんがご卒業された方ですね」

「昨日お電話をいたしましてね。お伺いするとお伝えいたしました」

「まあ、マザー。あ、あの、申し上げにくいのですが、あ、あの、お下のほうのお身体のお調子が、その、お悪いのでしょうか?」


 マザーはにこやかに笑って、シスターの腕をたたいた。


「違いますよ。お話にお伺いしようと思いましてね」


 柚木保は産婦人科の臨床医である。主に婦人科を専門として、腕が良いと評判の医師であった。彼は国立病院で臨床医として研修を積み、看護婦であった奈美恵と結婚した後、聖カタリナータ初等部近くで産婦人科クリニックを開業した。


「それでは、なぜ柚木さんのところに行かれるのですか」

「向山さんのことをお聞きしたいのです」


 柚木は午前中を診療に当てていた。妻の奈美恵は会計や看護師をして影で支えている。マザーがシスター島原を伴ってクリニックを訪ねたのは休診時間の午後である。修道院から歩いて行ける距離であった。


 黒い修道服姿のふたりがクリニック側ではなく私邸の玄関に着くと、隣人が物珍しそうに、塀越しに覗き込んでいる。


 呼び鈴を鳴らすと夫婦が外に迎えに出てきた。


「今日は、お休みの時間にお会いしていただいて、ありがとうございます」と、マザーは微笑んだ。


 夫の影に隠れながら会釈する奈美恵と鷹揚に頭を下げる柚木。よい夫婦だと思った。穏やかな愛情が夫婦の間に漂っている。


「マザー天神ノ宮さまやシスター島原さまに、このような場所へ足を運んでいただいて光栄でございます。どうぞ汚いところですが、お入りくださいまっせ」


 言葉使いに気を使いすぎて呂律がまわらず奈美恵は舌をかんだ。マザーは気付かない振りをして手土産のクッキーを渡した。


「修道会で作っているクッキーでございます、なかなか評判が良いのですよ」

「恐れいります」


 マザーは通された部屋に入ると、勧められるままに柔らかいソファに身を沈めた。モーツアルトのピアノソナタが流れている。壁際にアップライトの黒いピアノが置いてあった。すぐに奈美恵が紅茶とケーキを運んで来た。


「今日は向山さんのことでお伺い致しました」


 いつものように単刀直入に本題に入った。


「お二人の間になにがあったのでございましょう?」

「特に、なにか、あったわけではない、あっ、ございませんが」と、奈美恵が、しどろもどろになっている。


「私が話しましょう」と、保が引き取った。

「実は向山汐緒さんは私の患者さんでした。もう十年以上になるでしょうか? 医者としての守秘義務に反しますので、これ以上は、お話できませんが。ただ、そのことから向山さんと家内との関係が少し微妙になりました」

「ご病気が理由ですか?」

「まあ、そういうことです」


 奈美恵が遠慮がちな声で口をはさんだ。


「はじめは、特に向山さまの奥さまに悪い感情を持ってはいませんでした。娘たちが同じ小学校に入学して、はじめて、ご一緒だと気がつきました。それでお声をかけようとしたのですが、迷惑そうなご様子で」


 奈美恵は客観的に話そうと努めているようだ。


「私も、だんだんと感情的になったところもございまして、と申しますのも、私が近くにいますと、さりげなくあの方は避けていくのです」

「嫌な思いをされたのですね。わたくしの知っている汐緒さんは、そういう方ではなかったのですが」

「すみません。わたくしの一方的なお話では、向山さまに失礼でしょうが」

「よろしいのですよ。ざっくばらんにお話を伺えると助かります」

「はあ。その……、多くのお母さま方は仕立ての良い紺スーツに身を包んで来られますが、そういった雰囲気に馴染みがなくて、その上に向山さまの態度で、あからさまではないのですが侮蔑されているようにも感じました。わたくしのような人間が来る場所ではないというような。学校での関係は上辺だけな事が多く」


 紺や黒の仕立ての良いブランド物スーツに、アクセサリーは真珠と決まった品の良い集団。派手にならない程度の高級ブランドのバッグ、それが百万以上はするだろうエルメスであったりする。集まりの度に違う高価なバッグを持ってくる母親もいた。


 夫が産婦人科医とはいえ、昨今の少子化で経営はそれほど楽ではないのだろう、マザーは奈美恵の苦衷くじゅうを察した。


「娘が入学した当時は、慣れない雰囲気に緊張することが多うございまして。わたくしはクリスチャンではありませんので、教会のこととかも、マザーの開かれる会ではじめて知ったような、そんな無知なものですから」

「そうだったの。そんなに緊張するほど、怖いものだったのでございますか? お子さまをお産みになり、お母さまになられたことは、けっしてご自分のことだけではないのです。神さまが赤ちゃんをお預けになるのですから、どうぞ大切に愛してあげてくださいという御心を伝えたいのです」

「あの、いえ、そんな」と、慌てて奈美恵は否定した。

「マザーのお話をお伺いすると、いつも清らかな思いで満たされました。つい自分の都合で子どもに怒ってしまったときなど、至らない自分を知るよい機会でした。わたくしの申し上げたいのは親同士のおつきあいが辛かったことなのです」


 マザーはわかっていますよと奈美恵に向かって微笑んだ。


 人の業は深い。

 こうして個人的に会えば悪人などいない。しかし、集団となり大勢の人間がタペストリーのように重なりあうと、なぜか、その関係はねじれていく。日本の今、神さまの存在が本当に必要なのだ。それがマザーの祈りであった。


「ところで、お嬢さまは?」

「木曜日は午後六時まで中等部に行っております」

「向山麻衣子さんのことは、なにか仰っていらした?」

「お母さまのことで、かわいそうだと申しておりましたが、麻衣子さんは、ずっとお休みされているようです」

「そう……。シスター島原」と、マザーは微笑みながら言った。

「はい、マザー」

「柚木さんはお庭の手入れがお好きなのね。冬でも、とてもお花がきれいに手入れされておりますよ。見せていただいたらどうかしら? わたくしは、少しご主人さまとお話したいことがございます」

「そうですね、マザー。奥さま、お庭を拝見してもよろしいでしょうか」

「よろこんで」


 奈美恵は夫の顔を伺うと、戸惑いながらもシスター島原を伴って部屋を出た。二人が廊下を遠ざかる足音を確認してから、マザーは柚木に顔を向けた。


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る