第六話 今度こその決意

「あれ、北川きたがわ先生……?」

「言わないで。分かってるから」


 次の日、患者さんのところに向かう途中ですれ違った臼井うすいさんが、立ち止まって慌てた様子で引き返してくると私の胸元をのぞきこんだ。正確には私じゃなくて、私の白衣のポケットにあるものを、だけど。


 その場は黙って引き下がってくれた臼井さんだったけど、患者さんとの話を終えて詰め所の前を通りかかると、すかさず奥から出てきて、ポケットにさしているペンギンのボールペンを指さした。


「それってどう見てもペンギンですよね? アヒルを返してもらうんじゃなかったんですか? それがメインのランチデートだったはずですよね?」

「そうなんだけどね……」


 私の大切なアヒルは今頃、ホームシックで南山みなみやまさんの自宅か職場で泣いているに違いない。ああ、可哀想なアヒルちゃん……。


「もしかして、アヒルを持ってこなかったとか?」

「ちゃんと持っては来てたんだよ。その場で返してもらおうとしたら、帰る時まで預かっておくって言われちゃって。で、帰る時にそろそろ返してほしいって言ったら、なぜかアヒルの代わりにこれを渡されちゃったってわけ。それじゃあ会った意味がないじゃないって話だよねぇ」


 溜め息まじりの私の言葉に、臼井さんはおかしそうに笑った。


「ああ、きっとそれはアレですよ、北川先生とデートを続けるための作戦だ。やりますね、南山さん」

「やっぱり作戦なのか……」

「やっぱりってどういうことですか?」

「だって南山さんが、次の約束をとりつけるまでアヒルは預かっておくって言ってたから。今度は食事だけじゃなく、どこかに出かけたいんだって」

「それはそれは御馳走様ごちそうさまです~」

「なんでそこで御馳走様ごちそうさまなわけ?」


 意外な言葉が飛び出したので、首をかしげてしまう。一体どのへんが御馳走様ごちそうさま? だってそういうのは、もっとピンク色の惚気話のろけばなしを、吐き出している人に言うものじゃないの?


「だって次のデートの約束をしたってことでしょ?」

「別に具体的にいつ会うかなんて、決めてないよ。それに、アヒルを人質にして会う約束をとりつけるって、おかしくない?」


 それって人質交換の脅迫きょうはくじゃ?とニヤニヤしている臼井さんに反論するけど、彼女の考えは違うようだ。


「南山さんも、病院に閉じこもってばかりの北川先生を外に引っ張り出すためには、そのぐらいしないとダメだって、分かってるんですよ。さっそく、次のお休みを知らせてあげないといけませんね、きっと楽しみに待っていると思いますよ?」


 そこで何かを思いついたのか、臼井さんはニヤッと笑った。


「あ、でも。もしかして次も、アヒルちゃんは返ってこなかったりして」

「え、今度こそ絶対に取り戻すから」

「次の勝敗を楽しみにしてますね~♪」


 そんなことを楽しみにされても困るから。絶対に取り戻してみせるからと言っても「ハイハイ頑張ってくださいね~」と、聞き分けのない患者さんに向かって話すような、気のない返事が返ってくるだけだった。


 そしてそれから数日は回診に行く先々で、ペンギンのボールペンは注目を浴びて、ちょっとしたアイドルあつかいだった。皆から注目されて、心なしかポケットの中でふんぞり返っているようにも見えて、ちょっとムカついていたりする。だけど使っているうちに愛着がわいてくるのも事実で、やはり早くアヒルを取り戻さないといけないと思うのだ。



+++++



 私の元にペンギンがやって来てからしばらくして、あの御夫婦の旦那さんが退院する日がやって来た。元気になったせいか、ここしばらくの話題は病状のことより、もっぱら私のペンギンのボールペンと南山さん絡みのことで、御夫婦そろって公務員のメリットを、懇切丁寧こんせつていねいに力説してくれた。なんでそんなに公務員に詳しいのかと思っていたら、御主人も定年退職するまでは、某中央官庁のお役人さんだったらしい。


「本当にお世話になりました」


 ちょうど手術と手術の合間で時間があったので、主治医だった西入にしいり先生と一緒に見送りに行くと、旦那さんと奥さんが、深々と頭を下げて挨拶をしてくれた。


「良くなったからと言って、油断しないでくださいよ? これから大事になるのは、毎日の健康管理ですからね」


 西入先生が、ニッコリと笑いながらそう言った。こうやって見ていると、本当に爽やかな笑顔の先生で、とても手術中にいきなりオペラを歌いだしたり、東出ひがしで先生と東西漫才をしている人と同一人物とは思えない。


「次の定期検査の時には、この北川先生が厳しく数値のチェックしますからね。薬は忘れずに飲むこと。それと、なにか少しでもおかしいと感じたら、すぐに連絡すること。奥さんも大変でしょうが、御主人の食生活の管理をしっかりお願いしますね」

「心得ています。入院している間に、こちらの栄養士さんから色々と教えてもらいましたから」


 御主人の退院が決まってから、奥さんは西入先生の計らいで、病院の管理栄養士さんから旦那さんの食事ついて色々と勉強をしていた。御主人は、自宅に戻ってからも病院食を食べなきゃいけないのかとぼやいてはいるものの、久し振りに自宅で奥さんの手料理が食べられるということで、まんざらでもない感じだ。


「御主人もしばらくは慣れないかもしれませんが、奥さんを困らせないように」

「はい。今回の入院生活で、女房には頭が上がらなくなりましたから、おとなしく従うつもりです」

「まあ、そんなこと言って。あなたがおとなしくしているのなんて、ちょっとの間だけですよ。そのうちああしろこうしろって、うるさく言うに決まっているんだから」

「そんなことはないぞ」


 そうやって二人で仲良く言い合いができるのも、元気になった証拠ですねえと西入先生が笑うと、お二人は恥ずかしそうに笑って黙りこんでしまった。


「面倒でしょうが検査にはちゃんと来るように。その結果を見れば、御主人がおとなしく奥さんの言うことに従っているかどうかが分かりますからね」

「はい、ちゃんと来させます。言わなくても喜んで来るでしょうけど」


 奥さんは笑いながら、私に目を向けてきた。


「うちの人、そのペンギンちゃんがアヒルちゃんにいつ戻るのか、気になっているようですから」

「じゃあ来院される日には、かならず北川先生にいてもらわないといけないですね」

「お願いします。ではこれで……。本当にありがとうございました」


 そう言って御夫婦でもう一度頭を下げてから、玄関先で待っていたタクシーに乗りこんだ。


「こういう時があるから医者はやめられないんだよなあ」


 お二人を乗せたタクシーが病院のゲートから出て行くのを見送りながら、西入先生がつぶやく。


「こういう時?」

「自分が担当した患者さんが、元気に退院していく時」

「確かにそうですね。ああやって嬉しそうにお家に戻っていくのを見ていると、こっちまで嬉しくなります」


 もちろんそんな患者さんばかりじゃない。なかなか退院できない人もいれば、治療のかいなく亡くなる人もいるし、患者さんの家族がつらい決断をしなければならないこともある。現にいまの旦那さんも、元気になったとは言えお薬は飲み続けなければならないし、定期的に通院もしなくてはいけない状態だ。全員が元気になって、病院と無縁な生活に戻れるわけじゃないのが現実なのだ。


「たまにね、もっと何かできたんじゃないのかとか、自分のせいで患者さんの寿命を縮めてしまったんじゃないかって、悩むこともあるんだ」

「先生が?」

「そうだよ。俺だって人間だからね、医者を辞めたくなった時も過去には何度かあった」


 意外な言葉だった。


「だけどそういう時は、今みたいに元気に退院していった人達を思い出すんだ。で、何が何でもあの時の患者さんのような笑顔で、次の患者さんも退院できるようにするぞって、決意を新たにする」

「なんだか意外です。先生がそんな風に考えていたなんて」


 私の言葉に先生は顔をしかめる。


「まるで俺が能天気なドクターみたいじゃないか」

「そうじゃないですけど、西入先生がそんな風に悩んだり辞めたくなったりしていたなんて、意外だなって」

「前に言っただろ? 内心ビクビクしていても、見た目だけでも偉そうにふんぞり返ってろって。あれと同じだよ。見せないだけで、どんなにキャリアの長い医者でも、心の中では色々と葛藤かっとうがあるものさ」


 それから、少しだけ悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「まあ、そういう葛藤かっとうとは無縁のヤツもたまにいるけどね。うちの救命救急の主みたいに」

葛藤かっとうしてないんですか? 東出先生は」

「あいつの場合は、葛藤かっとうしているヒマがあったら、あらゆる手を尽くして突き進むってやつだから。どちらに転んでも結果が出た時は、自分にとってその時点で可能な限りの手を尽くした時なんだ。だから葛藤かっとうがない」


 本当にたいしたヤツだよねえと笑う。


「そこまで自分に自信が持てるなんてすごいですね、東出先生って。尊敬しちゃいます、怖いけど」

「恐れ多いだろ? 尊敬ついでに救命救急に骨をうずめるつもりは……」

「ないです。そちらは南雲なぐも先生にお任せします。それに新しく外から来た先生も、何人かいるんですよね?」


 南雲先生が救命救急に配置換えになったと同時に、理事長先生が何処からか新しい人員を引っ張ってきたらしいという話は、先週から集中治療室で働いている看護師の山田やまださんから聞いていた。事務局長が言うには、人件費の増加は痛いことだけど、これで少なくとも東出先生の食べ歩きはなくなるだろうとのことだった。だから目の前に見えている、サンドイッチを食べながら廊下を歩く東出先生の姿はきっと幻覚なんだと思う。


「それで? 盲腸さんのところで人質になっているらしいアヒルちゃんは、どうするつもりなんだい?」


 東出先生の幻覚を見送りながら、西入先生が質問をした。


「今度会う時には、なにが何でも取り戻しますよ」


 次に南山さんのお休みと重なる私の休みは、二週間後。シフトが決まった後にそうメールで知らせたら翌日には、映画を観に行きませんかってお誘いメールが戻ってきた。もちろんアヒルはお持ちしますと追伸に書いてはあったけれど、取り戻すまでは安心できない。


「完全に盲腸さんの作戦に乗せられちゃっているね」

「作戦とか関係ないですよ。あれは私のアヒルなんです、なにがなんでも返してもらわなくちゃ。絶対に取り戻します」


 西入先生、愉快そうに笑っているけど笑い事じゃないんですってば。私のアヒルちゃんは次で絶対、取り戻すんですからね!!

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