9.

「海来!」


 部屋に飛び込むと真ん中に敷かれた布団の盛り上がりがびっくうと大きく飛び跳ねた。


 大学で会えるかと思っていたが一緒に履修していたはずの一限にも二限にも海来の姿はなく、さてはサボったなと家まで押しかけてみれば案の定。ちなみにわたしたちはお互いの部屋の合鍵を持っているので不法侵入ではない。多分。


「海来、ほら布団から出て。それ朝から一歩も動いてないやつでしょ」


「は、遙華……なんで」


 おずおずと布団から海来の顔だけが出て来る。蹲っていたみたいで、頭だけが飛び出しているとカタツムリみたいだ。


「なんでって、告白の返事をしに来たに決まってるでしょ」


「い、いい! 言わなくていい! 嫌いにならないで!」


 すぽっと布団に引っ込んでしまう。どうもすっかり臆病になってしまったらしい。いつもの凛々しいナイト様はどこへ……とそこまで考えていけないいけないと首を振る。多分あれはわたしと一緒にいるために海来がたくさん無理をして作り上げた海来なんだ。だから、告白の返事を聞きたくないと布団にこもって出てこないこの弱気な海来こそが多分本当の海来で、それを否定する権利はわたしにはない。


 わたしは出会いからこっち、ずっと海来に一方的に尊重してもらっていたんだから。今度はわたしが歩み寄る番だ。


「ね、海来」


「…………」


「わたしやっぱりね、恋愛とか、よくわからないんだ。一夏にも、十年早いって言われちゃった」


 最初に言いよってきたのは向こうなのにね、と皮肉ってみたけど布団の中からはなんの反応もない。


「恋愛とかよくわかんないけど、でもわたし、海来のことは好きだよ」


 ぴくっと布団が動いた、気がした。


「今日家を出た時、海来がいないのを見てすごく落ち込んだ。わたし、自分でもびっくりするくらい海来に依存してたんだなーって思ったよ」


「……嘘じゃない?」


 布団の中から反応があった。どうも今日の海来は幼児退行気味だなぁ、と苦笑する。落ち込むとこんな風になるのか、とそれは新鮮な発見だった。


「嘘じゃないよ、証明しようか」


「どう、やって?」


「手、出して」


 わたしがそう言うと、いかにもおそるおそる、といった感じで布団の中から右手が差し出される。わたしは一度だけ大きく深呼吸してから、握手の要領でその手を握った。


 一瞬の沈黙。そして。


「はぁっ?」


 素っ頓狂な声を上げてがばっと布団が宙を舞う。布団の下から現れた(ファンシーなピンクのパジャマ姿の)海来は、自分の右手と繋がっているわたしの右手とわたしの顔の間をたっぷり三往復ほど視線を行き来させて、それからもう一度わたしの顔を見てやっと止まった。


「なん、で、触って、ウチに」


「あ、は。よかった、触れた。試してなかったから、実はちょっと賭けだった」


「え、だって、ええ?」


「好きだから、だよ」


「す――!」


「あ、いや、海来だから、かな。海来にだったら触りたいし、触って欲しい。まだちょっと慣れなくて、気持ち悪いけどね」


 そこは正直に申告しておく。人肌ってやわやわしてザラザラしてるのにすべすべで思ったより熱くてほんと気持ち悪い。何年もそれを避けてきた代償として、ほとんど未知の感触に冷や汗が滲む。でも。


「海来の手なら嫌な気はしない、な」


「ウチの手、だから?」


「手以外は、まだちょっと勘弁ね。ちょっとずつ慣らしていこ」


 今はまだこれだけで精一杯。でも、新しい関係の出発なら、それはここからで正しいのだ。


「今までありがとうと、これからもよろしくの握手ってことで、今はこれで許してね」


「ゆ、許す。許すよ、全然。だってこれ、すごく、すごく嬉しい」


「……あ」


 とく、と心臓の動いた音がした。それは大きくも、激しくもない鼓動の音だったけれど。胸がツンとする、甘いような切ないような音で。


「……十年なんて、いらないかも」


 触れてみればこんなに単純なことなのかと、拍子抜けする。

 好きも、恋も。きっと案外すぐ近く、この手が届く場所にあるんだなぁとわたしは笑う。つられて笑う海来の笑顔に、また一つ心臓が跳ねた。

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