第27話 白山菊理は動かない

 上良栄治と稲次浩太は、互いに暴虐の限りを尽くした。


 憎悪をぶつけあい、本気の殺意でもって争った。


 殴り、罵倒し、持っていた凶器で互いの体を抉り、削り合った。


 上良栄治は右腕を骨が覗くほど深く抉られ、腹部には何か所か刺し傷がある。


 顔面には殴られて出来た青あざがいくつも浮かび、前歯が一本根元から折れて無くなっていた。


 一方、稲次浩太は喧嘩慣れしていたからか、そこまでの傷は負っていない。


 いくつかの打撲痕や擦過傷、衣服に何か所か切れ込みが入っているくらいだ。


 刃渡りが30センチはあろうかというバタフライナイフを隠し持っていたこともあり、上良栄治を返り討ちしそうな勢いであった――――先ほどまでは。


「こん……のっ……デカブツ!」


 上良栄治は、部活動で鍛えた高いスタミナと恵まれた体格を生かして、とうとう稲次浩太を組み伏せることに成功したのだ。


「邪魔なんだよっ」


 上良栄治は無事な左手を使ってバタフライナイフごと稲次浩太の右手を握りしめ、丸太のように太いももを使って稲次浩太の胴体と左腕を締め付けている。


 これでは稲次浩太がどれだけ俊敏性において優れていたところで役に立たない。


 そもそも身長だけで20センチ近く差があり、筋肉の量では倍近いため、力では絶対に敵わないだろう。


「どけっ!」


 稲次浩太は馬乗りになられながらも、必死に抵抗を試みる。


 なんとか動かせる足を使って上良栄治の背中を蹴りつけたが、痛痒は与えるには勢いが足りていなかった。


「稲次……」


「汚ぇケツを俺の上に乗っけてんじゃねえ、くせえんだよっ!」


 いくら罵倒したところで固定されてしまった状況は揺るがない。


 稲次浩太は殺される側。


 上良栄治は殺す側だ。


「死ね」


 上良栄治はこれから訪れるであろう未来を口にすると、左手に力を籠めた。


 稲次浩太が握っていたバタフライナイフの刃先がじりじりと角度を変え始める。


 上に向いていたのが水平に。


 水平から地面――すなわち稲次浩太自身へと。


 ゆっくり。


 ゆっくり。


「くそぉっ」


 確実に迫り始めた死に怯え、稲次浩太は悲痛な叫び声をあげる。


「白山ぁっ!」


 ――私の名前、だ。


 1組の使っていた教室には、殺し合うふたりのほかに私だけが残っている。


 他は逃げたか――死んでしまった。


 海星さんは、殺されてしまった。


「そこに落ちてる鉈ぁ拾ってコイツを殺せっ!」


 そんなことを言われたところで私は動かない。


 心に現実が入ってくるのを拒んでいるから、動けない。


「早くしろぉっ!」


 私の心はからっぽで、動かなくなってしまった海星さんの体を抱きしめて、ただ座っていた。


「この役立たずがっ! てめえがんな――」


「うっわ、稲次が殺されそうになってるとかマジ受けるんだけど」


 教室に居た三人以外の声がして、一瞬、全員の動きが止まる。


「――っ」


 私が顔を捻って視線を教室の入り口に向けると、中水美衣奈を先頭に、崎代沙綾と響遊が立っていた。


 彼女たちはそれぞれ手に箒や消火器などの凶器を持っており、なにをしに来たのかは一目瞭然である。


 逃げなかったのか、という疑問は湧いてこない。


 逃げられないことは、私自身がよく知っていたからだ。


 上良栄治がただ騒動を起こせば警察官が即座にやってくる。


 それを防ぐためには物理的な壁を作って足止めするか、警察官全員が持て余すほど大きな事件を起こすしかない。


 夜見坂くんは後者を提示して、上良栄治もそれを受け入れた。


 大勢を怪我させるための手段はとても簡単なものだ。


 階段に同色のゴムマット――これは補修用のものが用務員室にあった――を敷き、その下に洗剤を撒く。


 こうすれば、誰か一人が足を滑らせれば、そのマットの上に乗っている全員が巻き込まれる。


 そのうえ、中段以下に洗剤を撒いていれば、より多くの人が犠牲になるだろう。


 こうして多くの生徒たちを傷つけて移動力を奪ったところで本命の罠が発動する。


 マットの上に置いてあった塩素系洗剤がこぼれだし、あらかじめ踊り場付近に撒いていあった酸性洗剤と混ざって塩素ガスを発生させるのだ


 全員を必殺とまではいかないだろうが、それでも多くの犠牲者を生むだろう。


 そして、救助しようとする警察官が踏み込むことも難しくなる。


 つまるところ、罪を犯そうとしている上良栄治から見れば、それだけ長い時間的余裕を生む。


 今この瞬間、1年1組が使っているこの教室は、時間的な密室と化していたのだった。


「た、助けろっ!」


 稲次浩太が必死な声で中水美衣奈たちに泣きついた。


 死を前にして、助かる道筋が見えたのだから、必死ですがりつこうとするだろう。


 人間として当然の行いだ。


「ど、どうするんですかっ!?」


「どうするって言われてもさ~……」


 ――行いだけれど、ひとつ、とても大事なことを彼は忘れていた。


「なんで私がそんなことしなくちゃいけないのよ」


 中水美衣奈は細長い棒を肩に担いで首をかしげてみせる。


「コイツはお前を殺そうとしただろうが!」


「……アンタがしたこと、私は忘れてないんだけど」


 稲次浩太は嗤っていた。


 中水美衣奈が上良栄治に殺されそうになっていた時、稲次浩太は手を叩いてはしゃぎ、もっとやれとはやし立てていた。


 そんな相手を助ける気になるであろうか。


「いいから早く殺せば~」


「てめぇっ!」


「…………」


 背後から襲われる危険が無くなったからか、上良栄治が動き出す。


 人間とは思えないほどの膂力りょりょくを発し、稲次浩太の腕をじっていく。


「くあぁぁぁっ」


 バキバキと骨の砕ける音が稲次浩太の手から響き、彼の指が抵抗する力を失ってしまう。


 ついに刃先は真下を示し――稲次浩太の心臓を射程に捉えた。


「こ・ろ・せっ。こ・ろ・せっ」


 逆の立場になったことがそれほど嬉しいのだろう。


 中水美衣奈は満面の笑みを浮かべ、手を打ち鳴らして音頭を取る。


 彼女の背後に居るふたりは対象的で、崎代沙綾は興味ないのか冷めた目で殺害現場を眺め、響遊は消火器を抱いたままおろおろと視線をさまよわせていた。


「ざけんなぁっ!」


 力を入れるために上良栄治が顔を近づけたことが仇となった。


 稲次浩太はナイフの刃先が胸先を抉ろうとも臆することなく体を曲げて、額を上良栄治の鼻っ柱に叩きつける。


 今できる唯一の抵抗。


 上良栄治はたまらず上体をのけぞらせる。


 それによってほんの少しだけ隙が生まれ――。


 稲次浩太はその隙を逃さなかった。


 固められていた左腕をするりと抜いて、ナイフを握る上良栄治の手を掴んだ。


「へっ。これで――」


 ――だが、出来たのはそこまでだった。


 稲次浩太は両手を使って動かそうとしているのに、ナイフの刃先は万力で固定されているかのように、1ミリたりとも動かない。


 死という未来は、揺らがない。


「ざ~んね~ん、無駄でした~」


「さっきからうっせえ!」


 いら立ち紛れに中水美衣奈へと罵声を浴びせ――迫り始めたナイフへ慌てて意識を戻す。


 少しでも気を抜けば、一瞬でナイフは稲次浩太の心臓を食い破るだろう。


 食いしばった歯の隙間からは音を立てて呼気が漏れ出し、顔は壮絶な形相の上、真っ赤に染まっていてまさに地獄の鬼もかくやという様相であった。


「づっ――うぅっ」


 無事な左手に加え、骨の砕けた右手をも使って懸命に耐える。


 複雑骨折した指がふたりの力で押しつぶされてしまっては、もう元に戻ることなどない。


 それでも、死ぬよりはましだ。


 死んでしまえば全てを失うのだから。


 だが、そこまでしても刃は稲次浩太に迫ってくる。


 終わりのときは、もう目の前にあった。 


「くそっくそっくそっ!」


 ナイフの先が、稲次浩太の皮膚を浅く削り取る。


ーれ、ーれ! アッハハハハッ!」


「ああああぁぁぁぁぁっ!!」


 稲次浩太が叫ぶと同時に、白光りする牙がぞぶりと喰らいつく。


「ちくしょうっ! ちくしょうっ!! ちくしょうっ!!!」


 その後悔はいったいなにに対してだろうか。


 ここで殺されることに対してか。


 うまく殺せなかったことに対してか。


 不用意に夜見坂くんの言葉に乗ってしまったことに対してか。


 きっと、自分自身の素行を正すべきだったと後悔することは……ないだろう。


「くそおおぉぉぁぁぁぁ――」


 押し込まれた刃が1センチ、2センチと進むにつれて、後悔は悲鳴へ、そして苦悶の叫びに変わり、やがて肺に血が流れ込んだのかゴボゴボという不明瞭な物音へとなり果てていく。


 ふっと上良栄治が息を吐くと、一瞬ナイフが稲次浩太から抜ける。


 もちろん、意図してのこと。


 許そうという意志はない。


 ナイフはほんの少し横にずれ、更なる殺意を以ってもう一度押し込まれる。


 抵抗する力は、小さい。


 更にもう一度、もう一度と、致命傷を越えて。


「はぁっ」


 大きく一度息をついて、また一度。


 今までよりも力強く、上良栄治の全体重が籠められた一撃が襲い掛かり――。


 稲次浩太の体が大きく一度、びくりと痙攣して……止まった。


 稲次浩太が死んだのだ。


 終わったなんて思う間もなく、上良栄治の返り血で汚れた顔が、ぐりんとこちらを向いた。

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